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春待リングデー
ついに、春待リングデーがはじまった。校内の掲示板には、春待リンクデーの説明が書かれた貼り紙がたくさん貼られた。
朝礼の校長先生のあいさつでも、「今日から二週間、春待リングデーが開催されます」というお話があった。
「春待リングデーは六年生の筒井砂生さんが企画したイベントです。リングとは輪、つながりを意味する言葉です。春待小全体のつながり、きずなを深めるイベントとして、砂生さんが企画してくれました。みなさんも、このイベントで砂生さんといっしょにさまざまなことを考えてみてください」
校長先生は「いじめ」という言葉を使わなかった。このイベントを「いじめ」だけのイベントにせず、色んな児童の色んな意見を取り入れて、よりつながりを深めたいと、校長先生はいっていた。
ぼくは、授業をこなしながらも、頭の半分以上が春待リングデーのことでいっぱいだった。こんなこともやりたい、あんなこともやりたいと、どんどんアイデアがわいてくる。でも、その半分以上が、現実的なものではなかった。
ぼくひとりでは、むりなことばかりだからだ。いじめや道徳についての講演会を開くだとか、動画サイトに春待リングデーのようすを生配信する、だとか。
もっと、本格的なことだってやりたい。でも、やるからには人手が足りない。
「砂生。そろそろ放送室に行かないといけないんじゃないのか」
給食当番の白衣に着がえた時也が、教壇の上からぼくに叫んだ。時計を見て、ぼくはあわてる。
「ありがとう、時也。行ってくる!」
「んー」
ひらひらと手を振ってくれる時也に感謝しつつ、ぼくは廊下に出た。廊下の長机に、図工の時間に作った粘土作品が置かれている。
六年生にもなって粘土をやる学校は珍しいのかもしれない。今どきの子どもは指先が不器用になりつつあるからと、校長先生が図工、特に粘土工作にちからを入れようと、いったらしい。教師を引退した佐々木先生という人が、美術にくわしいからと、図工の時間にわざわざ来てもらっているのだ。
一年から六年の教室の前に長机が置かれ、図工の作品が展示されている。なので、ちょっと廊下がせまいのだけれど、これも少人数学校の特徴なのかもしれない。特に誰かとぶつかることはないので、問題はないのかもしれない。
放送室に着くと、すでに羽村くんのスタンバイが完了していた。
「おお、先に来てたよ」
「呼んでくれたらよかったのに」
「いや、放送委員は、先に準備があるからさ」
マイクの整備、それにBGMの用意も終わり、あとは放送を開始するだけとなった。
「じゃあ、はじめるからね」
「うん、よろしく」
毎日聞いている、給食開始の音楽。聞きなじみのある、クラシック音楽だ。
「この曲ってなんていう曲なの?」
羽村くんが、CDジャケットをぼくに見せてくれた。
「プリンク・プレンク・プランク。ルロイ・アンダーソンって人が作った曲だってさ」
「へえ。そうだったんだ」
放送室に来なかったら、曲だけ知ってても、名前はずっと知らないままだったかもな。
「おお、やってるな」
教務主任の戸田先生が、プリンク・プレンク・プランクがかかっている放送室に入ってきた。
「どうだ。緊張してるか」
「は、はい……」
羽村くんが、へらっと笑う。
放送委員の羽村くんでも、まだ緊張するんだな。
「筒井は、大丈夫か」
「あ、はい」
「春待リングデー。いい名前じゃないか。春小をいじめなんてひとつもない、いい学校にしないとな。がんばれよ」
ばしん、と背中を叩かれ、戸田先生は上機嫌で放送室を出て行った。ぼくは、背中をさすりつつ、戸田先生の背中を見送る。
「うわあ、いい音したなあ」
