憧れと執着

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憧れと執着

◇◆◇  頬が触れている床の冷たさと硬さで目が覚めたのは、おそらくひと月ほど前のことだ。翠への想いが複雑化してしまい、誘いをかけた手を振り解いてしまった、あの日。  謝ることも出来ないまま現場に向かって、そのことに気を取られてしまった一瞬の油断が仇となり、大きな崩落に巻き込まれてしまった。そして、そのまま意識を失い、気がついたらここに運ばれていた。  ここがどこなのかは、今でも全く分かっていない。  俺はガイドだから、五感でものを判断するのは難しい。ただ、この季節特有の僅かなカビ臭さと、音の響き、時折聞こえる誰かの外出音から判断すると、ここがどこかの住宅の地下室だということだけは理解できた。  後ろ手に親指を合わせ、それをインシュロックで結ばれていて、トイレの時と食事の時以外は、ずっとベッドの上に座らされている。  よく考えられていると感心してしまうくらいに、うまく監禁されていた。  ベッドに座っている生活をさせていると、場所さえ覚えてしまえばトイレにも一人で行けるのだ。立ち上がれる角度や高さが計算されているのか、一人で行動しやすくなっている。食事は目の前に出され、首を突っ込めば食べられる高さに調節されていた。品はないけれど、人間としての最低限の生活は保たれている。  だからこそ、一体何のために俺をここへ連れてきたのかが、全く理解できずにいた。殺してやりたいほど恨まれているわけでもなく、身代金の取引をしている感じでもない。  ただ、俺がここにいないと不都合があるようだということだけは言える気がしていた。特級レベル1以上のガイドを誘拐などしようものなら、公務執行妨害と同じ扱いの犯罪になるからだ。  前科者になってまで、どうでもいいと思っている人間を誘拐しようとは、誰も思わないだろう。この誘拐には何かしらの目的がある。それだけは、間違いない。  一つだけ分かっていることがあるとすれば、犯人は二人組だということだ。一人はミュート、もう一人はガイドだろう。  ガイドとして高レベルの俺は、俺よりレベル下のセンチネルとはボンディングしていなくてもテレパスすることができる。それなのに、俺が触れても、二人ともテレパスすることが出来なかった。  そうなると、俺よりレベルが上のセンチネルだということになるが、該当するセンチネルは世界に三人しかいない。そのうちの一人が翠だ。残りの二人がこの場に揃っている可能性は、限り無くゼロに近い。  そして、ごくたまにではあるけれども、ケアをした後の倦怠感が辛いというような話をしているのが聞こえることがある。もう一人の男は、それを理解することが出来ないらしいから、ミュートだと判断した。  でも、分かっているのは、それだけだ。それ以外は、何もわからない。 ——翠……。  本来なら、どれほど物理的に離されることがあったとしても、スピリットアニマルを飛ばせば、お互いに連絡を取ることは出来る。俺たちは滅多にそれをしないけれど、お互いに龍のスピリットアニマルを連れているから、どこであろうと連絡を取ろうと思えば取れる。  ただ、ここがどこなのかが全くわからないから、それも難航していた。それに、おそらく俺は目を潰されている。痛みは無いけれど、目隠しもしていないのに、周囲が全く見えない。  時々感じる違和感から、おそらく見えなくなるようなコンタクトを入れられているのだろうと判断している。場所に関して少しの見当もつかないとなると、龍であっても呼び合うには時間がかかる。 ——でも、翠の方から見つけてくれないってことは、俺はもう必要とされなくなったのか?  そんな弱気が顔を出すこともある。そういう時は、必死に被りを振って、こう呟いた。 「俺たちは、二人で一つだ」  その言葉だけが、今の俺を支えている。 ◇◆◇  濃い藍色の空の中に、ぼんやりと浮かぶ白い満月。