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髪と羽を黒くしたいとアウラが言い出した。ラフがわけを訊ねると、親友のイザと同じがいいのだと言う。
理由がどこまでも天使だ、とラフは思った。
「だって、イザのこと見てると黒の方がおしゃれって思うんだもん」
「天使が悪魔の色を羨むなよ」
ラフが眉をしかめると、違うって! とアウラは言い返す。天使のアウラと悪魔のイザは小さい頃から仲が良かった。
「白って、穢れ無きって感じがめんどうくさい」
アウラが鼻を鳴らして言った。無造作に広げたままの白い羽根が顔の周りで揺れた。
「天使にあるまじきこと言うんだな」
「ラフに言われたくないし!」
アウラが足を踏みならす。羽根がさらに揺れた。その正直さが何よりも天使らしかった。
小さい頃から知っているせいでラフはアウラの兄貴分みたいな、それを通り越して子守り役みたいな役回りだ。近頃はいよいよ反抗期のティーンエイジャーで、二日に一回は言い合いをしている気がする。
日の暮れ始めに、イザの長い黒髪は早くも闇夜のように暗い。その黒は、イザが悪魔だからというよりもっと根本的に彼女に似合う色に思われた。
街の雑居ビルの端に腰かけたイザのそばに、ラフが降り立つ。
「お前さあ、そそのかすなよ。アウラのこと」
ラフが声をかけると、案の定彼女は「はあ?」とめんどうくさそうな顔でラフを見上げた。なんで俺、日に二回もティーンエイジャーにめんどうくさそうな顔をされてるんだろうと思いつつ、イザの隣にラフも腰を下ろす。通りを行き交う人々が見下ろせる。
「そんなことしないし。むしろラフが止めてよね。お揃いなんて子供みたい」
めんどうくさそうな顔のままイザが言った。ティーンエイジャーが子供か大人かは置いておこう。
「最近のあいつ、そのうち悪魔になりたいとか言い出しそうなんだけど」
ラフの言葉にイザは今度はめんどうくさそうではなく不服そうな顔をした。
「いくらなんでも親友をそんなふうにそそのかしたりしない」
「わかってるよ」
ウェーブのかかったイザの豊かな長い髪は、光をすべて吸収して沈むような深い黒をしている。透けるような茶色いアウラの髪では黒くしてもこうはならないだろう。羽なんてもっとだ。
イザはため息をつくと、ラフの隣で黒い羽を広げた。雑居ビルの端に腰かける二人を夕暮れのぬるい風が撫でた。黒い短いスカートから脚をぷらりと伸ばし、背の高い椅子から降りるかのような身軽さで、イザはそっとビルから飛び降りる。そしてその瞬間には姿は消えている。
ラフはイザの姿があった空中を見るともなくしばらく眺めていた。相変わらず愛想も遠慮もねえやつ。
通りには街灯がともり始めていた。人々が家路を急ぎ、その中の数人がラフの腰掛けるビルを見上げた。今のラフの姿は人間から見えないから、夕暮れの空が天使を通していつもよりきれいに見えていることだろう。
ラフは目を離し、スーツの胸ポケットから取り出した煙草に火をつける。
天使や悪魔の身体なんてあってないようなものだが、人間からも見える姿で、わざわざ人間の道具を使って髪を染めたり化粧をして遊ぶのは若い天使や悪魔の流行りだった。
アウラの髪は光を透かすような茶色をしている。あごのあたりで切り揃えられていて、前髪は眉毛の上でこれもまたぱつっと揃っていた。何度も「長い髪にする!」と言い出しては、ラフが無理だろと言うより前に断念していた。
でも年配の天使から「天使らしくない」と言われるその髪の短さは、何よりアウラらしいとラフは思っていた。
身体なんてあってないようなものだから、別に人間の道具を借りなくたって髪の色は変わるし長さも伸びる。羽はちょっと大変だろうが。
「あたしが急に長くて黒い髪になったら誰だかわからなくなる?」
アウラがラフに言った。入り浸っているラフの家で、ソファーの上に足を投げ出し羽をいじる。人間の店で売っているTシャツとショートパンツに、スニーカーまで身に着けていた。こういうのも天使らしくないとよく怒られているがアウラはどこ吹く風だ。
「お前まだ長い髪、諦めてないの?」
「ん-、短いのは、やっぱ気に入ってるかも。でも色はどう思う?」
言ったって聞かないくせに、とラフは思いつつ