「ん……」
「痛かったんじゃない」
「まあね」
「いじめなんてひとつもない学校だってさ。おとなって、たまにこういう子どもみたいなこというよな」
「そうだよね」
「……わり。おれら今から、春待リングデーやるのにこんなこというの、おかしいよな」
「おかしくなんてないよ」
「いや、おかしいだろ」
羽村くんが、冷めたように笑った。ぼくも、もやもやする気持ちを切りかえて、今回の進行表を確認する。
「心からそう思っていってるんじゃないって、わかってるよ」
「……うん」
「じゃあ、はじめよう。春待リングデーを」
「うん」
プリンク・プレンク・プランクが止み、マイクの音が入る。羽村くんが、マイクの首に手をかけ、いつもよりも固い声で、原稿を読みはじめた。
「今日から、春待リングデーがはじまります。みなさん、校内の掲示板に貼られている掲示物はごらんになりましたか? いろいろなイベントがありますので、ぜひ参加してみてください。それでは、今日は放送委員のぼく、羽村と春待リングデー主催者である、筒井さんとの対談です。テーマは『春待リングデー』。筒井さん、春待リングデーは〝いじめをなくそう〟という思いからはじめられたそうですが、このイベントをしようと思ったそもそものきっかけはなんだったんですか?」
「そうですね。身近な人がかなしい思いをしているのを見て、何かしたいと思ったんです。いろいろな人に相談して、この春待リングデーが生まれました。カナダという国でも『ピンクシャツデー』という運動があるんです。とあるカナダの学校で、ピンクのシャツを着ていった男子生徒のことをからかい、ひどいいじめをしたという事件があったんです。そのことを知った他の生徒たちが、彼を救うために、クラスメイトたちに呼びかけました。「明日いっしょに、ピンクのシャツを着ないか?」声は一気に広まりました。次の日、学校に行くと、ふたりが声をかけたよりもたくさんの生徒たちが、ピンクのものを身につけて登校していたんです。いじめられた生徒はそれを知って、とても救われた気持ちになったそうですよ。それ以来、その学校でいじめの話を聞くことはなくなったんです」
ピンクシャツデーの話は、冬威くんが教えてくれた。ぼくなりに、給食の時間内におさまるように、話をまとめたつもりだけど、みんなに伝わったかな。
エピソードを聞きやすくするのって難しい。読書感想文も、遠足の思い出を書くのもぼくは得意じゃない。
冬威くんにどうだったか聞きたかったけど、冬威くんは今日も学校に来ていない。
放送室での対談を終え、ぼくは「ふう」と息をついた。羽村くんが「お疲れ」といってくれる。
「ついにはじまったな。今日から、二週間か。なにかあれば、おれも手伝いに行くから、遠慮せずに声をかけてよ」
「うん、ありがとう」
放送室を出ると、戸田先生が待ちかまえていて、またばしばしと背中を叩かれた。
「いい話だったぞ! ピンクシャツデー。やればいいじゃないか」
「えっと、機会があれば……」
ぼくはそういって、逃げるように放送室を出た。
ピンクシャツデー。もちろんぼくもやれたらいいなと思ったけど、なかなかむずかしい問題だと思った。現にぼくだって、ピンクのものなんてひとつも持っていない。学校主催のイベントならまだしも、春待リングデーのために、みんなにむりにお金を使ってピンクのものを買ってもらうのは申し訳ない。それなら、他の企画を考えるほうがいいんじゃないかと思ったんだ。
校内新聞の原稿は、もう教頭先生に提出した。
あとできていないのは、図書室とのコラボ。水野先生からも、せっつかれていた。
「図書室チャレンジみたいなこと、今年もやればいいじゃない。なんで、うちには声をかけてくれないのー」
