もういっしょにいない

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もういっしょにいない

 七月最終週の月曜日は、出校日だった。そこそこにやった宿題を提出して、先生の話を聞いて終わり。帰りのあいさつをして、体育館前へと移動する。そこで、通学団に分かれて、下校する。  またあの炎天下の通学路を帰らないといけないのかと思うと、うんざりするけれど。 「あー。通学路全体に、クーラー設置してくんないかなあ。誰か」 「時也。あんたまたいってんの」 「んだよ。莉子もそう思うだろ」  また、時也と莉子がランドセルを背負い、歩き出す。ぼくもふたりに続いて、昇降口へと向かった。  教室から出ると、すぐ右に図書室がある。入ってすぐにあるのは、貸し出しカウンター。そのなかには掲示板があって、読書感想がコンクールの絵が貼りだされている。今年の三月に卒業した神代くんの絵もまだ飾ってある。  カウンターの向かいには児童文庫がすらりと並んでいる。その横の棚には科学の本棚、植物の本棚、動物の本棚。奥には絵本、児童文庫、名作童話の棚。他にもたくさんの本が図書室には置かれている。  この本たちを小学校にいる六年間で、どれだけ読めるんだろう。全て読みつくしてから卒業した児童がいるなら会ってみたい。  図書室を避けるようになってから、ぼくも本を借りる機会が減ってしまった。図書館で借りればいいか、なんて思うと、図書室に行く気はますますなくなってしまう。  尽と蓮くんが、図書委員をやっているところを見たくない。見たら、胸が苦しくなってしまいそうだったから。 「鈴原くんたちが、書庫でさぼってる、ですか……」  そろそろ昇降口に向かわなきゃと思っていたら、話し声が聞こえてきた。泉先生の声だ。 「はい。それも、何回も。貸し出ししたい子がいても、カウンターにいないから困るって、何人かの児童のみんなから苦情が来てます」 「そうなんですね。わかりました。ふたりと話してみます」 「お願いします……」  やばい。聞き耳を立ててたのがバレる。ぼくはそろそろと図書室から離れると、昇降口へと走った。  一階の靴箱で、うわばきを脱いでいると、後ろからどすっと衝撃がきた。ランドセルを殴られたんだ、と気づき、ふり返ると、尽と蓮くんがにやにやとぼくを見下ろしていた。  結人がぼくの顔をのぞきこんでくる。 「遅かったな。何してたんだよ」 「別に……」  ぼくはそっけなく答え、運動靴を靴箱から出して、気づいた。靴が、ぐっしょりと濡れている。  顔をあげると、尽と蓮くんはすでに靴にはきかえて、昇降口を出て行こうとしていた。尽が「おい」と、ぼくを呼んだ。 「早く行かないと通学団に置いていかれるぞ」 「うん……」  からだが固まってしまって、動けなかった。手が、緊張でしびれている。心臓が、肋骨のなかで暴れている。頭が働かない。  どうして、靴が濡れているんだろう。どうして、尽と蓮くんがここにいたんだろう。そのふたりはもう、ぼくを置いて行ってしまった。  ぼくは、どうやって帰ればいいんだ。 「砂生さん。まだこんなところにいたの」  階段から、泉先生が降りてくる。図書室での話が終わったのか、少し疲れたようにして、ぼくの手元に気づいた。 「どうしたの、靴」 「なんでか、濡れてて……」 「休み時間に水浴びでもしたの? 代わりにうわばきをはいて帰りなさい。ちゃんと洗ってきてくださいね」  休み時間に水浴びなんてしてない。ぼくは何もしてないのに、靴が濡れてたんだ。  泉先生のいい聞かせるような視線に、ぼくの頭が一気に冷えていく。  ぼくは持ち帰ろうとしていたうわばき入れから、うわばきを出して、黙ってはいた。泉先生は何事もなかったかのように、職員室のほうへと歩いて行く。  