その形を見ていると、二年前にビルから落ちて死んだナオのことを思い出す。『まるで暗闇に浮かぶ月の中に吸い込まれていったみたいにね……』ナオのパートナーだったトモが、落ちていった様子をそう教えてくれた。  センチネルを失っても、ガイドは生きていける。トモも、寂しそうにはしているけれど、毎日仕事をして、今をしっかり生きている。でも、俺はセンチネルだから、どうしても考えてしまうことがある。 「俺たちって、結局は代えが利くんだよな」  俺たちを孤独へと縛りつけるその言葉を、思わず零してしまった。  蒼が俺のことを捨てたんじゃないと分かって、一気に戻った活力は、蒼の匂いを嗅いだことで完全に元に戻すことができた。俺の体には、そうやって奇跡を起こせるくらい、蒼の存在が大きく影響する。 ——でも、蒼はどうだろう。  どれほど頑張っても、スピリットアニマル同士が出会えない。普段使わなかったから、へそを曲げているのかもしれない。それならいい。  そうでなければ、蒼が俺と連絡をとりたくないと言っていることになる。そんな風に考えたくは無いけれど、どうしてもそう思ってしまいがちだ。 「会いたいよ」  高校で俺を本当の意味で見つけてくれてから、仕事以外でこんなに離れたことなんて無かった。お前は今どこにいるんだろう、そんな風に考えて眠れなくなる夜が来るなんて、少しも思っていなかった。  俺が倒れた日と同じように、暗い部屋に浮かぶ白い月の光の中、俺は蒼の匂いが僅かに残ったシャツに包まれていた。それも、もうほとんど匂いが消えていて、孤独感に打ちひしがれそうになっている。 「このままだと、寂しくてアウトするぞ……」  そう独言た時に、ふと蒼の香りがすることに気がついた。俺が握りしめているシャツよりも、香りが新しい。もしかして、帰ってきたのかと思い、思わず駆け出した。  それは、二人で暮らしているペントハウスの中だからこその油断だった。  今日の昼に手に入れた、蒼の匂いがする紙袋。俺はそれが欲しくて、田崎にくれと言った。でも、帰ってきた言葉は、「分析するからダメだ」という厳しいものだった。でも、それは田崎が正しい。だから、俺は大人しく引き下がったんだ。  それがなぜか今になって、廊下からその香りがする。蒼が帰ってきたのか、あの紙袋を持った田崎が来たのか。玄関の入り口ドアの鍵を持っているのは、俺たち三人だけだから、心底安心していた。 「蒼っ……」  思い込みによる油断。ドアが開いた先にいた人物は、ニヤリと笑った。そして、「こんばんは、鍵崎さん」と言いながら、手にしたスタンガンを俺に押し当てて来た。 ◇◆◇  ドンっと何かが壁にぶつかる音がした。その衝撃が俺の体に伝わったということは、隣の部屋で何かが起きているということだろうう。俺は壁に耳を当てて音を聞くことにした。幸い、聴力には何の影響も与えられていない。 「おい! 感激してないでさっさとやれよ! お前の長年の想いが成就するんだろ? 俺は少し血を貰えればそれでいいから、早くしろ」 「まあ待てよ。ああ、本当に手に入るなんて……三十年待った甲斐があった。嬉しくて手が震えるんだよ。見ろよ、この顔……実花にそっくりじゃないか? それに、良弥の血が流れてるんだから、お前だって嬉しいだろ? すぐに済むから、そう焦るなよ。とりあえず、そこに寝かせてくれ」  俺を誘拐した犯人たちは、そう言いながら何かの準備を始めたらしい。ガチャガチャと音を立てながら、誰かを寝かせているようだった。 ——さっき実花って言ってたよな……それと、良弥。どこで聞いた名前だった?  この一月ほど、何も無い部屋でただひたすら時間が経つのを待っていたからか、思考がかなりぼんやりとしていて、あまりすっきりと物が考えられなかった。  その名前を聞いた可能性を、時間を遡って探していく。崩落した現場、それに向かう前の日、澪斗さんに呼び出されて激怒した日……。  そうだ、その日は、翠に血縁がいると知った日だ。永心の兄弟たちと、野明の血で繋がっていることが分かって、勝手に孤独に陥ってしまった日だ。