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「お~い、ぼく。ちょっといい?」
途方に暮れていたところに声をかけられた。鳶色の着物に大きな翼。細い足に高下駄を履いた天狗が、俺の斜め前にしゃがんだ。羽の先が地面を擦った。
「安心して、私は杜番の菊一という者だ。ご存知かな?それ、おうちから持ってきたのかい。名刀じゃないか。いいなあ。おじさんに見せてくれる?」
杜番は落ち着いて見えたが、声は緊張を孕んでいた。俺を刺激しないように刀を取り上げるつもりのようだった。そんな気を回されるようなことをしでかした自分がいたたまれなかった。俺は黙って刀を地面に置いた。
「ありがとう。利口だね。……おや、仁崎さんちの角坊ちゃんじゃないか。どうしたんだい、こんなところに来て」
「……」
稽古から逃げてきたなど、杜番に言っても仕方がなかった。
「家に帰るなら送るよ」
「……いらない」
父上に逆らったのだから容易には帰れないだろう。だからと言ってどうすればいい?いっそここから、朱越の外へ出てしまえば、父上から逃げられるだろうか。
「そう。分かっているとは思うけど、これより先へ行っては駄目だから、ね?」
見透かされているようで怖かった。
「……知ってる」
杜番は俺の刀を重そうに拾い上げた。見るからに危なっかしくて、それに手を伸ばしかけて、ひっこめた。杜番は力の抜けた笑みを俺に向けた。
*
「落ち着くまでいていいよ」
そう言って杜番は俺を家に招いた。それは東屋くらいの大きさだった。家と言っていいのだろうか。一応屋根と壁はある。家は古びてこそいるが、こんな林の中にあるにしては手入れが行き届いていた。西側の縁側に腰掛ける。
「寒いだろう、入れば」
なぜ真剣を持ち出したのか問いただされると思ったが、杜番は何も言わなかった。現世のものだろうか、がらくたを楽しそうに弄んでは、小さな手帳に書き物をしている。
杜番のことは、いつ知ったのか覚えていない。ここのような現世と常世の間の土地には、双方を住処とする者が入り乱れないように、番をする役割の者がいる。朱越でその役目は、特殊な出自の天狗が務めている。
いつのまにかその役割もその人の顔も知っていた。そういえばほとんど見かけたこともないのに。だからといって気に留めることはなかった。朱越の中にいる限り、仁崎家が杜番と関わることはなかった。
杜番と話すのも、近くで見るのも初めてだった。
身の丈ほどもある大きな翼に、すっぽり隠れてしまう細い体、そばかすのある幼い顔。一見すると少年のような見た目なのに、倍はくたびれた雰囲気をしていて、実際にそれくらいの年なのだという。話せば細い喉から案外低い声が出て、それがどうにも柔らかく感じた。
俺は考えた。今朝の父上との手合わせ、逃げた道中、持ち出してしまった刀。父上に頭を下げて、次はうまくやって……。
簡素な家の中は、俺の心中など知らないように、静かで気兼ねなかった。家の隙間から外の風がひっそりと入っては出ていく。
ここは杜番の家で、杜番は全くの他人だ。だからできるはずないのに、ここに停滞していたかった。
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