9 心の色

1/1
前へ
/10ページ
次へ

9 心の色

 岩根さんはテントのなかの紙の束をすべて集めると、カバンにぐちゃぐちゃに突っこんだ。足をタカアシガニのように動かしながら、テントを出ると、うちらを高い位置から見下ろしてきた。まるで、岩根さんだけ二階にいるみたいだ。 「うーん。聞きたいことっていわれても、ぼく、おしゃべりが苦手なんだよ。何を答えればいいのかな」 「ここでは長話はできませんから、いったん、図書館を出ましょう」  さっそく、もう歩き出している、れおちゃん。うちもそれに続いた。 「長くなるんだ……。ぼく、コミュ障なのになあ」  ぶつぶついいながらも、岩根さんはうちらのあとを着いてきてくれた。  おとななのに、猫背で自信なさげ。のっぽなのに、岩根さんのほうが、子どもみたい。うちらが親アヒル。岩根さんは、それに着いてくる子アヒルみたい。 「とにかく、落ち着いて話したいことがあるんです。桃太郎と、あなたの詩について」  すると、今まで気だるげだった岩根さんの動きがぴたりと止まった。 「……ワケありなかんじ? でもぼく、子どもをさらった犯罪者にされたくないし。とりあえず、近くの顔なじみの定食屋に行こうか。そこなら、信頼できるし、お腹も空いたし。きみたちも何か頼んだら。ぼくはおとなだからね、おごるよ」  そういって、岩根さんは長い足を、今度はキリンのように動かして、らせん階段を降りていく。いつのまにか追い抜かされていたことに気づいて、うちらはあわてて、岩根さんを追いかけた。  *  図書館を出て、向かいの道路の横断歩道を渡ったすぐにある、定食屋『角屋』さん。岩根さんはお店の自動ドアをすたすたとまたいでく。  お店の人に案内され、うちらはキッチンがよく見える、柱の近くの席に通された。  店内は、レストラン桃太郎と似た雰囲気があった。昔ながらのお店って感じ。手作りっぽいメニュー表に載っている料理は、どれもすごくおいしそう。そういえば、もうお昼すぎ。スマホを見たら、二時近くになっていた。ごはんも空くわけだよね。 「えっと、本当に頼んでいいんですか?」 「うん、いいよ。好きなものをどうぞ」  岩根さんのお言葉に甘えて、うちは天ぷらきしめん。れおちゃんは山菜きしめんを頼んだ。「それだけでいいの? 最近の子は小食だなあ」といいながら、岩根さんは味噌カツ定食を頼んでいた。  「それで、聞きたいことって?」  テーブルにほおづえをつきながら、岩根さんはうちらではないほうを見つめている。壁なのか、籐のパーテーションなのかはわからないけれど、ちゃんと話す気があるのかな。心配になるけれど、それでもれおちゃんは「それじゃあ」と身を乗り出した。 「あなたは、桃太郎の研究をしていたと、詩集のあとがきに書いていますよね。どんなことを研究していたんですか」 「少なくともぼくは、ほんの入り口しか研究できなかったよ」 「研究を辞めてしまったからですか?」 「そう。いろいろあったからね」  岩根さんは困ったように笑うと、お冷やを半分まで飲んだ。カラン、とガラスのコップに氷があたる音がした。キッチンのほうで、料理が出来上がっていく音色をバックに、うちらは話を続けた。 「『鬼が吠える』という本をご存じないですか。犬山市図書館の除籍本のなかから見つけたんですが」 「ああ、あれかあ。岩根家の倉庫から見つかった日記を、書籍化したものだ」  うちらは顔を見合わせた。一気に心拍数が上がっていく。 「待ってください。まさかあなたは、西園寺麗応を知っているんですか」 「え?」 「それじゃあ、あなたが怒りの色が黒だといっていたのは、日記に書かれていたことを詩にしたということですね。やっぱり、そうだったんだ」 「待って、待って」  れおちゃんがまくしたてるようにいうと、岩根さんは「こっちのせりふだよ」と乾いた笑いをこぼした。 「君たちはいったいどういう目的で、ぼくに話を聞きに来たのか……まあ、まずはそっちの質問に答えよう。