「黒は似合わない。それにイザみたいな真っ黒にはならないだろ」
「似合わないはひどくなーい?」
ソファーに転がったままのアウラから声だけが飛んでくる。ついでにクッションが二、三個飛んできた。
「ねえ、じゃあラフは今の色が一番似合うと思う?」
クッションを投げ返してやると、アウラがさらに聞く。こうなると自分の欲しい答えが返ってくるまで延々聞くんだろう。知らん、と呟いてラフは部屋を出た。
天使は嘘がつけない。
ラフの髪も茶色がかっているが、服は黒が似合った。
自分が大人の背丈になったと思った頃、ラフは人間の街に行ってスーツを一着仕立てた。仕立て屋は採寸をする間中、ラフの手足の長さやウエストの引き締まり具合をしきりに褒めた。そんなことがリップサービスになるほど、生まれや暮らしに左右される身体から離れられない人間をラフは憐れんだ。そのせいか仕立て屋にはなんとなくチップをはずんだけど、褒められて気を良くしたからと思われただろうと後で思った。
シングルのツーピースのスーツは便利だった。
「クラシックで定番のデザインですから、どこにでも通用しますよ」
仕立て屋が言った通り、人間の街なら大抵これで問題なかった。つまり砂漠とか、流氷の上とか、火山口とか、エバーグレーズ国立公園の湿地帯の真ん中でなければ問題なかった。
スーツというのは人にとって一定の価値基準のようだった。何か信頼に値する者に見えるらしかった。高級な店だけでなく、むしろ猥雑なエリアで扱いが変わるのがラフにはおもしろく思えた。お仕事はと聞かれて、まあいろいろとね、などと濁すと反応は特に顕著だった。
天使は嘘がつけないが、濁すことはする。
黄昏から夜の始めの時間に天使と悪魔は人の街でよく出会う。争ったりしない。人間じゃあるまいし。
血色の良い肌に茶色い髪と白い羽のアウラ、黒い髪と羽で白すぎるほどの白い肌をつつむイザが、そういう時間に一緒にいると昼と夜の境目みたいであり、青空と夜空が溶け合うようであり、暗い朝にも明るい夜にも見えた。二人は何をするのも一緒だった。
「お前、最近よくここにいるだろ」
前と同じ雑居ビルに腰かけるイザにラフが声をかけた。二人の背後で業務用の室外機が音を立て、給水タンクの白い色が日暮れの空に浮かんでいた。狭い屋上だ。
「いたら悪い?」
「アウラと待ち合わせなら人の街に来なくてもいいだろ」
イザはつんと顔を逸らす。彼女の愛想の無さはいつもなのでラフは気にしない。隣には座らず、羽もたたまず、傍らでポケットに手を突っ込んだまま話を続ける。
「俺の馴染みの店、ここから見えるよな」
ラフがたまに顔を出すバーがこの雑居ビルの向かいにあった。ひっそりと小さな入り口と看板を構えているのが見える。
「あたしがアウラとどこで遊ぼうと関係ないでしょ。ここ、ラフの縄張りなわけ」
「別にそうは言わないけどさ」
何か狙ってないか。とはさすがに言わないでおく。
あんたの連れが最近たまに来るよ。ラフにそう言ったバーの店主は、「美人が二人も来てくれると、常連が喜んで売り上げが増える」と笑った。
「お前が人間の場所に興味持つのめずらしいじゃん」
アウラと違い、イザは自分からあちこち出歩くことはしない方だ。イザは何も答えない。
「あそこいい店なんだけどさ、最近、ちょーっと柄の悪い客の出入りがあるんだよ。お前んとこの仲間じゃないよな?」
「は?」
顔を向けた彼女の声にはっきり怒りの色が含まれた。イザがすっと立ち上がり、ビルの端でラフと向かい合う。その背後で黒い羽が闇のように広がる。冷たい風がラフを撫でた。たぶん人間だったらこのまま地獄行きだったんだろう。ラフは苦笑し
「悪い。今のは言い過ぎた」
と言い残して背を向けた。
アウラには以前たまたまこの店を知られて、自分も連れて行けとせがまれたのだ。うるさくて根負けしたわけだが、悪い店ではないしいいかと思った。けれども自分がいないときにイザと顔を出しているとは思わなかった。
アウラのことだから新しい遊び場にイザと行きたがったという程度だろう。しかし。
「俺の馴染みの常連とは仲良くすんなよ」
振り向いてラフはイザに釘をさす。イザはもうラフの方を見もしなかったが、ラフも大した答えは期待しなかった。