ふてくされたようにいう水野先生に「今、考え中なので」という。でもやっぱり、勇気がなかった。尽と蓮くんに、なんといっていいのかわからなかった。
ギブアップ、とばかりに頭をくしゃりとかき混ぜる。
給食のいいにおいがする廊下を歩き、六年の教室の前まで来ると、図工の作品が置かれた長机の前に、誰かが立っていた。
「……結人くん?」
「わっ、筒井くん。放送は?」
「もう、終わったじゃない。聞いてなかったの?」
「いや、その、ごめん。トイレ行ってたかも」
「ああ、それでついでに粘土見てたんだ。そんなに気になるものでもあった?」
「……まあ、うん。じゃあ、ぼくはこれで」
そそくさとばかりに、五年の教室にもどっていく結人くん。
まさか、また尽に何かをさせられているんだろうか。ヘンな動きはしていないように思えたけど。
いや、考えすぎか。このあいだのことがあったから、過敏になっているのかもしれない。
ぼくは、いやな考えをふり払うように、長く息を吐いた。
ぼくのいやな予感は、当たってたらしい。
帰りの会のあと、粘土細工を持ち帰ることになり、みんなが手さげかばんを持って廊下を出る。
ぼくらから遅れて、尽も手さげかばんを持って、教室から出てきた。長机のすみっこに置かれた、尽の粘土細工は、みんなのと違って、色が白い。小麦アレルギー持ちのなので、尽の粘土だけ、米粉を使ったものだ。
『将来の自分』というテーマの作品たち。つやつやに成型された尽の分身。野球選手をしている将来の尽が、米粉粘土によって、形作られている。
それを放るようにして、手さげかばんに入れた、尽。
もう少し、ていねいにあつかえばいいのに、なんて思っていると、尽の喉から「ひゅう」という息づかいが聞こえた。尽の顔は、真っ赤になっていた。はずかしいときになるのとはちがうような、見ているこっちが不安になるような赤み。
とたん、尽は犬が吠えるような、ヘンなせきをしだした。
「尽、どうしたの?」
息が吸えない、とばかりに尽は息苦しそうにしている。
これって、まさか……!
アレルギー反応?
ぼくは、急いで泉先生を呼んだ。
「先生! 尽が苦しそうです! アレルギーかも知れない!」
泉先生が、とたんにおろおろしだして、学級委員の莉子に向かって叫んだ。
「津島さん! 白銀先生呼んで来て!」
莉子が全速力で、保健室まで走って行く。泉先生は尽に駆けよったけれど、「えっと……」と突然のことに混乱しているようだ。
ぼくは先生の腕をつかんで、尽の席のほうを指さした。
「早く! エピペン! ランドセルのなか!」
「あっ!」
泉先生は大あわてで、尽のランドセルから小さな棒みたいなものを取りだした。緊張した顔で、棒を尽の太ももに突き刺す。
「……こ、これでよかったはず。あ! 白銀先生!」
「鈴原くん、大丈夫! 今、校長先生が救急車を……」
泉先生と、保健室の白銀先生が尽に駆けよった。校舎の二階は、しばらく騒然となっていた。各学年から、「なんだなんだ」とばかりに、みんな六年の教室をながめていた。
五年の教室も同じだ。興味しんしんという顔のなかに、結人くんがいた。結人くんの顔色は真っ青だった。学年主任の戸田先生が「みんな教室に入りなさい」といいにくるまで、不安と緊張が入り混じった顔で、そこにたたずんでいた。
しばらくして、救急隊員がやってきて、尽は担架で運ばれていった。
「どうして、アレルギーを……」
「粘土は小麦ではなく、米粉を使っていたんですよね」
「米粉でも危険という話が……」
先生たちが、廊下で話しているのが聞こえてくる。ぼくたちは、戸田先生の指示で、ようやく下校することができた。通学団ではみんな、尽が倒れた原因を話しあっていた。
