2人が本棚に入れています
本棚に追加
腐れども鯛の縁
着物もドレスもスーツも歩く街で、袴を履いた私は困ってる。
「お嬢ちゃん、買い物帰り?」
まるで知らない人に話しかけられてしまった。
ゆったりとした男ものの和装の下にシャツを着て、革靴とカンカン帽を合わせている。
「おれ様の服、イイだろぉ。ハイカラ紳士な出で立ちだぜ」
香水を付けているのか、鼻先に花を押し付けられたような心地がした。
「ここらじゃ買えない香水だよ」
愛嬌のある笑顔に見下ろされる。私の頭の先はこの人の肩に届かない。
「重そうだけど一人で運んでるの? えらいねぇ。手伝うかい?」
大きい体を屈めてかける声は……女の人かな?
しどろもどろに「え、いや、大丈夫ですよ」と、馴れ馴れしい怪しいハイカラから逃げ出そうとした。
「ああ、怖がらないで。おれ様は君を怖い目に遭わせやしないよ。千代ちゃん」
三ツ谷千代――私の名である。
あの、なんで初対面の私の名を知っているんですか?
こう聞こうか。いや、相手はカマかけているだけかもしれん。
でも、逃げれば認めたようなもんだしなぁ。どうしよう?
「あ! 悪かった! おれ様が君のこと知ってるのは事情が……そうだ、久遠先生の所へ連れて行ってくれよ。あの人からおれ様のことを教えてもらえばいい」
そうやって私らの家に危害を加えるつもりか? でも、久遠先生なら家にいるし、何かあったら何とかしてはくれるよね。
「君はしっかりしてるね。そうだ。おれ様が魔なら久遠先生がすぐにやっつける」
久遠先生の知り合いですか?
「そうだよ」
「すみません」
落ち着いた声が割って入る。
声の主は白い狩衣に黒い指貫、そして烏帽子を身に着けていた。
文明開化の音が響き渡る街には不釣り合いなのかもしれない。
だが、髪の短い女――千代は見慣れた人物の登場に安心していた。
古めかしい衣装の人物は、切れ長の眼の内に澄んだ瞳が置かれていた。
「ここではなく、清水さんのいる所に行きませんか?」
最初のコメントを投稿しよう!