【51】ピエロの涙

1/1
前へ
/121ページ
次へ

【51】ピエロの涙

桜庭の唇を逃さないかのように、瀬名は右へ左へと角度を変えて口付けを続ける。 桜庭が酸素を取り込もうと少しだけ開けた口に、舌をそっと入れる。 歯列を舐め、上顎から内頬へと、瀬名の舌は桜庭の口内を蹂躙する。 そうして、やさしく舌と舌を絡める。 桜庭はビクッと身体を小さく震わせたが、抵抗はしなかった。 くちゅくちゅと水音が静かな部屋に響く。 瀬名の唾液と桜庭の唾液は混じり合い、もうどちらのものとも言えない。 それをコクコクと桜庭が飲み込む。 瀬名は唇を離すと、桜庭の唇の端から零れた唾液をペロリと舐めた。 「莉緒ちゃん…莉緒ちゃん…」 瀬名は桜庭の名前を呼びながら、きつく桜庭を抱きしめる。 桜庭は瀬名の腕の中で、瀬名の胸に顔を埋めていた。 涙が一粒零れて落ちる。 悲しくは無かった。 安心とも違う。 例えるなら、クリスマスツリーの前で唇にキスされた時を思い出した。 嬉しくて、胸がぎゅうっと痛い。 「莉緒ちゃんは、やっぱり甘い匂いがする…」 瀬名が呟く。 「甘い…甘い…匂い。 初めて抱いた時から思ってた…」 「初めて…」 「そう。初めての時」 初めてのセックス。 桜庭の瞳から、また涙が一粒零れて落ちる。 あの時は、何て冷たいセックスなんだと思った でも、あの時にはもうハルは俺を好きでいてくれたんだ… 「莉緒ちゃん…」 瀬名が熱い眼差しで桜庭を見つめる。 桜庭は瀬名の目を真正面から見上げた。 「もう一度、いい?」 桜庭がコクリと頷く。 また二人の唇が重なった。 桜庭はベッドを背に瀬名の肩に凭れかかっていた。 瀬名は桜庭の肩を抱いている。 「ごめんね」 瀬名がポツリと言った。 「本当に勉強するだけのつもりだったんだ。 でも…」 「いいんだ。俺が悪いんだから」 「莉緒ちゃん?」 「俺があんなこと言わなければ…ハルは答えられない、でもずっと友達だよって言ってくれたのに…」 瀬名がぐいっと桜庭を抱き寄せる。 桜庭の顔が瀬名の首筋に埋まる。 「莉緒ちゃんは凄いね。 あれだけ固く決心してた俺の心を簡単に動かすんだから」 「ハル…」 「そんなことが出来るのは莉緒ちゃんしかいないよ」 桜庭が顔を上げると、瀬名はやさしく微笑んでいた。 桜庭の白く細い指が瀬名の唇にそっと触れる。 「俺達は友達…?」 「……」 「もう、離れたりしないよな?」 「友達なんかじゃない」 桜庭の指先が止まる。 「莉緒ちゃんは友達よりずっとずっと大切だし、離れないよ…今度は莉緒ちゃんが俺から離れるまで」 「ハル…!」 桜庭が瀬名の首に腕を回し、抱きつく。 「でも、莉緒ちゃんには桐生くんがいる」 桜庭の身体がピクリと震える。 「莉緒ちゃんは桐生くんと幸せになるんだ。 俺はその協力をする。 絶対に二人の邪魔はしない」 「…駿くんは関係無い」 桜庭の呟きに、瀬名は目を見開いた。 「俺とハルの間に駿くんは関係無いんだ。 駿くんは確かに恋人だけど、ハルはハルだよ。 ハルはハルのままでいて欲しい…」 桜庭の声が段々と小さくなる。 瀬名の首筋が濡れて、瀬名は桜庭が泣いているんだと分かった。 瀬名は「分かったから…もう泣かないで」と言って、桜庭の艷やかな髪を撫でる。 「ハル…キスしよ」 桜庭が涙を一杯に溜めた瞳で瀬名を見上げる。 「せめて今日だけは駿くんのことは何も言わないで。 ハルは俺に答えをくれた。 今はそれしか考えたく無いんだ」 桜庭がニコッと笑う。 涙が頬を伝う。 「我が儘でごめんな。 自分勝手でごめ…」 瀬名が桜庭の言葉を遮って唇を塞ぐ。 床に桜庭を押し倒す。 余りに激しい口づけに、桜庭が瀬名の腕にしがみつく。 瀬名は熱いと思った。 桜庭と触れ合う全ての場所が。 ぴったり合わさった唇。 絡み合う舌。 制服越しに掴まれた腕までもが。 そして、改めて気付く。 こんなにも自分が桜庭を求めていたことを。 求め続けていたことを。 長いキスを終えると、桜庭は「今日はもう帰るね」と言った。 桜庭が、制服のジャケットのポケットにスマホを入れるのを見て、瀬名は桐生からの電話を桜庭が切って、電源まで切ったことを思い出した。 「莉緒ちゃん、桐生くんの電話はどうするの?」 心配している瀬名に、桜庭は事も無げに答える。 「大丈夫。電源が切れたって言うから」 「でも…」 「本当に大丈夫だから」 桜庭がにっこり笑う。 瀬名はそれ以上何も言えなかった。 桜庭を駅まで送って帰ってくると、ギターを手に取った。 『ロミオとジュリエット』を弾く。 桜庭の涙と笑顔が交互に頭に浮かぶ。 そして、自分の腕の中に桜庭がいた温もり。 柔らかな唇の感触。 キスの合間に『ハル…ハル…』と自分を呼ぶ声。 瀬名はギターを置くと、勉強机に向かった。 五線譜を引き出しから出して、音符を綴る。 たまにギターを弾いて確認しながら、書き進める。 それは桜庭の為に作って川原で弾いたあの曲。 夏の学校の屋上で、ビリビリに引き裂いて、熱風と共に散った曲。 『…駿くんは関係無い』 『ハルはハルのままでいて欲しい…』 『我が儘でごめんな。 自分勝手でごめ…』 我が儘で自分勝手なのは俺だよ、莉緒ちゃん 手に入らないものに、解っていて手を触れた そして今も、こうして莉緒ちゃんを好きだという想いを込めた曲を、自分勝手に書いている きっと俺は次に莉緒ちゃんに会ったら、この曲を弾くだろう そして莉緒ちゃんは泣くだろう そして二人はまたキスを繰り返す 二人に未来なんて無いのに でも、莉緒ちゃんを幸せにするのは嘘じゃない 俺はピエロでいい 莉緒ちゃんを一時慰めて悩みを解決して、いつか莉緒ちゃんは俺から離れて、桐生くんと本当に幸せになる 五線譜の上にポタポタと涙が落ちる。 瀬名は乱暴に目を擦った。 そして音符を書き続けた。
/121ページ

最初のコメントを投稿しよう!

58人が本棚に入れています
本棚に追加