6 いつかのステンドグラス

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6 いつかのステンドグラス

 三人で犬山に行って以来、純也はよくれおちゃんに話しかけるようになった。もちろん、れおちゃんには無視されているんだけど、もうまったく気にならないみたい。クラスのみんなは、そんな二人を変な目で見ている。  りとっちは、あいかわらず違うグループにいる。うちらのほうを見ようともしない。  一時間目のチャイムが鳴る。国語の授業がはじまる。なんだか、カウントダウンみたい。今日もまた、気まずいんだろうな。  桃太郎神社に行ったこと、りとっちに話さないといけない。なんていえばいいんだろう。  楽しかったよ。  純也って、実はいいやつだよ。  れおちゃんって、意外と変なもの好きみたい。  先生が「グループで机くっつけてー」といいながら、教室に入ってきた。純也とれおちゃんがさっさと机をくっつけようと立ち上がるなか、うちはなかなか動き出すことができない。早くりとっちと仲直りしたい。なのに、なかなかうまくいかなくて、もどかしい。  うちは意を決して立ち上がると、机を持ちあげ、なるべく普段通りのいい方でいった。 「りとっち、くっつけよー」  よし、ちゃんといつもの感じにいえた。  でも、りとっちは、うちと一切目を合わせることなく、机を持ちあげた。机を置き直すと、うちとりとっちの机のあいだには、五センチくらいほどのすき間が空いている。 「紙屋。お前、なんで机くっつけないんだよ」  こんなときに、純也のデリカシーのなさが出てしまった。うちとりとっちのあいだには、少なくともこれくらいの距離があるんだろうな。純也にはっきりいわれて、あらためて気づいたよ。  うちは、むりやり笑顔を作った。 「細かいなー。ちょっと離れてるだけじゃん」 「いや、気になるだろ。ぷよぷよだったら、連鎖起きないぞ」 「はあ? よくわからない例えしないでよ」  正直、りとっちに開けられた距離に、傷ついた。でも純也にはっきりいわれて、逆にふっ切れちゃったな。 「純也とも仲良くなったんだ。さすがだね」  どくん、と心臓がはねた。りとっち、今、うちにいったんだよね。 「ゆらりんは、誰にでも優しいもんね。私と違って」 「え」 「自分のこと、聖母か何かだと思ってるんでしょ」 「な、なに? それ」 「とりあえずさ、三人で話進めてよ。私、自分の研究、こっちで勝手にやってるからさ」  それから、りとっちは一言もしゃべらなくなった。れおちゃんは黙っているし、純也も雰囲気の悪さにやる気をなくしてしまったみたい。うちは、どうすればいいのかわからなくなって、ずっと白紙のノートを見つめていた。  またしても、うちらの班のグループ研究はほとんど進まなかった。  長い長い国語の授業が終わり、休み時間。うちはため息をつきながら机を戻してから、トイレに立った。これからのグループ研究もこんなかんじなのかな。憂鬱だよ。重い足取りで、トイレへと向かう。 「見た? リトガミさまの昨日の投稿、あいかわらずで超ウケるよ」 「まじか、どんなんだったの?」  クラスの女の子たちが、廊下で笑いながらおしゃべりしている。リトガミさまって誰のことだろう。どこの神さま? 思わず、耳をすませてしまう。 「えーとね、『イヅミくんの専属メイクになるために、今日もオシャレの勉強です☆ 最近、イヤなことばっかりでブルーだけど、私は前しか見てません!    イヅミくんと会うために、ぜったいに芸能界で活躍するメイクアップアーティストになる。みなさん、応援してください!』だってさ」 「うわー前向きー。ウケる。がんばってる自分、大好きーみんな私のこと見てーって感じ?」  女の子たちは、なぜか大ウケだ。今の投稿の何が面白いんだろう。  あれ、待てよ。