【50】忘れないでいて

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【50】忘れないでいて

瀬名は桜庭の細い肩を抱いて部屋へといざなった。 部屋の中央にあるテーブルの前に桜庭を座らせる。 瀬名はコンビニの袋から弁当を二つ取り出すと、「チンしてくるから待ってて」と言って部屋を出て行った。 桜庭は制服のジャケットのポケットからハンカチを取り出すと、ざっと顔を拭いた。 瀬名の部屋を見渡してみる。 まるで時間が止まったように、瀬名の部屋は変わっていなかった。 テレビに繋がれたゲーム機。 その横にもゲーム機が数台ある。 机の上のパソコンと携帯用のゲーム機。 床に置かれたギターケース。 そして、木目調のシングルベッド。 何度、抱き合っただろう。 『莉緒ちゃんは俺のモノだよ』 繰り返し言われた言葉。 傷付けられて傷付けて終わった恋。 一瞬の両想いで砕け散った恋。 桜庭の瞳にまた涙が浮かぶ。 終わったことなんだ… でも、またこうして友達として、この部屋に来られた それだけでも嬉しい 嬉しいよ、ハル… 瀬名は電子レンジの前で、しゃがんでいた。 自然と涙が零れた。 桜庭に嫌われよう、自分を忘れさせようとしていた日々。 だが、桐生に避けられた上、来るか来ないかも分からない桐生を2時間も待っていた桜庭を見て、話しをして、考えが変わった。 桐生と桜庭には何かがある。 桜庭が悩むような何かが。 それなのに、桜庭は悲しんでいる癖に、桐生を好きだと疑ってもいない。 桐生のすることに無意識に従っている。 一週間も放置されているのに。 普通の恋人だったら、怒るだろう。 たぶん、莉緒ちゃんは『お助けマン』にしか本音を言っていない でも『お助けマン』にはやれることに限界がある だから俺は友達に戻る 友達に戻って、生身の俺で、莉緒ちゃんの悩みを解決する手助けがしたい 桐生くんだって『友達』なら認めてるんだ 莉緒ちゃん… 俺の部屋を見て泣いてくれたね 嫌な思い出ばかりじゃ無いんだと、思ってもいいよね? 駅からの道も 俺んちに上がってくれたことも どんなに胸が高鳴ったことか 好きだよ、莉緒ちゃん 愛してるよ 一日だって思わない日は無かった だからどうか幸せでいて欲しいんだ… 瀬名が部屋に戻ると、桜庭は普通の様子でペットボトルのお茶を飲んでいた。 瀬名を見ると照れ臭そうに笑った。 その笑顔。 瀬名の胸に過去が蘇り、胸が締め付けられる。 瀬名は持っていたトレイをぐっと握った。 「あったかいうちに食べちゃおう」 瀬名はそう言って食事をテーブルに置いた。 少し食べ進むと桜庭が「みんなは?」と訊いた。 「みんなって?」 「司くんは来ないだろうけど、卓巳とか明は?」 瀬名がニッと笑う。 「俺、一人です」 「え…」 「今日は莉緒ちゃんは俺の専属家庭教師! よろしくお願いします!」 瀬名がペコッと頭を下げる。 桜庭は「何なんだよ~」と言うと、あははと笑った。 「俺、卓巳の苦手なトコとか資料持って来たのにー」 「ごめん、ごめん。 驚かせようと思って」 「勉強に驚かすも何も無いじゃん」 桜庭はまだクスクス笑っている。 瀬名は内心ホッとしていた。 話しをするなら二人きりの方が良いと思っていたからだ。 ただ、桜庭が嫌がる可能性があった。 「じゃあビシビシしごくから」 桜庭は頬袋一杯にして、上目遣いで瀬名を睨む。 「お手柔らかにお願いします…」 瀬名がショボンとして見せると、桜庭がまた笑った。 食事が済んで一息入れると、二人は勉強を始めた。 主に瀬名が分からないところを桜庭が説明していく。 瀬名が問題を解いている間に、桜庭も自分の勉強をする。 瀬名はこの前差し入れたブタの消しゴムが、ビニールの包装に包まれたままだと気が付いた。 「莉緒ちゃん、これ…。使わないの?」 「ああ、それ」 桜庭は大切そうにその消しゴムを持った。 「これ『お助けマン』からの差し入れなんだ。 かわいいだろ? かわいくて使えないし、汚れるのが嫌だから」 瀬名は胸が熱くなった。 こんな消しゴムひとつを、大切にしてくれている… 「ハル?」 「本当にかわいいですね。 莉緒ちゃん、そのブタの絵、描いてみてよ」 桜庭は真っ赤になって「何でだよ!?嫌だよ!」と言った。 瀬名は必死に笑いを堪えた。 2時間もすると休憩することにした。 瀬名は、桜庭と瀬名が共通で好きなアーティストのDVDをかけた。 テレビを観ながら、お菓子を摘む。 すると、桜庭がポツンと言った。 「なあ、ハル」 「え?」 「何で急に…と、友達に戻ってくれたの?」 桜庭は俯いていて、瀬名からはその表情は見えない。 「もういいかなって」 瀬名は歯を食い縛って嘘を吐く。 「莉緒ちゃんに恋人も出来たし、もう過去なんて完全に忘れて友達になれるかなって」 フッと息を吐くと、瀬名は続ける。 「今まで嫌な思いさせてごめんね。 莉緒ちゃんが許してくれるなら、これからはまた友達として仲良くしてよ。 