ぼくは、あのとき結人くんが粘土細工の前でぼんやりと立っていたのを思い出す。
家に着くと、ぼくはランドセルをおろし、自転車に飛び乗った。
結人くんの家は、広い道路の交差点。その真ん前の大きな家だ。おじいちゃんが昔、教師をやっていたらしく、とても厳しいらしい。お母さんも、今は非常勤の教師なんだとか。たしか、結人くんが三年生のときに、両親は離婚したっていってた。
それでも、いつも元気に学校に来ていたし、通学団では毎日尽と楽しそうにおしゃべりしていると思ってた。
ピンポーン
チャイムを鳴らすと、スピーカーからおじいさんの声が聞こえた。
「はい?」
「あの、筒井です。結人くんいますか?」
「まだ帰ってきてないよ。寄り道でもしてるんじゃない」
「ええ、寄り道?」
「捕まえたら、引きずって来て」
冗談交じりにそういうおじいさんに、ぼくは「はは」と返した。
ここに来るまでの道が、ぼくたちの通学路だ。つまり、通学路じゃないところで遊んでいるのか。
ぼくは自転車にまたがると、結人くんを探しに出かけた。
結人くんはすぐに見つかった。冬威くんの家を、ランドセルを背負ったまま、ぼんやりと見あげていた。
「結人くん」
「つ、筒井くん」
「何してるの」
自転車を押しながら、ぼくは結人くんの顔をのぞきこんだ。顔色は、さっきよりも普通に戻っていた。
「……学校に、来てないみたいだし。その、ぼく」
「……聞きたいことがあるんだけど」
結人くんの肩が、ビクッとはねた。
「尽の粘土に、何かした?」
結人くんの顔色が、みるみる悪くなっていく。手が、ぶるぶると震えている。
「小麦を、入れたんだ……」
「どうして、そんなこと」
「無視されてるのが、つらくて、こわくて……尽くんなんていなくなればいいって思って……ごめんなさいっ、ごめんなさいっ」
しゃがみこんでしまった結人くんに、ぼくは黙ってよりそっていた。
かける言葉は、なかった。ただ、そばにいることにした。
ひとしきり泣いたあと、結人くんは家に帰って行った。
ぼくは春待リングデーのことを考えていた。
こんなことになって、イベントは続けられるんだろうか。明日、戸田先生に聞いてみよう。
登校してすぐに、職員室に向かった。戸田先生に、春待リングデーのことを聞くと、「いいに決まってる」と答えてくれた。
「鈴原の体調も、問題なさそうだしな。すぐにでも退院できるそうだ」
「そうですか。よかったです」
「問題は、新川のほうだろう。もう何週間も休んでるだろ。筒井はなにか聞いてないか?」
「い、いえ……」
へらっと笑って「それでは失礼します」と職員室を出た。なんだか、戸田先生からはいつも逃げている気がする。
一段飛ばしで階段を登っていると、上から蓮くんがぼくのことを見下ろしていた。
「砂生。お前、尽の粘土になんか仕こんだ?」
「は?」
からかうようにいう蓮くんに、ぼくはいらっとしながら階段を駆けあがった。
「なにそれ。どういうこと」
「だってさあ、粘土触ったとたんにああなったんでしょ。尽のは米粉だったし、おかしいじゃん」
「……なんでそんなふうに思うの」
「お前、新川がいじめられてるからって、尽のこと殺そうとしたんでしょ」
「ちが……っ」
頭に血がのぼったという感覚を、ぼくははじめて覚えた。気づいたら手が、蓮くんのシャツをつかんでいた。
蓮くんが、「はは」と笑い出す。まずい。ケンカになる。
こんなことしたら、春待リングデーができなくなる。
「お前、いじめなんてしたくないなんていいながら、おれの胸倉つかむって、どういうつもり?」
「これは、ちがうっ。ぼく……」
「みなさーん。こいつ、春待ナントカとかいいながら、胸倉つかんできまーす。ばかみてー」