悪魔は本当のことなんて滅多に言わない。
悪魔といったって、腹をすかせた野生動物のように獲物を探しまわっているわけではない。
けれども悪魔は人の欲望を敏感に嗅ぎとる。さらに酒が入って油断をした人間が目の前にいたら。若い娘だと思って警戒心を解いた人間と、あまりに近い距離で接したら。そそのかし、誘惑し、欲望にそっと手を添えエスコートするように悪い方へ堕とす。それは悪魔のただの生態でしかない。
天使は嘘がつけない。
唯一嘘をつける日がエイプリルフールだ。今までアウラに三回騙された。
「ラフ、今日▲▲街歩いてたでしょ。人間のニュース映像に映り込んでたよ」とか、そんなもんだけど。
一回目のアウラは今にも笑い出しそうな顔だったが、二回目は神妙な、三回目は慌てた様子だったせいで信じた。
去年の四回目で見破ったら、「ちぇ」と言われて終わった。
「ちょっと真面目な話なんだけど」
珍しくイザの方からラフに会いに来たと思ったら、イザがそんなことを言った。アウラはいなかった。イザと一緒だと聞いていたから、ケンカでもしたのだろうかと思った。
「悪魔が真面目な話なんてすんの?」
「エイプリルフールは天使が嘘をつくから、悪魔は本当のことだけ言うの」
そういえば今日はエイプリルフールだった。ラフは嘘をつくこともつかれることもなく、いつもと特に変わらない天使の一日を終えてビールが飲みたかった。
「それも嘘?」
「かもね」
なんかバカにされてないか。
「とりあえず、何」
「アウラを引き止めて」
「ええ」
どういうこと。ラフは頭を掻いてイザに向き直る。
その馴染みの店を、ラフはスーツを仕立てた頃に見つけて時々行くようになった。ビールの品揃えが良いバーだった。流す音楽のセンスがいい時とダメな時の差があった。店主はいい人間だった。人間以外がラフの他に出入りしているのかは知らない。
ドアを開けるとそれほど混んではいなかった。カウンターと数組のテーブルの小さな店内はほどよくざわめいていて、時折客が入れ替わりながら朝に向けて少しずつ減っていくはずの平常の賑わいだ。流す音楽のセンスはダメな方の日だった。
中を見渡す。入り口すぐのテーブルにいた男女の客以外は、ラフがドアを開けたことも気づかないようだった。
誰かとの待ち合わせで店を使うにしても、落ち合ったら一杯は注文をしていくのが礼儀だろう。けれども状況による。店主がラフの姿を見留めたが、ラフは軽く会釈だけをした。
「あたしとアウラが二人でいて声をかけられることは何度もあるけど」
どういうこと、と向き直ったラフにイザは言った。
「でもそんなふうに声かけてくる男なんて相手にするだけ無駄でしょ。いつも二人だったし、適当にかわしてれば良かったの。それがねえ」
街まで降りてきて雑居ビルの屋上へ立つと、イザは心底くだらないというようにため息をついた。
「アウラの方が、その気になっちゃってるのよね」
そいつ、いい男なの? とラフが聞くと、
「親友やめるレベルで男見る目ない」
とイザが言うのでちょっとラフは笑う。イザはくすりともしなかった。
残念だけど俺もイザに同意だね。
カウンターではなく壁際の丸いテーブルにラフは向かった。薄暗いバーの店内で、壁付のライトが灰色の壁とその下にいる二人を照らしていた。
アウラが黄色い髪の男といるのはドアを開けた時から見えていた。最近たまに来る柄の悪い客だった。よりによってだよ。男がアウラの方へ身体を寄せるように肘をついて座り、アウラは肩の落ちたカーディガンを白いミニワンピースに羽織った姿でカクテルを飲んでいた。羽がない姿はことさら無防備に見えた。
先にアウラが気づき、驚いた顔で「ラフ」と声に出さずに言った。
「どーも」
テーブルまで来たはいいものの、どうしたものか迷ってそう声をかけた。
「あ? 何?」
わざわざ相手に合わせて姿勢を変えない方が優勢に見えると判断したのだろう。黄色い髪の男は肘をついた姿勢のまま、かったるそうにラフを見上げた。白い短パンを履いていて、シャツの胸元からセンスの悪いネックレスが見えた。イザがまだ親友をやめてないのは奇跡ではと思われた。酒臭い息がして、人間か、とラフは思った。
「で、俺に連れ戻してこいってこと?」
「そういうのって友達が言っても聞かないでしょ」