時は室町時代。わかりやすくいえば、一休さんがいたころの時代だね。あの本には、室町時代のぼくの先祖のとんでもないあやまちが書かれていた。それが見つかったので……ぼくは桃太郎の研究を辞めたんだ」 「どうしてですか」  れおちゃんが、淡々とたずねる。ほおづえをついていた右手で顔を隠していた岩根さんが、指のすきまから、うちらのほうをのぞいた。  その瞳に映る光が、悲しそうにゆらいだ。 「ぼくの先祖は、麗応のことを心底こわがっていたようでね。不思議なちからを持っているってだけで、人外あつかいだ。  今ではありえないことだが、当時の人々にとって麗応の存在はやはりもののけと同じだった。周りの人々は、ぼくの先祖を後押しした。やっつけろ、退治しろってね。  そして、西園寺麗応は殺された。周りはぼくの先祖をほめたたえたよ。すごい、すばらしい、あなたは英雄だって。すっかり調子にのった先祖は『桃太郎』だなんて童話を作った。自分をヒーローし、麗応を鬼にした物語だ。  めちゃくちゃイタいやつだろ。だから、桃太郎の研究をしている自分が、急に恥ずかしくなってさ。  だから、辞めたんだ」  岩根さんが深い息をつき、残りの水を飲みほしたところで、注文した料理が運ばれてきた。  うちらはそれを、黙って食べた。天ぷらきしめんは、すごくおいしかった。ころもはさくさくだし、麺もつるつる。また食べに来たいくらいだ。  岩根さんは、本当にうちらのごはんをおごってくれた。でも「おとなだからねえ」という言葉を五回くらいは聞いた。まるで、自分をむりやりおとなにする悪い呪文みたいだ。  うちらはそれを三回目くらいからスルーするようになった。岩根さんはお金を払うとき、ぐっと歯を食いしばっていた。おとなって大変なんだな。  お店を出たところで、「あ」と岩根さんが、うちらのほうをふり向いた。 「そういえば、なんで、きみたちは西園寺麗応のことを知っていたの?」 「今さらですか……」  れおちゃんが、頭を抱えた。「この人って、自分のことしか考えてないわよね」とれおちゃんがうちに耳打ちしてきた。  財布をカバンにしまっている岩根さんの目を盗んで、れおちゃんは「ビビって鬼を退治した、ご先祖さまにそっくり」と続けた。 「あたしたちの名前も、一回も聞いてくれていませんよね」 「そうか、興味がなくて聞く気にもならなかったよ」  まったく悪気がなさそうにいう、岩根さん。れおちゃんは、すっかりイライラしはじめている。 「この子は、滝比由良。そして、あたしの名前は西園寺麗央。これで、どうしてあたしたちがあなたのもとを訪ねたのか、わかってもらえますよね」  すると、岩根さんは一気にれおちゃんへとつめ寄る。 「きみが、西園寺の子孫? 証拠はあるのか」 「あ、あたしには、西園寺が持っていた、異能のちからがある。自分が傷つけた人の心が見れるちから。あたしの祖母にも、そのちからが……」  すると岩根さんは、れおちゃんの両手をにぎって、「奇跡だ」と声を弾ませた。うちはあわてて、岩根さんの手を手刀で払いのけた。接触、ダメ、ぜったい。でも、本人にその気がないのはわかってる。岩根さんは今、研究者の血がたぎってしかたがないんだろうな。 「西園寺くん。きみは自分の過去を知りたくて、ぼくを探していたのか」 「いいえ、このちからを失くす方法をあなたなら知っているんじゃないかと思って、探していました。祖母の時代から、ずっと」  岩根さんは、れおちゃんの言葉を噛みしめるように「そうか」といい、しばらく黙りこんだ。それから、どうやら何か考えごとをしながらも、話を続けてくれた。 「おばあさまにも、まだそのちからが?」 「あるみたいです」  岩根さんは「そうか」とスマホをいじりだした。何かを調べているみたいだ。 「西園寺くん。きみ、ご家族は?」 「えっと、シーナ……祖母と二人暮らしです」 「そうか。おばあさまに、ぼくの名刺を渡してくれないかな。予定が会えば、直接話をしましょうと伝えてほしい。