カッと顔が熱くなる。くやしい、くやしい。こんなつもりなかった。ぼくはケンカなんてしたくないのに。頭のなかが、怒りでいっぱいになる。
「お前がいじめ側になったら、春待ナントカなんて誰もやらなくなるだろうね。笑えるわ。自分はおれらとは違うと思ってた? お前もおれらも同じなんだよ。同じ、ひどいやつなんだ」
蓮くんは色素の薄い瞳に、悲しそうな透明の膜をたゆたわせていた。
ぼくは蓮くんのシャツから手を離す。手が、ちならなく、だらんと落ちていった。
「さっさといえよ。尽のことを殺そうとしたってさ」
「してない」
「したよな」
「ねえ、このやりとり、意味ないよ」
「意味なんていらない」
蓮くんは、何もかもどうでもよさそうに、ぼくのことなんてさらさら興味がないように、吐き捨てた。
「どうせ、図書委員になれなかったからって、尽を殺そうとしたんだろ」
「そんなわけないだろ! めちゃくちゃだ。なんで、そんなにぼくのことをきらうんだよ」
「じゃあ、誰なんだよ。尽にひどいことをしたやつはさ」
「それは……」
喉に異物がつまったように、言葉が出てこない。結人くんが「ごめんなさい」と何度もいっていたときの顔が、ぼくの脳裏に何度もよみがえる。いえない。ぼくには。誰が犯人なのかなんて、いえない。
「きみに誰かを責める資格、あるの?」
廊下に通っていく風のような声だった。
「冬威くん……」
ランドセルのベルトを片方だけ握りながら、冬威くんはぼくと蓮くんのあいだに入った。
「もう一度、聞きたい? きみはおれになにをしたのか、覚えてないの。水をかけられたし、宿題にらくがきされた。他にもいろいろしてきたよね」
「何だよ。どーせ、お前はいじめられたって、なんとも思ってないんだろ。尽は命にかかわることされたんだぞ」
ガンッ
冬威くんのランドセルが、蓮くんを通りすぎて、壁にぶつかった。ランドセルを放った冬威くんの手が、ぎゅと握りこまれる。
「なんとも思ってない? だったら、何をしたっていいの?」
「尽はおれの友達だ! 友達を心配するのは当たり前のことだろ! お前はずっと、平気な顔してただろ!」
「平気なわけ……ないだろ……っ!」
じっと、通りすぎるのを待っていたんだ、冬威くんは。
積もりすぎた雪が溶けるのを、咲かない花が開くのを、飛んでいってしまった小鳥が帰ってくるのを、静かに待っていた。
ぼくにはそれが、信じられなかった。冬威くんがしていることには終わりがないように思えて、ただただ痛みに耐えているようにしか見えなかった。まるで、何かの発散のために殴られていた、ぼくのランドセルのように。
蓮くんは、つまらなさそうな顔をして、教室に走って行った。廊下を走っている六年生を、三年生の男子が「あー! わりーんだ」といいながら見ていた。
校庭の銀杏の葉が色づきはじめている。
その日の昼休み。ぼくと冬威くんは、図書室にいた。水野さんの協力もあって、図書室と春待リングデーでのコラボができることになったんだ。だから、その準備。
二時間目の休み時間のとき、水野さんがいじめに関する絵本、児童書、子ども用の学習絵本など、あわせて三十冊ほどを選んできてくれた。あとは、どう展示するかだけど、それはぼくらに任せるって。うーん、緊張する。
「水野さんは?」
「今日は、用事があるんだってさ。市の演劇鑑賞会の会員で、月一でお昼ごろから演劇を見るやつ。今日がその日なんだって」
「だから、午前中の水野さん、ばたばたしてたんだね」
まあ、水野さんはいつもばたばたしてるんだけどね。あの人、そそっかしいから。
水野さんが選んできた本を手に取る。すぐに読み終わりそうな絵本を数冊、読んでみた。やっぱり、辛い気持ちになった。けれど、読み終われば、人は決してひとりじゃない、ということ。いじめはぜったいにしてはいけないこと、というメッセージを強く感じた。まだぜんぶじゃないけれど、時間を見つけて一冊一冊、読んでいこう。