早く、通学団のところへ行かないと。濡れた靴をうわばき入れに突っこんで、ぼくは昇降口を出た。  家に帰ると、ちょうど玄関にいたお母さんが、驚いた顔をしてぼくにかけよった。 「なんでっ?」 「な、なにが」 「どうして、うわばきで帰って来てるの? 靴は?」 「あー。濡れちゃって」 「水浴びでもしたの? 暑いもんねえ」 「靴、うわばき入れに入れて持って帰ってきた。いろいろ、砂とか落とさないといけない」 「ひとまず、ぜんぶ庭の水道で洗って来て~」  玄関でランドセルを下ろすと、サンダルにはきかえて、靴とうわばきと、うわばき入れを持って、庭の水道に向かった。  ばらばらと蛇口の下にそれらを放り、じゃばじゃばと水を流す。ブラシでうわばきを洗い、別のたわしで靴を洗った。うわばき入れの砂もていねいに落としていく。 「何やってるんだろうなあ、ぼく」  こうなることは、わかっていたはずなのに。覚悟はしていたはずなのに。  やっぱり、こわい。かなしい。つらい。  冬威くんはああして気にしてないかんじでいるけれど。 「つらくないはず、ないんだ」  蛇口から落ちる水の音を聞きながら、ぼくはざぶざぶと汚れたものを洗っていった。  八月のはじめになると、暑すぎるからか蚊も飛ばなくなってきた。蚊に刺されないのはいいけれど、太陽の光がビームみたいに鋭すぎるのはかなり困った。外に気軽に遊びに行けない。  午後一時。冷感タオルに保冷剤をはさんで、水筒に氷をガラガラいれてもらい、ぼくは自転車で待ち合わせ場所にむかった。  近所の喫茶店『猫町』はカフェとギャラリーがいっしょになっている不思議な喫茶店だ。一番奥の席で、冬威くんがスマホをながめて座っていた。今日はここで、作戦会議。このあいだの「いじめ撲滅キャンペーン」の話し合いをする。  なぜここに集合になったのかというと、冬威くんのアイデアだ。  カフェとギャラリーがいっしょになっているようなヘンテコな喫茶店は、小学生が来るようなところではない、という考えらしかった。 「ぼくはヘンテコだなんて思わないけど……」  一番奥の窓際の席に座ったぼくたちは、届いたドリンクを飲んでいた。ぼくがアイスココアで、冬威くんはアイスコーヒー。 「おれもギャラリーには絵を観に、親とよく行く。だから、ヘンとは思わない。けど、鈴原くんたちには縁がなさそうな場所でしょ」  ニヤッと冬威くんが笑う。 「い、いうときはいうタイプなんだね」 「筒井くん。おれがいじめられてるのが信じられないって顔してるね」  図星です、といわんばかりに、顔が引きつった。 「えっと」 「マンガみたいにわかりやすいな、きみ。からかっただけよ」  ガムシロップを二個入れたアイスコーヒーを、冬威くんがズズッとすすった。 「おれは、きみと違っていいたいことはいうタイプだから。まあ、鈴原くんに目をつけられるのもしかたないことだよ。おれの態度だとか、反応がむかつくんだってさ。いじめの理由なんて、だいたいがそんなもんなのかもね」 「……そんな理由でいじめられるなんて、おかしいよ」 「筒井くん」  冬威くんが、アイスコーヒーのストローを静かにくるくると回す。 「おれはきみがいじめられることになっても、きみのようにいじめ防止のポスターを作ろうなんて思わないよ」 「ええー。こうして、手伝ってくれようとしているのに」  ぼくはリュックのなかから、ノートとペンケースを取り出した。カチカチとシャーペンの芯を出しながら、ノートを広げる。  ノートは学校で使っている自由帳を持ってきたので、ところどころにらくがきがある。時也が描いた、棒人間のマンガだとか。  ちょうど真っ白のページが見つかったので、そこに「企画案」と書いた。 「おれが鈴原くんたちにいやがらせされているのは、おれの両親が男同士だからだ」 「……うん」  カリカリと、思いついていた企画案を書いていく。 