かえらない1

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かえらない1

「翠」  ドアを閉め、タイマーをセットした後に一息ついていると、蒼が階段を昇ってやってきた。今悲恋のカップルを見たばかりだからか、近づいてくる愛しい男の顔を見れたことに、俺は胸が高鳴った。 「どうした? なんで外にいるの……って、訊くまでもないか。ミチが待てなかったんだろ?」  呆れたように笑いながら俺の隣に立つと、髪にキスを落として来た。そして、優しくハグをしてくれる。 「あー、癒されるー! なんか最近全然翠にゆっくり触れなかったから、俺も今いっぱいキスしとこ」  そう言って俺の返事も待たずに顎をぐいっと持ち上げる。そのまま思い切り吸い付いて来たので、俺も驚いてしまった。 「んっ」  触れた部分から、甘い痺れが起きていく。体がふるりと震えた。振り解こうと手を伸ばすと、その手に指を絡ませて繋がれてしまう。  蒼はどうしてもキスをしないと気が済まないのか、珍しく俺の意思を無視して突き進んでくる。 「だって、どうせこのタイマー鳴るまではここで待つだけなんでしょ? 大丈夫、これ以上のことはしないから……」  そう言って、離してくれないどころか、俺の腰を強く掴んで引き寄せ始めた。本当は俺だってそれに応えたいし、どちらかというと俺から跨りたいくらいの気持ちはある。  あの拒絶された時以来ゆっくり眠る暇もなくて、出来るならこのまま隣のドアを開けて二人で自腹く閉じこもりたいくらいだ。 「ちょ、だめだ……って、もうっ!」  ジタバタしながら蒼を振り払おうとしていると、突然蒼の頭を誰かが叩いた。 「いってえ!」  蒼が頭を抑えるために手を離した隙を狙って、素早く体を離した。あのままだと、俺が戻れなくなりそうだったので助かった。 「何だよ、誰……あ、田崎。あれ? みんなどうした? みんなで話聞くことになった?」  見上げると、そこには呆れ顔の田崎がいた。そして、その後ろには、楽しそうに笑っている咲人と、真っ赤な顔で照れている野本がいた。 「……翠が五分経っても入ってこないからって、ミチが連絡くれたんだよ。何やってんだよ全く。……ほら、いくぞ」  田崎はそういうと、客間のドアをノックをして中へと入っていった。俺と蒼も慌てて中へと入る。その後ろから、ずっと笑っている咲人と野本がついて来た。 「この状況でサカれるってすごいな」  面白がった咲人が、蒼に言うと、「うるさい。お前らと違って俺たち、最近全然ゆっくり出来てないんだよ」と返した。 「まあ、これが終わったらしばらくゆっくりできるんじゃねーか? とりあえず最後まで突き進むしかねーよ」  咲人がそう返すと、皆一様に表情を引き締めた。 「そうだな」  そして、明菫(あきずみ)とミチの前に並ぶと、全員で一礼した。 「お久しぶりです。田崎です。この度は、こちらの聴取にご協力いただきありがとうございます」  田崎は、VDSが力を入れている、クラヴィーアやイプシロン等の研究に協力してくれている家の人間である明菫に対して、礼を欠くことのないように、慇懃に挨拶をした。  しっかりと頭を下げ、無茶ばかりをして迷惑をかけていたとはいえ、白崎の人間として残してきた明菫の功績を、蔑ろにしない姿勢を見せた。 「こんな俺にそんな丁寧な対応をまだしてくれるなんて……こちらこそ、お礼を言わねばなりません。ありがとう。それに、俺はここにいることで、田坂の手から守られるわけだ。その意味でもありがたい。それに……アイに会わせてくれて、ありがとう」  そう言うと徐に立ち上がり、ゆっくりと頭を下げた。隣でミチもそれに倣う。 「えっ? あの白崎明菫が人に頭を下げてる……」  その場にいた全員が驚いていた。あの白崎明菫が人に頭を下げている姿など、これまで誰も見たことがない。  中身が伴わない上に傲慢で扱いにくい人物として名を馳せていたあの人物が、こんなに態度を軟化させようとは、予想だにしなかった。そして、その中でも、咲人の驚き方は群を抜いてすごかった。 「お、おじさんが人に頭を下げている……」  大きな目がこぼれ落ちそうになる程、目を見開いていた。  俺と蒼も同じ気持ちだったので、咲人の反応が大げさで無いことはわかる。永心グループ内でも噂が回るほどに有名だった明菫の悪評を考えると、その驚きようには納得がいく。  明菫が頑なで横柄だったのは、愛が受けられなかったことが大きい。