その時、野明未散の弟夫婦の名前を聞いて、それが翠の両親だと知って……。 ——実花、良弥……。野明夫妻の名前だ。あの二人、野明夫妻の知り合いなのか?  そこで俺はようやく気がついた。今、あいつらはここに連れてきた人間を、野明夫妻にそっくりだと言ったのだ。それはつまり、隣にいるのは、翠だということになる。 ——嘘だろ?  信じたくは無いけれど、その可能性もあるとして考えてみる。もし、隣にいるのが翠なのであれば、さすがにこの距離ならスピリットアニマルが反応するはずだ。 ——隣にお前の番がいるかどうか、見て来てくれ。  そう念じて、龍を送り出した。  戻ってくるまでの時間が、永遠のように長く感じた。隣では、ひたすらにカチャカチャと、何かの器具か機械を扱う音がしていて、それを使われるのが翠かもしれないと思うと、胃の辺りから何かが込み上げて来そうになる。 「ほら、お前はこれだけあれば足りるだろう?」  そう呟く声が聞こえた。 ——なんだ? 何を渡したんだ?  カチャッと軽い金属に何かが置かれる音が聞こえた。そして、今度はそれが持ち上げられる。 「十分だ。分析してそのコードを打てば、あの鍵が開けられるぞ」 「じゃあ、お前はそれで足りるよな。俺は、こいつの体から抜けるだけ抜かせてもらうから。また、後始末頼むぜ」 「ちっ、めんどくせえな。それはあいつらに頼めよ。俺は直接は関わらないようにしてるからな。立場上、困るんだよ」  俺は二人の会話を聞いていて、背筋が冷えていくのを感じた。人の体から抜けるもので、抜けるだけ抜いたら後始末が必要になるもの。誰かの立場を悪くするようなもの……最も単純に考えて、それは血だろう。 『沖本はその血を欲しがっていた』  澪斗さんは、確かそう言っていた。そうなると、やっぱり隣にいるのは翠だということになる。 ——翠! 答えて! 龍をよこせ!  拘束されて一月の間、俺は一度も焦りを感じることはなかった。このまま翠と一緒にいられなくなるなら、それはそれで受け入れようとすら思っていた。  でも、俺のすぐ近くで、翠の命が危機に瀕しているなら話は別だ。俺はどうなってもいい。でも、翠を傷つけることだけは許せない。かといって、こういう場合には、ガイドには何もできないのも事実だった。  俺たちは、センチネルのためにいる。センチネルを救うためにいる。その効果は、物理的にセンチネルに接している時にしか、発揮することが出来ない。 「このままここにいなくてもいいぞ。しばらく時間がかかるからな。それに、お前はまだ捜査中だろう?」 「ああ、形だけでも指揮をとって、捜査を撹乱しなくちゃならんからな」 「半日くらい経って戻って来れば、ちょうどいいだろう」  そう言って、二人は部屋を出て行った。その扉が、錆びた蝶番の音を鳴らしている間、翠が完全に眠らされていることを理解した。そうでなければ、今のような音は耐えられるはずがない。  半日戻らないと言っていた。だったら、ここを半日以内にどうにかして田崎に知らせなければならない。それも出来るだけ早くだ。 ——捜査を撹乱させるって言ってたってことは……。  犯人のうちの一人は、沖本だろう。それはもう、間違いない。そして、二人目もおそらくあの人だ。 ——まさか、こんな形で対峙することになるなんて……。  散々お世話になった者同士じゃないか、と俺はポツリと呟いた。そして、これまでの日々にほんの少しだけ思いを馳せた。 ——でも、感傷に浸るのは翠を助けてからだ。  そうだ。今最も大切なことは、どうやって翠を連れ出すかを考えることだ。怒りに湧き立つ心を、必死に冷静になろうとしても、なかなか抑えることが出来なかった。  そして、結果としてそれはいい方向へと向かう。  ガイド特級レベル10の俺は、この日、自分の限界を超えた力を手に入れることになった。
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