イヅミくんって、りとっちが好きな「フェイト」ってアイドルグループのピンク担当の子だよね。それに、さっきいってた「リトガミさま」って、まさか。紙屋のカミと、里都のリト? 「あいつさあ、四年五年と同じクラスだったけど、ウチらのイヅミくんにひとりだけ近づこうとする魂胆がキモすぎなんだよね。何、メイクがんばってますアピールしてんの?」 「必死すぎなの、ほんまにおもろいわー」  これ以上、聞いていられなくて、うちは早足でトイレへ向かった。胸の真ん中が、もやもやして、ぐるぐるして、しんどい。  うちは、放心状態でトイレをすませた。廊下を歩いていると、無性に気分が悪くなって、ここにいたくなくて。足は勝手に昇降口に向かっていた。そのまま学校を出た。ランドセルは、教室に置いたままだ。  学校から、逃げてきてしまった。心臓がばくばくして、胸のあたりで暴れまわっている。どうしよう、なんでこんなことをしちゃったんだろう。自分でもわからない。ただ、もうあれ以上、あそこにいたくなかった。  花屋敷が見えてきた。自然に足が、庭のなかへと入っていく。すると、見知らぬおばあさんがガーデンチェアに座って、本を読んでいた。目があう。  やばい、家の人がいたみたい! 「あら、どちらさま?」 「すすす、すみません!」  うちは顔の前で車のワイパーみたいにぶんぶんと、両手を振る。 「いると思わなくて……じゃなくて! えっと、えっと……」 「もしかして、サボり?」 「あ、う……」  見事にいいあてられて、うちは静かにうなずいた。すると、おばあさんは「ふふ」と笑って、もうひとつのいすを引いた。 「座る?」  うちは猫みたいに、そろりそろりと近づいて、スローモーションでいすの上に腰をおろした。おばあさんが本に栞をはさむ。銀髪のボブヘアだけれど、肌のシワが少なくて、何歳なのかわからない。おばあさんみたいな髪の色なのに、まだまだ若い雰囲気。不思議な人だ。白いシャツに、紫色のスカーフを首に巻いている。スリムなジーンズに、サンダルから見える足元には紫色のペディキュアが塗られていた。 「ランドセルは?」 「置いてきちゃった」 「サボったんなら、お家に電話がかかってくるんじゃない?」 「家には誰もいないし……」 「そう。じゃあ、私が学校に電話しておいてあげるわ」 「えっ。でも、いいのかな」 「いーのいーの。ほら、体調が悪かったとかなんとかいえばいいのよ。おうちの人にも、あとからきちんと説明してね。あっ、ランドセルが心配なのね? 大丈夫。れおが持って帰って来てくれるわよ。あなた、れおと同じクラスの子でしょ」 「あっ、はい。でも、れおちゃんに悪いです。ランドセル重いし」 「平気よー。あの子、そこの小鳩堂でお米を買ったときも、ちゃんと持って来てくれたもの」  小鳩堂っていうのは、うちの家もご用達のスーパーマーケット。ここから歩いて三十分くらいはかかる。  お米の袋って、かなり重いよ。それをれおちゃんは、ひとりで持って歩いて帰ってきたのらしい。 「もちろん、丈夫なリュックに入れてだけどね。見かけによらず、意外と力持ちなの。だから、安心してサボるといいわ。ええっと、あなたのお名前って、なんだったかしら」 「滝比由良っていいます」 「ゆらちゃんね。オーケーよ。私は、れおのおばあちゃん。西園寺椎菜。シーナさんって呼んでね」  シーナさん。すてきな名前。うちはどきどきしながら、「はい」とうなずいた。 「今日、ちょうど仕事が早終わりだったの。ゆらちゃんに会えてうれしいわ。さっそく電話してくるわ。待っててね」  すると、おばあさんは家のなかへと入って行った。  庭のバラがゆれている。ふわふわした夏めいた風が、うちの頬をぬるくなでつけた。  逃げてきちゃった。学校から。うち、どうしちゃったんだろう。こんなことで逃げるなんて、弱虫だよね。  