ぼくのほうは、一番はやい日だと、来週の土曜日が空いているよ」  岩根さんは、ぐちゃぐちゃのカバンから名刺ケースを取りだすと、小さな紙を一枚取り出して、れおちゃんに渡した。『詩人 岩根凛太郎』と書かれた名刺の裏には、連絡先や経歴などが印刷されている。 「岩根さんのことを話せば、シーナは話をしたがると思う。たぶん」 「シーナ……ああ、おばあさまのことか。わかった。じゃあ、予定がついたら、連絡を入れてくれ。場所は……我が城はとてつもなく散らかっているから、子どもにとって衛生的でない、とだけいっておこうかな。それじゃあ、よろしく」  岩根さんはぷらぷらと手を振ると、またサバンナのキリンのように歩きながら、犬山の町へと消えていった。  うちらは、しばらくふたりして岩根さんの名刺をながめていた。れおちゃんを見ると、興奮したように顔を紅潮させて、名刺を握りしめている。期待と、高揚と、少しの不安が伝わってる。 「帰りましょうか」 「うん。シーナさんがハーベストのモンブランを買って、待ってるっていってたもんね」 「ええ、まっすぐに帰りましょう」  すっかり、れおちゃんちが我が家のような気分だ。れおちゃんと仲良くなってからは、自宅の玄関がよけいに素っ気なく感じる。帰るときも、まだまだれおちゃんちにいたい気持ちを抑えて、家に帰ってる。  今日も、帰りたくないな。家に帰っても、両親とはろくに話さない。  二人は、まだうちの友達は、りとっちだと思ってるんだろうな。でも、仕事で疲れた二人に、うちのことで悩ませたくない。  今のうちは、転校生のれおちゃんと仲良くなって、色んなところにいって、れおちゃんのおばあちゃんにもケーキをごちそうになったりしてる。あの、花屋敷の家の子だよ。  うちが、よるっていう猫と仲良しだったことも知らないし、もう死んでしまったことも知らない。よるが死んで、毎日泣きながら眠っていたことも、知らない。  うちの胸には、いつもぽっかりと穴が開いている。うちの心は、れおちゃんには、どう見えてるのかな。純也みたいに、傷とかがついていたりするのかな。  れおちゃんにそんなこと、聞けないよね。 「滝比さん。家に着いたわよ」 「え……いつのまに」 「電車に乗りはじめたあたりから、自分の世界に入っちゃってたもの。あたしもあえて話しかけなかったし」  無意識で歩いて、花屋敷にたどりついたのか。人間の癖って、すごい。  ふと、ポピーの花がゆれているのに気づいた。ゆらゆら、ゆらゆら。他の花は、ゆれていないのに。 「……よる?」 「ねえ」  れおちゃんが、うちの顔をのぞきこんでくる。雪のような肌に、氷のような冷たい瞳。でも、その瞳の奥には、赤く燃える炎がある。そんな瞳に見つめられて、うちの心臓は、ドキンと高鳴った。 「あなた、いつもうちの庭を見ているわよね」 「え……」  れおちゃんのまっすぐな瞳に、おろおろしているうちの情けない顔が映っている。 「どうして? はじめて会ったときも、あなたは庭をながめていた。まるで、誰かを探すように。誰を探していたの?」 「友達……とても、大切な」 「紙屋さんじゃない人なのね」  うちは、深くうなずいた。そして、れおちゃんによるとの日々を話した。  よるのことを誰かに話すのは、はじめてだった。  れおちゃんにそのことを話すのが嬉しくて、そして、さみしかった。  よるはもういないということを、あらためて自覚しながら話すのは、まだ辛かった。気をつけないと、泣いてしまいそうだった。 「うちの家の前で、そんなことがあったのね」 「よるはもういない。わかってるんだけど、それでもまだ、この庭にいるような気がして、つい探しちゃうんだ」 「よると別れたのって、三年前よね」 「えっと、そう、だね」 「動物はね、人間と比べて、生まれ変わるのがとても早いの。死後、数か月で生まれ変わる子もいると、本に書いてあった」  教科書を音読するように、れおちゃんはいう。  でも、うちにはわかった。