「おれの家庭環境が当たり前のものじゃないから、気持ち悪いと思われたんだ」 「当たり前も、普通も、人それぞれでしょ」 「学校では、手を多くあげたほうの意見が採用される。少数派は負けなんだ。みんな、そう思ってる。学校で、そう教えられるからだ」 「ねえ、冬威くん」  ぼくは、シャーペンを動かしていた手を止めて、冬威くんを見あげた。 「五人でのジャンケンでみんながパーを出したとする。冬威くんひとりだけが、チョキを出した。冬威くんのひとり勝ちだ」  ぼくはチョキを作って、前に出す。ピースサインするみたいに。 「少数派は弱いなんて、おかしいよ。だって、強かったら勝てるんだから」  すると、冬威くんはこぼれそうなほどに、目を見開いた。そして、じわりとにじむように笑顔になって、「ふふっ」とふき出した。 「すんごいヘリクツ。でも、面白い話。きみの考え方、真澄に似てる」 「真澄って?」 「おれのもうひとりのお父さん」 「へえ。話してみたいな」  佑月さんはやわらかい雰囲気の人だったけど、真澄さんは違うのかな。どんな人なんだろう。 「きみって、企画屋だね。面白いことを考えるのがすきなんだ」 「ぼくのお父さんが、何でも屋みたいな人なんだ。色んなもののデザインとか企画とかを個人でうけおってるんだって。そういう話を聞いて育ったから、ぼくもいろいろ考えるようになったってかんじかな」  お父さんはウェブページのデザインだとか、チラシや名刺のデザインだとか、イベントの企画とかを考えたりする仕事をしているんだって。むずかしいことは、ぼくもまだよくわかっていないけれど、お父さんがすごく楽しそうに仕事をしているのは伝わってくる。だから、ぼくもそういうことをしてみたいと思ったんだ。 「なるほど。それじゃあ、依頼してみようかな、きみに」 「えっ」 「おれが、きみに依頼するよ。イベントのね。そうだな、まずは名前を決めようよ。イベント名は重要だよ。みんながはじめて目にする第一印象だから」 「えっ、ま、待ってよ」  あわあわしているぼくを置いてけぼりに、冬威くんは「うーん」とあごに手を添えて考えるポーズを取っている。 「いじめ当事者であるぼくが考えたほうが、リアリティがあっていいよね。わかりやすいのがいいのかもしれないけど、〝いじめダメ〟なんて、直接的すぎるよね」  へらり、と笑って、冬威くんはいう。 「そうだ。〝春待リングデー〟っていうのはどう?」  春待とは、ぼくらの小学校、春待小学校のことだ。  リングは輪、ドーナツ状のもの。つながるイメージ。隣の人と、手を取りあって、つながる。  すごい、企画にぴったりの名前だよ。 「いい、いいよ。これにしよう!」 「ふふ、よかった」 「それじゃあ、次は……」 「お兄ちゃんたち、春小の子?」  カウンター席で、マスターとしゃべっていたおじいさんが、ぼくたちのほうを振り返っていた。 「はい。そうですけど……」 「最近の子は、おしゃれなカフェかと思ったら、こんな昔ながらな喫茶店にも来るんだねえ」  おじいさんがいうと、マスターが「ここもおしゃれだろー」と笑った。「わるいわるい」と頭をかくおじいさんに、ぼくたちも吹き出してしまう。 「時間があるなら、ギャラリー見ていかない? そこで、おれの展示をやってるんだよ」  コーヒーを飲みながら、おじいさんは入り口横の部屋を指さした。 「おじいさん、アーティストなんですか」  冬威くんがいうと、おじいさんは照れくさそうにコーヒーをすする。 「ただの趣味だよ。でも、見てもらえると嬉しいからさ。こうやって、ギャラリーを貸してもらってるんだ」 「見たい! 冬威くんも、行こうよ」  意気揚々とイスから立つと、冬威くんも遅れて立ち上がった。  