何だか、疲れたな。どうしようもなく、疲れた。なんで、こんなに疲れてるんだろう。 「ねえ、ゆらちゃん。ハーベストでミルフィーユ買ったんだけど、いっしょに食べない?」 「ハーベストって、小鳩堂の向かい側にできた、新しいケーキ屋さん?」 「そう!」  シーナさんは目をきらきらさせながら、「ハーベスト」と書かれた白い箱を掲げて見せてくれる。 「この町、田んぼばっかりでしょ。最近はようやく、コンビニやドラッグストアもちょろちょろできてきたけれど。でも、安さと品ぞろえは、小鳩堂には敵わない。でーも、そんな小鳩堂にも欠点はあった。そう、スイーツがないこと! 安っぽ……じゃない、お求めやすいロールケーキやシュークリームはあるけど、そんなのはこちとら、もう食べ飽きてるのよー。私は、都会っぽいスイーツが好きなの。でも小鳩堂にあるちょっと高めのお菓子といえば、羊かんに金つば、栗きんとん。何それ、興味なーい、でしょ? まあ、小鳩堂はいつ行っても、お年寄りの憩いの場所だものね。フードコートでは、私みたいなおじいちゃん、おばあちゃんたちがいつもだべってるし。だから、オシャレな映えスイーツなんて置いてても、売れないと思われてるのよ。名古屋にあるようなオシャレスイーツが食べられる日は、いつ来るのー。なーんて、思ってたら、ついに新しいケーキ屋がこの町にできたの! もう嬉しくって! さっそく買ってきちゃった!」  シーナさんは、スイーツが入っている箱に今にも頬ずりしそうな勢いだ。若々しい見た目だけれど、れおちゃんのおばあさんなんだよね。見えないなあ。  海外の映画で見たような、広々としたリビングに通された。お店みたいなフローリングに、皮張りのソファ。壁に取り付けられた大きなテレビ。そして、巨大なきのこみたいなステンドグラスのランプ。それぞれ違う大きさ、模様のステンドグラスのランプが部屋のところどころに置かれている。うちの家とはまったく違う雰囲気だ。 「お昼ごはん、まだでしょ? ささっと作っちゃう。それからミルフィーユを食べましょう」 「お昼までいただいちゃって、いいんですか」 「もちろん。私、ごはん作るの好きだから、気にしないで」  しばらくソファで借りた本を読んでいたら、「できたよー」と呼ばれた。キッチンのテーブルに、ほかほかの親子丼が二つ、湯気をゆらして待っていた。きらきら光る黄金色の卵と、鮮やかな緑のネギが、ふかふかの鶏肉にからまって、すごく美味しそう。ぱくりと食べると、お母さんの親子丼とはまた違った味付けだった。よその家で食べるごはんってこんな感じなんだ。  あっというまに、たいらげちゃった。だって、美味しかったんだもん。  お昼が終わると、さっそくシーナさんはケーキの準備をしてくれる。 「あ、またステンドグラス」  リビングとキッチンを隔てている窓の一部が、ステンドグラスになっている。鳥がはばたく間際のようなシーン。家のなかにステンドグラスがあるなんて、不思議。他では、野外博物館の教会でしか見たことがないなあ。 「あら。ステンドグラス、好きなの?」  さっきから、ランプや窓をやたら見ているのがバレちゃったみたいだ。 「だって、うちにはこんなのないし」 「それね、私が作ってるの。隣のアトリエで」 「あ、アトリエっ?」  そういえば、花屋敷の隣には、小さな小屋があったよね。あれ、シーナさんのアトリエだったんだ。というか! 「ステンドグラスって、自分で作れるの?」  シーナさんが、丸いトレイを持ってキッチンから出てきた。あたりにふわりといい香りがただよう。紅茶のにおいだ。 「作りたい絵があれば、誰でもできるよ。いろんな色のガラスを鉛の線でつなぎ合わせて作るの」 「ガラスでなんて、ケガとかしない?」 「するよー。最初はすごく手とかケガしたなあ」 「痛いのに、作るの?」  シーナさんが、ミルクティーをうちの前に置いてくれた。