今はそれを手に入れているからなのか、素直で驚いてしまう。 「変わりましたね。それほどミチの存在は大きいですか?」  俺が尋ねると、明菫は「はい」と言って頷いた。ミチは隣で嬉しそうに微笑んでいる。ミチもまた、愛すべき対象から愛が返ってくることに喜んでいるからだ。 「でもね、明菫さんが私に対して素直に愛を表現できるようになったのは、多分照史さんのおかげなんだ」 「……父さん? 父さんが何か言ったんですか?」  咲人が問うと、明菫は困ったように笑った。そして、恥ずかしそうに頭をかきながら言う。 「照史さんが亡くなる前、あのオーバードーズで入院していた俺に会いに来てくれたことがあるんだ。その時に言われたんです。愛すべき人を間違えるな、気がついているのなら、躊躇わずに甘えなさいって」  そう言うと、顔を赤らめてミチを見た。その視線を受け止めると、ミチはほんの少し目に涙を浮かべた。 「最初は、俺もアイも環を失ってしまった喪失感を埋め合うような関係でしたけれど、でも、面会を続けてるうちに本当に大切になってきて。今になって、照史さんの言う通りだなと思います」 「そうですか……父さんがそんなことを。俺、本当に父さんのこと、何もわかってなかったんだな……」  咲人はそう言って、寂しそうに笑った。 「でも、思っていたよりいい人だったのなら、嬉しいことです」  咲人がそう言うと、明菫は顎を引いてそれを肯定した。「それは間違いないです。今なら、俺もそれを肯定できます」と苦しそうに呟いた。 「では、明菫さん。照史さんからミチを大切にしろと言われたのでしたら、教えてください。どうして、田坂は不完全なイプシロンを息子の池本がばら撒くことを止めなかったのですか? そもそも、なぜ不完全なものを作ったのですか?」  田崎が話を本筋へと戻していく。そうだ、なぜイプシロンが完全な能力喪失ではなく、時限性のあるマスク効果のみの製品になったのかを聞かなくてはならない。  明菫はそれを聞くと、寂しそうに笑った。そして、ミチの手をとり、それを優しく握り込みながら答えた。 「それは、環の優しさです。能力があることを不満に思って、能力を無くそうとする。でも、実際に無くしてしまった後に、戻りたくなった場合は絶望するしかなくなる。だから、一度マスクをして生活してもらい、元に戻りたくなったらそのままにしておけば自然に戻れて、能力のない生活を続けたければ、また薬を飲むようにすればいいという調合にしたと聞いています」 「なるほど、そうなんですか。でも、それだけなら、そのことを知られているからと言って、なぜあなた達の命が狙われるんですか。そんなことが田坂にとってどう問題になるんでしょうか。そのあたりに思い当たる節はありますか?」  田崎の問いに、明菫は大きく頷いた。そして、ぎゅっと眉根を寄せて目を瞑った。 「あります。そして、その話を永心の人間の前ですることが、今の俺には辛い。もう取り返しのつかないことばかりだ。申し訳ない気持ちでいっぱいで……」  そういうと、手で顔を覆い俯いた。思いが昂ったのか、しゃくりあげているようにも見える。ただ、話す意思は固めていたようで、僅かに鼻を鳴らし、目を潤ませながらもしっかりと顔を上げた。 「でも……いいます。だから、聞いてもらえますか?」 「もちろんです。聞かせてもらえますか?」  明菫は鼻を啜ると、何度も首を縦に振った。「はい」と答えると、拳を握りしめて俺たちを見据えた。 「イプシロンに時限性マスクをつける調合をしたのは、環です。ただ、それをあいつが一人で決めて実行できるわけがありません。その提案は、創薬の会議の上でもちろん田坂にも伝わっています。それに許可を出したのは、田坂にとってそれが都合がいいからです」 「効果が切れる作りの方が、また買わせることが出来るからですか?」  商売上の観点であればそうなるだろう。俺もそうだろうと思っていた。でも、明菫はそれを否定する。確かに、そんな理由なら別に隠す必要はない。 「時限性のマスクで能力が失われたと世間に思わせて、私的に利用したかった人物がいたんです。利用された本人は、精神的に問題を抱えていたから、自分が誰にどんな目的で利用されているのかなど理解していなかった。亡くなるまで、ずっと雇用主が重複していたことは知らなかったと思います」 
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