ギャラリーは、ぼくたちの教室の半分くらいの広さだった。壁に、金色の額縁に入れられた、窓くらいに大きな絵が何枚か飾られていた。  花の絵。色んな花がいっぱいに、画面から飛び出すんじゃないかと思うほどの迫力があった。 「すごい。めっちゃすごい」  絵を目の前にしたら、うまいこと感想がいえなくなってしまって、ぼくは「すごい」を連発した。そんな下手くそな感想でも、おじいさんは嬉しそうに頬をぽりぽりとかいた。 「いやあ。若い子にそういってもらえると、続けててよかったなあ、と思えるよ。これ、作ってもなかなか渡す機会がないんだ。よかったら、もらっておくれよ」  にこにことおじいさんは小さい紙をぼくたちにくれた。名刺だ。人生ではじめて、もらった。受け取り方、これであってるのかな。  名刺には「東方澄夫」と書かれていた。 「おっと、もうこんな時間か。きみたち、老人の道楽につきあってくれて、ありがとうな。マスター、お会計たのむよ」  レジでマスターにじゃらりとお金を渡した東方さんは、ぼくたちに手を振って店を出て行った。席に戻ったぼくは、氷ですっかり薄くなったココアをすする。遅れてイスに座った冬威くんは、名刺をじっとながめている。  なんだか、さっきからようすがおかしい。東方さんから、名刺をもらったときから。 「冬威くん。どうしたの。名刺なんか見ても、おいしくないよ」 「わかってる。意外とおかしなひやかしをいれるんだね、きみって」  頬杖をついた冬威くんは、「はあ」と息をつく。 「さ。続きをやろうよ。春待リングデーのね」 「うん」  猫町の大きな窓には、グリーンカーテンがかかっている。糸瓜だ。はりつめるほどに実った糸瓜がゆらゆらとゆれている。  夏の風は、青い色らしい。鮮やかで、きれい。夏は、ぼくのすきな季節だ。  登校日にびしょぬれになった靴は、夏の太陽があっというまに乾かしてくれた。助かった。  あの日起こったことをぼくはまだ、冬威くんにいえないままでいる。いうべきなのかも、わからない。 「それじゃあ、企画の順番は……」  冬威くんが、さっきからちらちらと名刺を見ている。  でもぼくは、自分のことでせいいっぱいで、冬威くんに名刺のことを聞くことができなかった。  ついに、夏休みが明けた。  ぼくは、九月の最初の月曜日に、春待リングデーの企画書を持って、学校へ行った。  まず、二十分休みのときに、水野さんに見せてみよう。授業が終わったら、図書室に……。  いや、待てよ。月曜日の図書委員当番は尽だ。この段階で目立つのは、まだ避けたい。  休み時間がはじまったら、すぐに職員室に向かおう。水野さんが図書室に着く前に、捕まえてちゃえばいいんだ。  チャイムが鳴った瞬間、ぼくは教室を飛び出した。廊下は走らない。早歩きで行き、階段を滑るように降りた。  企画書を抱え、ぼくは職員室をノック。「失礼します」と扉を開ければ、水野さんが出てくるところだった。タイミング、ばっちりだったみたいだ。 「わあ、びっくり。どうしたの、筒井くん」 「水野さんに、話があって」 「私に? なんだろう、楽しみ」  にこにことぼくに向き合うと、廊下のすみに誘導してくれる。今年のクラス写真が並んで張り出されている掲示板の前で、ぼくは企画書を水野さんに差し出した。ノートに書いて、それをカッターで切り取った、計五枚の企画書。タイピングはまだ苦手だから、思いっきり手書きの。 「ぼくと、もうひとり協力してくれてる子と、ふたりで考えたことです。まず水野さんに、見てほしい」  水野さんは、ていねいにそれを受け取ってくれた。一枚一枚、じっくりと読んでくれた。読み終わると、「うん、うん」と噛みしめるようにいって、じんわりとした笑顔を浮かべた。 「とってもいいイベントだと思う! 