ストロベリー柄のカップとソーサーは喫茶店みたいに本格的。そして、ミルフィーユは、白いフリルみたいな装飾の可愛いお皿に乗せて。  シーナさんの手には、細かい古傷がたくさんついていた。ガラスで、かな。 「がんばればこんなにもきれいなものができるってわかってるから、作れるのよ」  にっこりと微笑むシーナさんは「さあ、食べて食べて」とフォークを渡してくれた。さっそく「いただきます」といって、ミルフィーユをほおばる。わあ、おいしいっ。やっぱり、コンビニや小鳩堂で売ってるケーキとは一味ちがう。いや、五味くらいは違うかも。  感動にまかせて「おいしい」を連発していたら、あっというまにミルフィーユはうちの胃のなかに消え去っていた。まだシーナさんは三口くらいしか食べていないのに。恥ずかしさに顔を真っ赤にしていたら、シーナさんが「ふふ」と笑った。 「おいしいでしょ。私なんて、ここのお店のモンブランのせいでちょっと太っちゃった」 「ふふ、食べすぎ?」 「それくらいおいしいってことなのー」  ぱくぱくとミルフィーユを食べながら、シーナさんはうちにたくさんしゃべりかけてくれた。でも、学校の話はしないでくれた。すごく優しい人。  れおちゃんのお父さんとお母さんも、ここでいっしょに暮らしてるのかな。  シーナさんと二人で、お皿とフォークを洗って片付けた。ふきんで拭いて、棚にしまい終えると、「お風呂掃除してくるから、ゆっくりしててね」といって、シーナさんはリビングから出て行った。  時計を見上げると、まだ十四時。下校時刻まで、あと二時間くらいある。どうしよう。このまま、この家でくつろいでいていいのかな。でも、自分の家でひとりでいるより、ずっといい。れおちゃんとシーナさんの家はなんだか安心する。人の気配があるからかな。うちの家は、なぜだかひんやりとしていて、さみしい。自分ちなのにね。  ソファに沈んで、色々考え事をしていたら、うとうとしてきた。いつも午後からの授業はつい眠くなる。給食を食べて、お腹いっぱいになるからだ。シーナさんの親子丼、おいしかったな。また食べたいな。また、このお家に遊びに来れるかな。  れおちゃんとシーナさんのお家。よるとの思い出がたくさんある、この花屋敷に。  よるが夢に出てきた。真っ暗な夜空のような毛並みが、午後の陽の光を浴びて、きらきらと光る。星空みたいだ。  よるはうちの話を黙って聞いてくれる。 「いつもひとりで本を読んでいる子の悪口を、クラスの子がいってたの。『気持ち悪い』って。だからうち、『やめなよ、そんなこというの。悪口はいわれたほうも、いうほうも、気分がよくないよ』っていったの。そうしたら、悪口をいった子は『たしかにね』って納得してくれた。でも、本を読んでいた子には『あんたは気分がいいでしょうね』っていわれたんだ。これって、うち、悪口をいわれたのかな。そんなわけないよね。よるはどう思う?」  よるは何もいわず、ただうちに撫でられている。でも、そのぬくもりがあったから、うちは何も気にせずにいられた。  その次の日からも、うちはうちが思う、優しいことをすることができた。  でも、これは夢だ。あのときとは違う。  よるのぬくもりが、だんだんとひんやり冷たくなっていく。 「いわれたほうのほうが傷ついているに決まってるのに、どうしてきみは、いったほうにも気を配っているの? そんなの、本を読んでいた子は気分が悪くなるに決まってるよ」  ごめんなさい、よる。うち、まだわかってなかったのかな。  もっと、いい子になるから。うち、一昨日よりも、昨日よりも、いい子になるから。どうか、見捨てないで。  目が覚めた。いつのまにか、眠ってしまっていたみたい。  まだ、ふわふわとした眠気のなかから、ぼんやりと目を開くと、れおちゃんがむすっとした顔でうちをのぞきこんでいた。