その、生真面目で淡々とした口調のなかに、どこか湿った悲しみが混じっていることを。  生温かい風が、うちらのあいだを通り抜けていく。  それは、よるの毛並みの温度や、触り心地に似ていて、うちの視界がじわりとにじんだ。 「よるはもう、ここにはいないってことだよね」  わかってた。ポピーがゆれていたのは、よるじゃない。  ただ、風でゆれていただけ。あるいは、目の錯覚。  よるだったらいいな、と思いこんでる、うちの都合のいい白昼夢だ。  それでも、よるといた花屋敷の思い出に浸りたかった。 「さみしくてさ、ついつい、よるのことを思い出しちゃうんだ。もう、来年から中学生なんだもん。おとなにならなくちゃいけないのに」 「よるは、確かにもういないかもしれない」  れおちゃんの一言に、うちの胸がずきんと痛む。いけない、傷ついたら。れおちゃんに見られてしまう。  れおちゃんの目線が、うちの心臓のあたりに突き刺さる。気づかれた。れおちゃんが悲しそうに目をギュッと閉じる。  それでも、意を決したように、れおちゃんはまっすぐにうちを見つめた。 「でも、生まれ変わって幸せにしているかもしれないでしょ」  ぶわっと、風が花屋敷の花びらたちを舞いあげた。赤、黄、だいだい、ひらひらと色とりどりの花びらがうちらに降りそそぐ。  きれいだった。まるで、うちとれおちゃんの気持ちに答えるかのように、花の雨が舞い散っていく。 「よるは、風に生まれ変わったのかもしれないわね」 「え……」 「いつでも、あたしたちのことを見ている。そう、応えたんじゃないかしら」  あたたかい湿った風が、うちの手のひらに触れた。よるの温度。  そうか、いつも、ここにいたんだね。生まれ変わって、また花屋敷に戻ってきていたんだ。  よる、会いたかった。うちも、れおちゃんも、ここにいるから。  いつでも、ここに風を吹かせて、よる。  *  リビングのテーブルで、ハーベストのモンブランを食べながら、うちらはシーナさんに、岩根さんのことを話した。シーナさんは驚きながらも、じっくりと話を聞いてくれた。  そして、岩根さんが『鬼が吠える』の日記を書いた人の子孫だということを話したときには、言葉を失っていた。  そうだよね。ずっと探していた相手がついに見つかったんだもん。そりゃあ、絶句するよ。  全てを話し終わると、いよいよシーナさんは口を開いた。 「あなたたち、そんな怪しい人にごはんをごちそうになったり、長時間話しこんだり……危ないでしょ!」 「……は?」  今度は、れおちゃんが絶句する番らしい。 「その岩根って人が、人さらいだったらどうするの。もっと警戒心を持ちなさい」 「いやいや、今回は仕方なかったの。わかるでしょ、シーナ」 「れお。いくら岩根って人に接触したかったからって、急に押しかけるなんて危険よ。もうおとなのあなたなら、わかるでしょ」  すると、れおちゃんは食べかけのモンブランに、握りしめたフォークをぶっすりと刺した。 「わからない。あたしはまだ、十四歳よ。投票権もない、子どもなの。おとなじゃないから、シーナがなにをいっているのかわからない」 「まったく。こんなときばっかり、子どものふりをするんだから」  シーナさんが、れおちゃんが刺したフォークをモンブランから抜いて、お皿の上にていねいに置いた。 「子どもがやりはじめた危険なことは、おとなの私がいっしょに見届けるわ。仕方がないから」 「いいんですか」  うちがいうと、シーナさんはいすから立ち上がった。 「連絡を取るんでしょう。私がするから。待ってて、スマホを持ってくるわ」  リビングを出て行ったシーナさんの後ろすがたを見届けると、れおちゃんは口をへの字にしながら、モンブランをぱくりと食べた。 「シーナってば、本当は岩根って人に会ってみたいのよ。でも、おとなの立場があるから、仕方なくあたしたちを叱ったの。まったく、おとなって面倒よね」 「そっかあ……」  うち、お父さんとお母さんに叱られたことってあったっけ。