真ん中のテーブルに積まれた本たちを、大きさ別に分けていく。カウンター横の棚を掃除して、掲示物を整理。やらなきゃいけないことはまだまだあった。
「図書室とのコラボ、ためらっていたせいで、本当にギリギリだ。イベントは、まだまだはじめったばかりだけど、二週間以内になんとかできるのかなあ」
「気合いでしょ、そんなの」
「ううっ、それはそう」
てきぱきと手を動かしている、冬威くん。あっというまに棚はきれいになって、掲示物もみるみるうちに整理されていく。
「冬威くん、すごい」
「真澄の店をいつも手伝わされてるからね」
「あ、あおぞら画材店、だっけ」
「そう」
開け放たれた窓から、秋風が吹きこんでくる。銀杏の実の独特の香りが、すっと通りぬけていく。秋だなあ、と顔をしかめながら、ぼくは棚の上にブックスタンドを並べはじめた。
「……冬威くん。学校、来てくれたんだね」
「ああ、真澄に怒られたから」
掲示物をテーブルに並べている冬威くんの細い背中をぽかんと見つめる。冬威くんが、ぼくを振り返って、ぎこちなく笑った。
「……そうだ。今日さ、学校が終わったら、いっしょに猫町に行かない?」
猫町のギャラリー展示は、前と変わっていなかった。東方さん。気の良い、おじいちゃん。カウンターを見てみたけれど、今日は東方さんはいないみたいだった。
マスターさんにアイスコーヒーと、アイスココアを注文する。暑いなか、自転車をこいできたので、暑い。氷がたっぷり入ったグラスから、水をごくり、と飲むと、冬威くんが立ちあがった。
「ギャラリー、見ない?」
「また見るの?」
「うん」
さっさと歩いて行く冬威くんに着いて行く。やっぱり、展示内容は変わっていない。そんなに東方さんの作品が気に入ったのかな、と思っていると、冬威くんは金色の額縁に入れられた、窓くらいの大きな絵を見あげている。色んな花が、画面からとびだすんじゃないかと思うほど、繊細に描かれた絵。冬威くんが、まぶしそうに目を細めた。
「東方って、真澄の旧姓なんだよね」
「えっ。真澄って、冬威くんのお父さんだよね。……旧姓って、何?」
「結婚する前の、前の苗字。おれ、父さんたちの両親のこと知らないんだよ。たぶん、縁を切ってるから」
冬威くんは名刺をテーブルに放ると、アイスコーヒーについてきた豆菓子をひょいと食べた。
「でも、聞いたことあるんだ。真澄の親が絵描きで、その影響で自分もアートとか骨董品をすきになったんだって」
「えっと、それってつまり、どういうこと……?」
ぼくは、戸惑いを隠せない。おろおろしながら、頭をぐるぐると回転させる。挙動不審なぼくに、冬威くんはおかしそうに口もとをおさえた。
「いい絵だよね。この人の絵」
「う、うん……」
「真澄と佑月は結婚してるし、おれとあのふたりは家族だ。そして、血は繋がってない。それでも、おれと家族になるって選択したんだよ。当然、親からは激しく反対されたってさ。真澄は、勘当までされたんだってさ」
「かんどう?」
「縁を切られたんだよ。親子じゃなくなるってこと」
家族が家族じゃなくなる。それって、とんでもないことだ。
「でも、こんなかたちで、真澄の親だった人の作品を見られるとは思わなかったよ」
「あっ、東方澄夫って……」
壁に貼られた、おじいさんの展示のチラシを確認する。なんとなく思い出せる、おじいさんの自由奔放で、人懐っこい雰囲気。真澄さんに似てる、かも。
そわそわして、落ちつかない。ぼくは、冬威くんの手をぎゅ、と握った。
「ち、近くに住んでるんじゃないっ?」
「会おうなんて、思ってないよ」
「でも、ぼく、思い出したんだ」
「何を?」