「恋路を邪魔したい悪魔の性じゃなくて?」
「まあそれもあるけど?」
ビルの上から店の入り口を見下ろし、しばらく世間話のような探り合いのような会話がラフとイザの間で続いた。
「でも、悪魔の嗅覚見くびらないで。どんなに優しいふりしても欲望しかないヤツなんてすぐわかる。あたしはしばらく見張ってたの。今日こそアウラを家に連れ込んでやろうってあいつの欲望が見える」
ビルに座ってたのは見張るためか。
「もしくは」
黒い羽をしまって人間と変わらない姿になったイザは続ける。
「親友に、あたしより先に恋人ができても許せないしね」
「はは。そう」
ジャケットの襟を直してラフは答えた。何を本音と捉えるかはご自由にってことね。
屋上からすっと飛び降りて消えたラフの姿が、店のドアに現れる。
男の声と口調が油汚れのように耳についた。
よく複数人で酔って店に来る連中の一人だった。声も足音もグラスがテーブルに当たる時の音も、いつも無遠慮だった。そのへんで女を引っ掛けるのだろうとは思ったが、こちら側にそれが向けられてみると怒るのもバカバカしかった。
「なんの用? お前、彼女の何?」
「ん-。子守り役?」
片手をポケットにつっこんだままラフは手持無沙汰に頬を掻いた。
「それだけの理由で来てんのか?」
「もちろんそうだよ」
今日がエイプリルフールで良かったとラフは思う。
悠長なラフの様子に相手が苛立ったのと、近くの席の客がちらとこちらを見たのがわかった。店主には申し訳ないなあとラフは思った。アウラはラフと男をただ交互に見ている。ラフは頬を掻きつつ男を見下ろし、目線だけアウラに向け、また男に戻した。
「だから何しに来たんだっつってんだよ」
男が言い終わらないうちに、男が立ち上がる勢いに合わせてラフの頭突きが派手に飛んだ。振りおろすように当てたラフの頭の中で鈍い音がした。近くの女性客が小さく悲鳴を上げた。「頭頂部の方で眉間を狙うとこっちのダメージが少ねーぞ」と昔悪友に教わったこと、役立たせてしまった。不意をつかれた男は「フガッ」みたいな台詞を吐き、立ち上がりかけた椅子によろけて倒れ込んだ。
「帰るぞ」
唖然とするアウラの腕をラフが掴む。男が体勢を立て直す前に、腕を引いて一直線に店の出口まで行った。周りの客は距離を取ってその様子を窺っていた。流す音楽のセンスがダメな方の日で、店ではずっと狂った恋のメロディが流れていた。
「エイプリルフールだって、こういうのは正直に言うべきだろ」
「ほっといてよ」
腕を引かれたままアウラが言った。怒っているのかなんなのかよくわからない表情でラフを睨んだ。外はすっかり夜で、早くも酔った人間の声が響いていた。
「なんでラフが怒るのよ」
飲み屋街の熱っぽい喧騒に二人の足音が溶ける。
「男の趣味が悪すぎる」
「ラフに子供扱いされてるよりマシ」
「はあ? なんだそれ」
思わず立ち止まって振り向くと、聞き返されたアウラが少しバツの悪そうな顔をした。
ああ。とラフは思った。髪や羽を黒くしたいとか、アウラは悪魔になりたいんじゃなくて大人になりたいんだろう。親友と同じがいいんじゃなくて、親友に負けたくないんだろう。
「イザは最近お前だけ大人っぽくなるから焦るって言ってた」
「ほんとに?」
アウラが目を丸くして聞き返す。けれども、すぐに怪訝な顔になった。
「わかった。今日エイプリルフールでしょ」
「エイプリルフールだから悪魔は逆に本当のことだけ言うっつってたよ」
その答えを見定めるように、アウラがじっとラフを見つめる。
「とにかく、無理に焦るなよ」
ラフは。とアウラが言う。
「何が」
「ラフは? あたしの髪と羽、ラフは今のままで綺麗だと思う?」
真っ直ぐにアウラと目が合った。瞳も髪同様、透けるような明るい茶色をしていた。羽だって今広げたらこんな夜道でも日が当たったように真っ白に浮かび上がるだろう。
アウラの白は無垢とか穢れ無き色ではなく、こんなふうに真っ直ぐなアウラの強さの色だとラフには思えた。
「綺麗かとか、そういうこと考えたことないし」
それだけ言って、前に向き直って腕を引いた。今日がエイプリルフールで助かったと思った。
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