教務主任の戸田先生に見せに行きましょう」 「えっ」 「道徳の授業のいっかんといえば、すぐにやろうっていってくれると思う。今、学校は道徳の授業にちからを入れているから」 「そうなんですか」 「うん。ねえ、筒井くん」  水野さんはぼくの肩に手を置いて、目と目をじっと合わせてくる。 「よく考えてくれたね。ありがとう」 「どうして、水野さんがお礼を……?」 「誰かのために、考えてくれたんでしょう?」  肩から伝わる体温が、あたたかい。水野さんはぼくよりも嬉しそうにして、企画書を大切に握りしめてくれている。 「ありがとうね、筒井くん」 「あのう、すみません。六年の鈴原ですけど……」  校舎裏の入り口から、誰かが声をかけてきた。あれ、この人って。結人のお母さんだ。 「これ、今日の給食用のお弁当です」 「六年の鈴原くんですね。わかりました。担任に伝えておきますので……」 「よろしくお願いします」  水野さんがお弁当を受け取ると、尽のお母さんはぺこりと頭をさげて、出て行った。 「ああ、もう休み時間終わっちゃうね。私、お弁当を泉先生に渡しがてら、戸田先生にこの企画のことを話しておくわね」 「はい、お願いします」  水野さんはお弁当と企画書を抱えて、職員室に戻って行った。そういえば、ぼくのせいで、水野さんは図書室に行けなかったな。結人、ちゃんと委員の仕事、やれたかな。  結人は、小麦アレルギーがある。保育園のころから、給食に小麦が出る日は、お母さんから小麦が入っていないメニューのお弁当を持たされている。保育園のおやつも、みんなとは違う米粉を使ったおやつだったり、くだものだったりした。  小学校にあがってからも、それは同じ。お母さんはなるべく給食と同じメニューを作ってくれているみたいだけれど、結人はすごく恥ずかしそうにしてお弁当を食べている。小麦が出ない日は、とても嬉しそうにみんなと同じメニューを食べる。  おいしそうに、みんなと同じメニューの給食を食べる尽の顔を思い浮かべながら、ぼくは教室への階段をのぼって行った。  その日の下校時間、水野さんがにこにこ顔でぼくに耳打ちをしてきた。教務主任の戸田先生からの許可がおりたから、さっそく取りかかろう、という話だった。 「春待リングデー、すごくいい名前! 私も全力で手伝うよ。がんばろう、筒井くん」  ばしん、と背中を叩かれて、ぼくはよろり、とよろけながらも、全身から喜びがわきあがっていた。もう、後戻りはできない。前進するしかなくなった。  家に帰ると、ランドセルをソファに放り、財布を引っつかむと、お母さんへと叫んだ。 「出かけてくる!」  自転車に飛び乗り、十分ほどこいだ。スーパー白鳩堂の二階にある、百均はぼくのご用達だ。ここで、イベントの材料をそろえるんだ。  いえば学校で材料をくれると思うけれど、今回は委員会の企画じゃないから、特別扱いは避けたかった。なるべく、安くすませたいけれど、手は抜きたくないな。  とりあえず、色画用紙は必須かな、と手を伸ばすと、ぼくの倍くらい大きな手とぶつかった。顔をあげると、しば犬のような毛色の髪をパーマにした、気だるそうな雰囲気の男の人が、ぼくを見下ろしていた。身長が自動販売機よりも高い、巨人のような人だった。 「あっ、すみません」  ぼくがいうと、男の人もぺこりと頭を下げた。 「いえ、こちらこそ……」  その時、首からぶらさげていたスマホがぶるっと震えた。画面を見ると、冬威くんからだった。応答をスライドして、耳にあてる。 「冬威くん、どうしたの?」  名前を呼ぶと、なぜか横の男の人がぴくりと反応したのが見えた。どうしたんだろうと思いながら、スピーカーに耳を傾けた。 「あのさ今日、教室で……いや……直接いいたいことがあるんだけど、これから時間あったりする?」 「いいよ。買い物したら、冬威くんの家に行ってもいい?」 