悩みでも何でも相談に乗るから」 桜庭は俯いていた顔を上げた。 瞳が潤んでいるのか、キラキラした目をして瀬名をじっと見ている。 「本当に…? 本当に友達に戻れる?」 「莉緒ちゃんが許してくれるなら」 桜庭がコクリと頷く。 「ハル…!俺、嬉しいよ!」 桜庭が瀬名の手を握る。 瀬名は片方の手で桜庭の手をそっとくるんだ。 それからまた少し勉強すると、瀬名がうーんと背伸びをした。 「普段、やりつけないことすると疲れるだろ?」 桜庭はニヤニヤ笑っている。 すると桜庭が、パッと思い付いたように言った。 「ハル、ギター弾いてよ」 「ギタ~?」 瀬名がボスッとクッションに倒れ込む。 「いいじゃん! 早く、早く」 桜庭に急かされて、瀬名は渋々とギターケースから、ギターを取り出した。 「何が聴きたいですか?家庭教師さま」 「『ロミオとジュリエット』」 桜庭は即答した。 瀬名が目を見開いて桜庭を見る。 「ずっと気になってたんだ。 ハルは何で後夜祭で『ロミオとジュリエット』を弾いたんだよ? もっと盛り上がる曲、いくらでも弾けるだろ? 何でこんな悲しい曲…」 こんな悲しい曲… 瀬名の頭に、あの日、あの屋上で、セックスしていた桐生と桜庭の姿が蘇る。 「…悲しい、悲しいね、光景を見たんですよ…」 「悲しい光景…?」 「その光景の中のある人に、俺の思いをぶつけたかった。 悲しいって分かって欲しかった。 単なる感情の押し売りです」 「その人は分かってくれたの?」 「さあ…でも泣いてたって。 それで俺は嬉しかった。 最低野郎ですよね」 「ハルは最低なんかじゃない」 桜庭がキッパリと言う。 「莉緒ちゃん?」 「ハルは悲しかったんだろ? 思いが伝わって欲しかったんだろ? その思いが伝わったかもしれない。 嬉しくて当然だよ」 「でもその人は泣いたんです」 「それは…」 瀬名は黙って『ロミオとジュリエット』を弾き出した。 それは前回の勉強会の時よりも、悲しく桜庭の胸に響いた。 曲が流れる中、桜庭の胸の奥で何かが弾けた。 瀬名と過ごした、たった数ヶ月。 学校の踊り場で初めてしたキス。 何度も抱かれて囁かれたあの言葉。 二人で見たクリスマスツリー。 閉ざされた玄関のドア。 瀬名に冷たくされた日々。 『もういいかなって』 『莉緒ちゃんに恋人も出来たし、もう過去なんて完全に忘れて友達になれるかなって』 違う 違う、違う そんなこと、本当は言って欲しいんじゃない 友達として、この部屋に来られた それだけで、嬉しい? 俺の嘘つき プライドの高い偽善者 「莉緒ちゃん…」 いつの間にか演奏は終わっていて、瀬名がギターを床に置くと、桜庭の肩を抱く。 「また泣く~。 だから嫌だったんですよ。 この前も泣いてたから」 瀬名がクスッと笑う。 「ハルは…」 桜庭は涙を零しながら、瀬名を見つめた。 「あの頃のこと、本当に全部忘れたのかよ!? 完全に? 全部?」 「莉緒ちゃん…?」 「俺は…忘れて無いよ! ハルにも忘れて欲しくないんだ、本当は! 友達でいたいよ? でも…でも…全て無かったことになんて出来ない!」 「莉緒ちゃん…」 瀬名は桜庭をぎゅっと抱きしめた。 「滅茶苦茶なこと言ってるって分かってる! また友達じゃ無くなるかもしれない…。 でも、嫌だ…嫌なんだ。 ハルの中からあの頃が全部消えちゃうなんて!」 「莉緒ちゃん…!」 瀬名の悲鳴のような声が桜庭の耳に響く。 「俺には答えられない。 でも莉緒ちゃんとは、これからもずっと友達だよ」 「ハル…忘れて無いよな? あの頃のこと…」 「……」 「頷くだけでいいから…。 ハル…ハル…」 桜庭が瀬名の背中に手を回すとしがみつく。 その時、テーブルの上の桜庭のスマホが鳴った。 「莉緒ちゃん、電話…」 「いい」 「いいって…」 瀬名は片手で桜庭を抱いたまま、片手をスマホに手を伸ばした。 『桐生駿一』と画面に表示されている。 「莉緒ちゃん、桐生くんだよ。 出ないと」 桜庭は瀬名から離れると、スマホを掴んだ。 通話を切ると、電源も切った。 「莉緒ちゃん!何して…」 驚いて立ち上がる瀬名の足がテーブルにぶつかる。 瀬名はもつれるように桜庭の上に倒れた。 桜庭は床に横になって、瀬名を見上げている。 その大きな丸い瞳からは次々と涙が零れていた。 「莉緒ちゃん…」 瀬名が震える手で、桜庭の濡れた頬に手を伸ばす。 「ハル…忘れて無いよな?」 瀬名が微かに頷く。 「俺達、ほんの一瞬だったけど、両想いだったよな?」 瀬名はもう、我慢出来なかった。 目の前の桜庭は、瀬名の鎧で固めた心を、いとも簡単に打ち砕く。 「そうだよ…莉緒ちゃん…。 一瞬の両想いだったね」 「うん…」 桜庭は泣きながら小さく笑った。 儚く、それでいて幸せそうな笑顔だった。 瀬名が桜庭の頬を両手で包む。 桜庭が長い睫毛を伏せる。 瀬名と桜庭の唇が重なる。 そのまま二人は長い口づけを交わしていた。
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