びっくりして飛び起きると、足の裏に何かがあたり、ガチャンと音を立てた。ランドセル、うちのだ。 「重かったんだけど」 「ご、ごめん」 「シーナが『持って帰って来てあげて』なんて、学校に電話してくるから、仕方なくよ」  いいながら、れおちゃんはソファテーブルに置かれたチョコパイの封をあけ、食べはじめた。 「学校、どうなってた……?」 「あんたがいなくなったって、一瞬騒ぎになってたけど、すぐにシーナが電話をかけたみたいだったから、あっというまに落ち着いた。体調不良なら仕方ないって、先生がみんなに説明してた」 「そっか……」  よかった。シーナさんがうまく学校に説明してくれたんだ。 「でも、学校からあんたの家には、電話がかかってくるでしょうね」  そうだ。親への説明もしなくちゃいけないんだった。改めて、うち、とんでもないことをしちゃったんだな。 「大丈夫よ。うまくいえないときは、シーナを連れて行けばいい。なんとかしてくれるわ」  でも、これ以上シーナさんに迷惑をかけるわけにはいかないよね。ごはんも、デザートも食べさせてもらったのに。 「あれ、そういえばシーナさんは」 「洗濯物たたみに、二階に行ったわよ」 「そっか……いい人だよね、シーナさんって」  黙ってうちの顔を見つめてから、れおちゃんはチョコパイを飲みこんだ。 「そうよね。あたしの、自慢の祖母よ」 「れおちゃんのご両親は、何時にかえってくるの?」 「ここでいっしょに住んでないから、知らない」 「えっ」 「親だと思いたくもないし」  いっしょに住んでなかったんだ。それに、『親だと思いたくもない』だなんて、何があったんだろう。自分の親のことを、そんなふうに思えてしまうほどのことが、きっとあったんだ。  でも、それをくわしく聞こうなんてとても思えない。れおちゃんのことを知りたいけれど、家族のことを気やすく聞くことは、うちにはできない。  もっと聞きたいことは、他にも山ほどあるしね。 「ねえ、アトリエってどんなの?」 「見たいの?」 「うん。アトリエって、マンガでしか見たことないし。だから、シーナさんがいいよ、っていってくれるなら」 「いわなくても、平気。あたしも、あそこで作業したりするから」  れおちゃんは、チョコパイのからをゴミ箱に捨てると、すすすっとスリッパを滑らせて、玄関のほうへと歩いていく。人差し指で「こっち」と矢印を作る。うちはれおちゃんを追いかけ、花屋敷を出た。  れおちゃんちの隣に建つ、真っ白なプレハブ小屋。よると遊んでいた頃から、小さなひみつ基地みたいだな、とずっと思っていた。まさか、シーナさんのアトリエだったなんて。  なかをのぞくと、大きな和ダンスや作業机、なんとエアコンもついている。小屋のまん中からは、ハシゴが伸びていた。 「このハシゴは?」 「ロフトへ繋がってるの。あの上」  ロフトっていうのは、屋根の下にある部屋のことらしい。「屋根裏部屋みたいもの」といわれて、ようやくわかった。  屋根裏部屋というと、ハンモックやオシャレなカーペットが敷かれているような、オシャレな空間だよね。見てみたい! 「登ってみてもいい?」 「いいけど」  れおちゃんに許可をもらって、さっそく登ってみる。ハシゴのてっぺんから、ロフトをのぞきこんだ。小窓から太陽の光が差しこんでいて、下よりもあたたかい。物置として使われているのか、買いだめしたティッシュやトイレットペーパー、それに「非常用」と書かれた段ボール箱が積まれていた。  オシャレな空間は特になくて、少しガッカリした。 「これが現実かあ」  すごすごと降りていこうとしたとき、視界のはしにチラリと何かが映った。美術館の絵を入れるような豪華な額が置かれている。れおちゃんの「どうしたの」という声が聞こえた。 「すぐ降りるから、ちょっと待って」  額縁を持ちあげる。それには、ステンドグラスが入れられていた。