「うん。それじゃあ、待ってる」 「おっけー。三十分後くらいに行くよ」 「わかった。気をつけてね」  スマホを切ると、男の人がまだ隣に立っていた。邪魔だったのかな、と一歩横にずれると、また一歩近づいてくる。す、ストーカー? 「あの、なんですか?」  ぞわぞわしながらたずねると、男の人はぼくの視点まで、からだをかがめてきた。 「とーいの友達?」 「え?」 「おれ、とーいの父親」 「ええっ」 「佑月と会ったのって、きみ? もしかして、すなおくん?」 「そ、そうです……」 「わー」  言葉では「会えて嬉しい」感じを出しているけれど、表情は無のままで、おかしな人だった。何を考えているのか、まったくわからない。  びくびくしながら、「お、お世話になってます……」と頭をさげると、真澄さんも「こちらこそ」と会釈をしてくれた。 「ねえ、すなおくん」 「は、はい」 「冬威、学校でどうかな」 「え」  ビクッと、肩が震えた。 「元気で、やってる?」 「あ、あの……」  探るように見つめてくる真澄さんに、ぼくのからだからじわじわと冷や汗がみたいなものが出てくる。心臓がばくばくと太鼓のように打ちつけられている。  なんて答えたらいいんだろう。何も描かれていない自由帳みたいに、ぼくの頭は真っ白だ。 「……冬威は前の学校で、いじめられてたんだ。だから、五年のときに、春待小に転校してきたんだよ」 「えっ」  頭に水をぶっかけられたみたいな気分だった。手が冷たい。心臓が冷えていく。真澄さんの瞳は、その頃のことを思い出すように、深い悲しみににじんでいた。 「冬威さ、今の学校のことを聞いても〝うまくやってる〟としかいわないんだよ。だから、深く追求できなくてさ」 「そう、ですか」 「でも、きみみたいな子と友達になったんなら、本当にうまくやってるんだな。よかったよ」  そういいながらも、真澄さんの表情は晴れていないのが丸わかりだった。ぼくは、じっと真澄さんを見あげる。  すると、真澄さんは「あー」と気まずそうにもらした。 「そうだよな。男親ふたりなんだし、冬威が苦労するのも当たり前だよな。きみがおれたちのせいだっていいたいのもわかるよ」  いわれてぼくは、あわてて両手をぶんぶんと振った。 「いや、ぼく、そんなつもりじゃ」 「えっ、今おれをにらんだのって、そういうことじゃないのか」 「ぼくがいいたかったのは、もっと冬威くんと話をするべきなんじゃないのかなって、思ったから……」 「あー」  真澄さんは、弱々しくうなった。つねに気だるげなのが、この人の普通らしかった。 「きみのいうとおりだな。もっと冬威と話してみる」 「です。ぼくもそうしてほしいなって、思います」 「お礼。この色画用紙はおれのおごりだ。他にもほしいものあるなら、買ってやるよ」 「ええっ、悪いですよ」 「おれ、白鳩堂のはすむかいにある、あおぞら画材店で働いてるんだ。今日はポップ作りのための買い出しにきたの。冬威の友達なんだから、遠慮するな。おれの息子みたいなものだから」 「いいのかなあ」  ぴたり、と真澄さんの足が止まった。ゆっくりとぼくの目線までしゃがみこみ、ささやくようにいった。 「冬威は、佑月とも、おれとも血が繋がってない。だけど、家族なんだ。遠慮なしの、心で繋がった家族だ」  くしゃりと咲く、朝顔のような笑顔は、どこか冬威くんに似ていた。  ぽん、とぼくの頭に大きな手のひらを置いて、真澄さんは噛みしめるようにいう。 「だから、冬威の友達のきみにも、おれは遠慮なしでいくからな」  真澄さんに百均でこれでもかとおごってもらったあと、ぼくは急いで冬威くんの家に向かった。  三十分には間にあったはずだけれど、待ちかねたといわんばかりに、冬威くんは家の外でぼくのことを待っていた。驚いて自転車をおり、ぼくは冬威くんに駆けよった。 