「冬威くん。東方さんの名刺をもらったあと、なんだかようすが変だった。名刺を気にしたて、うわの空だったよね」
「よけいなことに、貴重な脳のメモリを使わないでよ」
あきれたようすでぼくの手をそっと外す、冬威くん。
「忘れていいよ。おれは別に、会いたいわけじゃ」
「冬威くんは、これ以上がまんしなくていいんだよ」
突然、大きい声を出してしまったけれど、気にしない。驚いて、身を引いている冬威くんの腕をつかみ、引っぱる。
「いい加減、本当の気持ちを教えて」
「いや。全部、おれの本当の気持ちだよ」
「おとなのふりしてたじゃない」
「ふりなんかしてないし」
「親に心配かけたくないからって、おとなのふりをしてたじゃない」
冬威くんはうつむき、黙ってしまった。ぼくは、あふれる言葉を取り違えないようにひとつずつ、冬威くんに渡した。
「でもさ、ぼくときみは友達なんだからさ、本音でしゃべろう」
「……おれは、東方さんから真澄の話を聞いてみたいだけ。おれのことはいうつもりはないよ」
「じゃあ、それで」
「え?」
「ねっ、マスターさんにどこに住んでるのか、聞いてみようよ」
「ええ……」
いまだに気が進まないようすの冬威くんを引っぱっていくと、ちょうど注文したものが席に届けられているところだった。
さっそくマスターに話を聞くと、東方さんは隣の市に住んでいるとのことだった。でも、詳細な住所まではわからないそう。冬威くんが、肩をすくめた。
「あきらめるしかないね」
「いや、マスターさんなら連絡先、知ってますよね」
マスターさんは「ええ」とうなずく。冬威くんが、めんどうそうに口を曲げた。
すぐに、マスターさんが東方さんに電話をかけてくれた。スピーカーから、かすかにコール音が聞こえる。数コールしてから、「もしもし」というしわがれた声がした。
聞いたことのない、珍しいタイプのエンジン音だった。「東方さんが来たよ」とマスターさんがいう。
「フランスの車が好きなんだってさ。たしか、シトロエンとかいう車だよ」
「ああ、前に真澄がいってたな。シトロエンって車が走り去っていくのを見て、あの車にだけは乗らないって」
カランカラン、と扉が開いた。東方さんが、気まずそうに店内を見渡して、ぼくたちを見つける。
「いやあ」
スマホをジーンズのバックポケットに入れながら、片手をあげた。ぼくは座ったまま会釈した。冬威くんは立ちあがって、東方さんに歩みよった。
「あの突然、呼びだしたりして……」
謝ろうとする冬威くんの肩に、東方さんが手を置いた。
「真澄は、元気かい」
「……っえ」
「画材屋をやってるんだろう。そんな仕事につけば、絵を描いているおれの耳にはすぐに入るんだよ。まったく、相変わらずお気楽なやつだ」
「あー。そうですね。あいつはいつも、お気楽ですよ」
「ふふ、息子のきみにもそういわれているなら、間違いないな」
思わず吹き出している東方さんに、冬威くんはどんな顔をしていいのかわからず、あいまいな表情をしていた。マスターが、東方さんに「ご注文は?」と聞いて「アイスコーヒー」と答えている。ぼくたちのアイスコーヒーとアイスココアは、まだ半分ほど残っている。すでに氷が溶けて、味が薄まっているだろうけれど。
ぼくたちの席に、東方さんのアイスコーヒーが届いた。ぼくの隣に、東方さん。その前に、冬威くんが座った。ぼくは、緊張で手汗がすごかった。でも、冬威くんのほうが、もっと緊張しているんだろう。
「真澄が縁を切れっていってきたときは、驚いたな」
アイスコーヒーを一口飲むと、東方さんは懐かしむように窓の外をながめていた。冬威くんが驚いて、身を乗り出す。
「真澄が、いったんですか」