よく思い出せない。本当に小さい頃は、叱られたこともあったのかもしれない。でも、はっきりした記憶がない。  昨日は、お母さんと何を話したっけ。見ていたテレビの話かな。  両親との、最近の記憶があんまりないな。うちの胸のなかを冷たい風が、ひゅーっと吹いていく。  モンブランを食べ終わるころ、シーナさんがスマホを持って戻ってきた。 「オッケー。やっと岩根って人のアカウント、登録できたわー。ほんと、いつまでなっても、スマホの扱いに慣れないのよね」 「まったく。わからないなら、あたしに聞けばいいじゃない」 「だってれおに聞いたら、なんでわからないのよ、って怒るんだもん」  シーナさんが、つんとそっぽを向いてしまったので、れおちゃんは呆れた顔をして、両手を上げた。  なんか、どっちが年上なのかわからないね。れおちゃんとシーナさんの関係、憧れるなあ。 「それじゃあ、岩根さんに連絡しておくね。次の土曜日だっけ。十時半くらいでいいかな。由良ちゃんも来るのよね」 「え」  よく考えたら、うちは行く必要ないよね。うちにはまったく関係ないことだし、行っても行かなくても、どっちでもいいんだ。 「……由良ちゃん、ごめんね」  突然、シーナさんがうちに謝った。  しまった。うち今、ちょっと傷ついちゃったんだ。いけない。シーナさんに、悪いことしたな。 「シーナ。ゆらも来るに決まってるわ。そうでしょ、ゆら」 「あっ……」  れおちゃんが、うちのこと、名前で呼んでくれた。  一気に、心のなかが嬉しさであふれる。  まるで、花が開くように、あたたかさに満ちていく。 「それじゃあ、土曜日の十時半。空けておいてね。由良ちゃん」 「はいっ」  学校のない日も、またれおちゃんと会えるんだ。  早く、時間が経てばいいのに。  そして、あっというまに夕方五時半。家に帰る時間だ。  花屋敷を出て、家までの道のりを歩く。お母さんが帰ってくるまでに、部屋に掃除機をかけておこう。あとは、おかずを一品作る。今日は、豆苗とシーチキンの卵とじを作ろうかな。  その時、スマホが鳴った。れおちゃんかな。しかし、届いたラインの通知画面を見て、うちの背筋が凍りつく。 「りとっち……」  あわてて、ラインを開いて、メッセージを読む。 『次の土曜日、空いてる?』 「え……」  どうしよう。なんて返信しよう。  土曜日は予定がある。でも、りとっちの話も聞きたい。  うちは、慎重に返信を打った。 『どうしたの、用事?』 『うん』 『学校じゃ、話せないようなこと?』 『公園とか、誰もいないようなところで話したい』 『……わかった』  土曜日の、朝十時。りとっちはそういって、『よろしく』といううさぎのスタンプを押してきた。うちも、『了解』というねこのスタンプを押し返す。  れおちゃんとの予定よりも三十分早い。どうしよう。間に合わなかったら、れおちゃんの約束を破ることになる。  断ったほうがいいのかな。  でも、どっちを断るの? れおちゃん? りとっち?  スマホに、れおちゃんの家の電話番号を表示する。あとは、指で押すだけ。そうすれば、電話はかかりはじめる。でも、押せない。  結局、土曜日になるまで、うちはどっちの約束も断ることができなかった。  *  ついに、当日。朝からじめっとした空気だった。六月は、これだから嫌だ。スマホを見ると、降水確率は六十六パーセント。六六六でそろえなくて、いいよ。  ベッドから出て、朝ごはんを自分で用意する。土日も、お父さんとお母さんは仕事のことが多い。平日休みがほとんどだ。お父さんは飲食店の社員で、お母さんは倉庫のピッキング作業のフルタイムパート。ふたりともうちのために一生懸命働いてくれている。だから、文句なんていえない。もう来年から中学生だし、ますますお手伝いがんばらないと。  朝の七時半。りとっちとの約束の時間まで、まだまだある。朝ごはん、ちょっと気あいを入れようかな。  食パンに卵液をたっぷりと染みこませているあいだに、フリルレタス、ミニトマトを切る。