色ガラスで作られた桃の絵だ。黒い背景に、ピンクの桃がポツンと描かれている。なんだか、これを見ると胸がきゅんと、切なくなる。どうしてだろう。 「これ」 「ああ、シーナが作ったステンドグラスね。シーナの作品はすてきでしょう。物作りが好きなのよ、あの人」 「そうなんだ」  アトリエに差しこむ日差しがせまいプレハブ小屋を照らす。うちらはどちらともなく、アトリエをあとにした。  家に戻ると、シーナさんがキッチンで夕ごはんの支度をはじめようとしているところだった。 「そろそろ帰るね」  玄関に置いていたランドセルを背負い、靴をはいた。「また来てね」と手を振るシーナさんに、うちは「はい」と笑った。  れおちゃんが、ガーデンテーブルまで、送ってくれる。 「あのさ」 「ん?」 「なんで、あたしがここで暮らしているのかって話だけど」  れおちゃんは、うちではないどこかをにらみつけていた。からだの奥底にためた怒りを、静かにこの庭へと流していくように。 「おじいちゃんは、あたしが生まれる前に亡くなったらしい。あたしのおばあちゃん……つまり、シーナはね、その何年も前から、あたしの両親とずっと疎遠になっているの。とある理由でね」 「理由って」 「それはいえない」  突然、吹きはじめた強い風が、れおちゃんの髪を扇状に吹きあげる。れおちゃんはすっと、髪を耳にかけた。 「いくらあんたが優しくて、心が広いっていっても、どうしても受け入れられないことが、この世にはごまんとあるの。あんたはすべての人の気持ちを受け止めようとしているみたいだけど、そんなのは無理なのよ。どれだけりっぱなおとなでもね。だから、いえない。そういうことよ」  夏めいた風が、花屋敷のバラたちをかすかにゆらす。まるで破裂するように生い茂る名前も知らない木や花が、この花屋敷にはたくさん生えている。うちがきちんと名前を知っている花は、どれだけあるだろう。  それほどに、この世の中は広い。  うちなんて、この世界の小さな小さな存在にすぎないって、思い知らされるようだった。  でも、だからこそ、うちは前だけを見つめたい。よるがずっとうちの帰りを花屋敷の前で待ってくれていたように、うちはれおちゃんの気持ちに寄り添いたい。  もう、偽善者っていわれていい。だってうちは、『善者』になりたい。偽物だと思われても、うちの思いだけは本物だから。  うちだけが、本物だってわかっているんなら、それでいいじゃないか。 「うちは知りたいと思ってるよ。れおちゃんのことも、シーナさんのことも、好きだから」 「だから、いえないって……」 「思うだけなら、いいでしょ。いってほしいなって、思うだけなら」  れおちゃんが、チョコパイみたいに目を丸くした。  すると、「本当にまっすぐな心ね」と後ろから声がした。シーナさんだ。  シーナさんが歩くと、花屋敷の花たちが、さわさわと揺れる。よほど、シーナさんのことが好きなんだな。 「私たちのこと、知りたいと思ってくれて嬉しいわ。れお、いいでしょ。この子なら」  れおちゃんは何もいわない。 「文句はないってことね、わかったわ」  シーナさんとれおちゃんは、言葉をかわさなくてもいいたいことがわかるみたいだ。 「今からいうことをむりに受け止める必要はないわ。受け止められなくてもいいの。ただ、知りたいと思ってくれて、寄り添おうとしてくれた、ゆらちゃんの気持ちが嬉しかったから、話すわね」  そういって、シーナさんは物語の序章を話すように、打ち明けてくれた。 「私たちは、自分が傷つけてしまった人の気持ちが見えるの。自ら、傷つけたしまった人だけの気持ちだけがね」  その真実はあまりにも残酷すぎて、うちはしばらくその場から動けなかった。
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