「ああ。おれたちに迷惑をかけたくないからってね。真澄の母親は、すごく心配していた。男性同士で結婚なんて、それも養子を取るだなんてこと、普通の人生は間違いなく歩めなくなる。子どもにも、大変な思いをさせるに決まっているからってな。でも、真澄はおれに似て、ひどくお気楽な性格だったからなあ」
ずずず、というコーヒーの音が、こわばったぼくたちの空気をつつき、やわらげた。東方さんは、まるで息づきのタイミングのように、ずず、とコーヒーをすすっていく。
「そんなに不安なら縁を切れよ、っていって家を飛び出していった。まあ、あいつなりの気づかいだったんだろうな。おれたち夫婦に肩身のせまい思いをさせないようにって。縁を切ったのに定期的に連絡が来ているしなあ」
「そう、なんですか」
拍子抜け、といわんばかりに、ぽかんとしている冬威くんに、東方さんはにんまりと笑った。
「連絡を取ってはいたが、会うことはなかった。だから、真澄たちの息子の顔も知らなかったんだ。でもなあ、まさかと思ったよ」
口元をおさえて「くふふ」と東方さんがふき出す。
「小学生で、こんなギャラリーに来ている男の子ふたり。しかも、ここはあおぞら画材店の近くだ。これはまさか、きみたちのどっちかが、そうなんじゃないかってさ」
「だから、ぼくたちに話しかけてくれたんですか」
ぼくがそういうと、東方さんは大きくうなずいた。
「ふふ、やっぱり正解だったな」
人差し指を向けて、子どものようにはしゃぐ東方さんは、たしかに真澄さんの父親だった。冬威くんは全身の空気を吐き出すように、「はあ」としおれた。
それから東方さんとは、真澄さんや佑月さんのこと、ぼくのこと、そして学校のこととか、つもりにつもった話をした。
でも、尽と蓮くんの話はしなかった。冬威くんは、学校について聞かれると、こう答えた。
「まあまあ、楽しくやってます。筒井くんもいるし」
ぼくはそういわれて、嬉しかった。しかし、もやもやもした。そりゃあ、今ここですべて話しても、東方さんに心配をかけるだけだ。
でも、もう気持ちを隠さないでって、いったばかりだったのに。
「そう。筒井くんって……」
グラスのなかの氷がからん、と崩れた。
「まるで、道しるべみたいなんです。あると、ホッとする。だから、学校にも安心して行けます」
冬威くんの横顔は、やっぱりおとなびている。だけど、まっすぐに東方さんを見つめるまなざしは、秋の空のように透きとおっていた。
東方さんは心の底からうれしそうに、「そうか」といった。
尽が学校に登校してきたのは、あれから一週間後のことだった。結人くんは、自分がやったことをきちんと親に話したらしい。親同士の話が何度も行われたんだって、と莉子が教えてくれた。女子の情報網はあいかわらず、すごい。
尽と蓮くんは、春待リングデーについて、特に何もいわなかった。図書室の展示を見て、本を借りていく子がいても、黙って受付をするだけだった。
時也は納得いかないみたいだったけど、ぼくは別にそれでもよかった。だって、何も思っていないわけじゃなさそうだったから。
二時間目と三時間目のあいだの二十分休みのとき、ぼくと冬威くんが本を借りに行くと、蓮くんが春待リングデーの展示物を見あげていた。
今日は、水曜日。蓮くんが図書委員の当番の日だ。
ぼくたちが入ってきたことに気づくと、蓮くんは何もいわずに、カウンターまで戻り、座った。
冬威くんが、蓮くんをチラッと見やる。でも、何もいわなかった。ぼくも何もいわなかった。
ぬるい風が、本の香りと混ざりあい、ぼくたちのあいだを縫うように吹きぬける。
少し背筋を正してみる。
去年の図書室よりも、なんだか景色が変わって見えた。
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