ベーコンをカリカリに焼いて、あとはレトルトのコーンスープ。レトルトだとあなどるなかれ。このコーンスープ、とっても絶品なんだ。とろーりとろけて、つぶつぶのコーンは噛むじゅわっとジューシー。ものすごくおいしいの。  これをスープカップにいれて、野菜はアカシアのお皿に乗せて。卵液で十分にふやけた食パンをこんがり焼いたら、フレンチトーストの完成。  今日はこれを食べて、乗り切るぞ。  ぱくり、一口食べて、ようやく気づいた。砂糖を入れるの、忘れた。そんな日に限って、チョコレートソースも、はちみつもからっぽ。  いつもはある、バナナすらない。  思わず、ため息が出た。 「りとっちに何をいわれるんだろう……」  十時。りとっちにいわれて、家の裏の道路をはさんだ、クラスメイトの家の前に集合した。ここが、うちらのいつもの集合場所だった。花屋敷から、歩いて十秒くらいのところだから、助かった。ギリギリに終わっても、すぐに行けば間にあいそう。  りとっちは、一分ほど遅れてやってきた。とても緊張しているみたいで、顔色が悪い。よく眠れなかったのかな。髪も、いつもはSNSで流行っているかわいい髪型をしてるのに、今日はぼさぼさ。後ろで適当にしばっているだけみたい。 「ごめんね、呼び出して」 「ううん、用事ってなに?」 「あのさ……」  りとっちは息を思いきり吸いこんで、はあっと吐き出した。 「意外だったな、と思って」 「え?」 「由良と西園寺さんみたいなクールキャラが友達になるなんて、予想外だったなって。実際、由良みたいな世話好きポジってさ、私みたいな可愛い系の隣にいるパターンが多いじゃん。なのにすっかり、西園寺さんにべったりだよね」  りとっちの声は、震えていた。  どうして、りとっちが泣きそうになっているのかわからなくて、うちは戸惑った。 「あの、それって……どういう」 「由良だけが、私の夢をわかってくれた」  りとっちの夢って、メイクアップアーティストになることだよね。夢のために、毎日毎日、必死でおしゃれを勉強してるの、知ってたよ。 「由良だけが真剣に、私の夢を応援してくれた。『意識高いね』だの『本当になれるの』だの、つまらないことをいわなかった。『すごいね、応援してるよ』っていってくれた由良の言葉だけが、私の宝物だった」  りとっちがそんなふうに思ってくれてたなんて、うち、全然知らなかった。 「クラスのつまらない女子たちが、好きなアイドルやユーチューバーの話をしているときも、私が頭のなかで考えているのは、将来のことだけ。私は本気なの。だから、由良の前向きな言葉だけがほしかった。由良が隣にいれば、私は走れると思ったから」  りとっちが、うちの両手を握った。汗ばんで、冷たい手。いつもは、いい香りのハンドクリームをつけていて、ふわふわの手なのに。 「由良! 私の隣に戻ってきて。西園寺さんよりも、私のほうが可愛いでしょ? 私、やっぱり由良がいいの。由良だって、冷たいだけの西園寺さんより、ずっと友達だった私のほうがいいでしょ?」 「りとっち、どうしたの? 何かあったの? りとっちらしくないよ。笑顔でいるのが夢を叶えるヒケツなんだって、いつもいってたじゃん」  りとっちの顔が青ざめる。やっぱり何かあったんだ。 「あれ。紙屋さーん。こんなところで何してるの」  りとっちのからだが、ぶるりとはねる。  りとっちの後ろから、クラスの女子たちが自転車に乗って走ってきた。どこかに出かけようとしていたところで、うちらを見つけたんだろう。  この子たち、前にりとっちのSNSの話をしていたグループだ。 「イヅミくんと仲良くなれたー?」 「なれるわけない……」   りとっちは、うつむきがちに答えた。 「なんで? そのために可愛くなるためにがんばってるんでしょ? まだなれないの?」 「まだ、勉強中だし……」 「おっそー。早くしないとイヅミくん、誰かに取られちゃうよー?」  ひとりがしゃべると、ひとりが笑う。