「どうしたの? そんなに待たせたかな」 「いや、そわそわするから、外で待ってた」  落ちつかないようすの冬威くんに、ぼくもつられる。家のなかに入ることも忘れている、冬威くんに手を取られた。 「今日、教室で聞いたんだ。きみ、鈴原くんに何かされたの?」 「え……」 「明日も、何かするっていってた。靴に砂をつめるとかなんとかいってた」 「そ、そっか……」 「なんで、いってくれなかったの?」  車が三台ほど通りすぎていく。ようやく、ぼくは「えっと」と顔をあげた。冬威くんは、眉間にしわをよせていた。怒ってる。ぼくは泣きたくなった。  冬威くんを助けたかった。汚れた体操服を渡したときも、本当はすっかり乾かして、畳んで返してあげたかった。 「筒井くん。もう、きみといっしょにいれない。本当に、これっきりにしよう」 「ねえ、聞いて」  ぼくは、にぎられていた冬威くんの手に、自分の手を重ねる。冬威くんの体温は、九月にしては、少し冷たすぎるくらいだった。 「さっき、きみのお父さんにあったよ。真澄さん」 「え」 「いってたよ。冬威くんは学校のこと〝うまくやってる〟としかいわないって」 「待って。どこで、会ったの?」 「白鳩堂」  冬威くんは、苦すぎるお茶を飲んだかのように、顔をへにゃりと曲げた。深くため息をついて、「そうか」とぼくから手を離した。 「佑月さんと真澄さんに、気を使わせたくなかったのはわかるよ。でも、ひとりで耐えてるほうが、ふたりは傷つくと思う」 「……筒井くんのいいたいことはわかるよ。でも、おれはこういうの慣れてるから。でも、きみは慣れてないでしょ。だから、いっしょにいないほうがいい」  冬威くんが、ぼくの胸のあたりをトンと押した。そしてそのまま、振り返らずに家に入って行ってしまった。ぼくは、道路にぽつんと取り残された。  ぼくは、春待リングデーの準備にあけくれた。時也や莉子がたまに手伝ってくれて、なんとかかたちが見えてくる。  イベント期間は、十月のはじめの月曜日から、二週間。まず、放送委員とのコラボを取りつけた。給食の時間内にワンコーナーをもらって、放送委員といじめについて対談をする。  教頭先生とも話をして、校内新聞にいじめについての記事を掲載してもらうことになった。一面、春待リングデーについての大きな場所をもらった。  他にも、飼育委員と美化委員に手伝ってもらって、校内の飾りつけや、掲示物を貼りだしたりした。  体育委員会の五年生ふたり同様、手伝わない人がいる委員会ももちろんあった。これはぼく個人でやっていることなので、もちろん何もいえない。  というか、春待リングデーの企画に賛成してくれて、どうやっていくかをいっしょに考えてくれる人がいることじたいがありがたかった。 「去年の図書室チャレンジ、楽しかったから。また何かやらないかな、って思ってたんだよ」  同じクラスで、放送委員の羽村くんが、放送室で音量の調整をしている。  なごやかに図書室チャレンジのときの思い出話をしていると、ふと、羽村くんが真剣な顔つきになった。 「あのさ」 「ん?」 「おれ、知ってたんだ」 「……何を?」 「新川のこと。でも、目をそらしてた。ひどいやつだよな。だから、砂生が春待リングデーをやりたいって相談してくれたとき、ホッとしたんだ」  羽村くんがマイクの位置を調節しはじめ、ぼくに背を向ける。 「都合がいいよな。こんなこと」 「そんなこと、ないよ」 「すごいよ、砂生は」 「……いや」  だって、春待リングデーという名前を考えてくれた冬威くんは、ずっと学校を休んでいるんだ。  もういっしょにいないほうがいい、といった、あの日から。
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