りとっちは何をいわれても、ただ小さく返すだけだった。いてもたってもいられず、うちはりとっちの前に出た。 「よくないよ、こういうの」 「滝比さん。さすがー。あんた、紙屋さんに盾にされてるだけなのにさ」 「盾?」 「滝比さんが隣にいれば、自分と悪口のあいだのクッションに自分からなりに行ってくれるでしょ。今みたいに」  女子たちはおかしそうに笑っている。 「あとさ、前々からいいたかったんだけどさ。推しに近づくためだけにメイクの勉強してるって、どうなの? 推しのために夢を踏み出しにして、推しに不純な動機で近づいて、本気でメイクアップアーティストになりたい人に対して失礼じゃない? 何より、イヅミくんに対して、誠実じゃないよね? 夢を汚してんの、あんた自身なのわかってる? あんたのそういうところが、嫌われる理由ってこと、そろそろ気づいたら?」  吐き捨てるようにいうと、女子たちは自転車に乗って、走り去っていった。  りとっちは放心状態だった。うちが何か話しかけようとすると、逃げるように一歩下がった。 「帰る。ばいばい」 「りとっち。あのさ」 「ごめんね。……ゆらりん」  そういうと、りとっちは顔をあげずに、来た道を戻っていく。  じめっとした、朝だった。降水確率は六十六パーセント。空を見あげると、灰色の雲がじわじわとうちらの上をおおいつくそうとしている。降らなくてもいいよ。  だってたぶん、りとっちはもう泣いていた。これ以上、りとっちの濡れた顔を誰も見ないであげてほしい。  スマホを取りだすと、十時十五分と表示されていた。まだ、間に合う。  りとっちを追いかけよう。  その時、スマホが鳴った。りとっちからだった。 「もしもし」 『由良、ごめんね。聞いてほしい』 「うん」 『私……クラスで孤立してるんだ。いつのまにか、さっきの話がクラス中に広まってた。萌たちのグループからも、切られた。だからつい、都合よく由良にすがりつこうとした。由良なら、優しいからまた仲良くなってくれるかなって思ったの』  電話ごしだから、りとっちがどんな顔をしているのか、わからない。でもりとっちは涙をこらえながら、話しているみたいだった。空は今にも、雨が降りだしそうだった。 『でもね、私、由良と話して、やっと決めたよ。もう、誰にも甘えない。私、登校拒否するよ』 「え? どうしてっ?」 『私さ、確かに最初はイヅミくんの為だけに、メイクの勉強をはじめたよ。でも、今はメイクのことが本当に好きなの。メイクもメイク動画も、メイクで変身した自分も、大好き。でも、このまま学校に行き続けてたら、自分のことが大嫌いになりそうなの』  メイクのことを話すりとっちは、とてもまぶしかった。  だから、うちは本気でりとっちのことを応援した。りとっちの夢への思いは、本気なんだと信じた。  踏み台なんかじゃないし、失礼であるわけがない。りとっちの夢への気持ちは本物だよ。  りとっちがきらきらと輝いていたのは、夢に対して誰よりも真剣だったからだ。 『登校拒否して、メイクのことに集中する。家で、勉強もメイクのこともがんばる。どうせ、中学は私立を受験するつもりだったんだ』 「……そう、だったの?」 『いってなくて、ごめん。なかなか、いい出せなくてさ。由良には、いつでもいえると思ってたから』  まさか、うちらの関係がこんなことになるなんて、りとっちも思っていなかったよね。 『こんな私でも、応援してくれる? 由良』 「うん、もちろんだよ」 『……ありがとう。ごめんね……ゆらりん』  電話を切ると、空には少し、晴れ間が出来ていた。  りとっち、このままでいいのかな。でも、家にはいつでも会いに行ける。  とりあえず、話せてよかった。  時刻を見ると、十時二十八分だった。うちは急いで、花屋敷へと向かった。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

10人が本棚に入れています
本棚に追加