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――また1人、僕の前からいなくなる。
天音光瑠は、この先待ち受けている運命から逃れたいと思った。
岩手県盛岡市に位置する、高齢者向け住宅“せきれいホーム”。ここは緩和ケアを目的とした場所。
清潔感溢れる廊下を通り、母の妹、永井円佳と、夫の永井恭太と共に一室へ入った。
ドアを開けると、清瀬幸子と目が合う。電動リクライニングベッド上部がゆっくりと起き上がった。
皺だらけの顔に痩せこけた頬。抜け落ちている白髪。ベージュのニットの中に、襟付きのブラウスがチラリと見える。色味は桜のような淡いピンク。下半身は花柄の毛布に包まれていた。女性らしい上品な服装は、孫との再会を心待ちにしていた証拠だ。
「おばあちゃん、光瑠だよ。会いにきたよ」
満面の笑みで、首を右に傾けた。同時に幼さの残るショートヘアーも揺れる。グレーのチェスターコートのまま椅子に腰かけ、ベッド横で清瀬幸子の瞳を見つめると、にこりと優しい笑みが返って来た。どうやら孫だと認識しているようだ。
「……光瑠、大きくなったなぁ。なんぼになった」
「30だよ。僕、もう三十路になっちゃった。でも、下に見られるんだよね。童顔なのかな。髪型? イマイチ似合うのが分からなくて困ってる。ねぇねぇ! 今日のおばあちゃんの服装、とっても素敵だね。ブラウスの色も可愛くて似合ってる」
「……30……静佳が、光瑠を産んだ歳だな」
穏やかな再会場面の空気が変わる。叔母夫婦はソファに腰掛けながら、無言で視線を落とした。
「……生きてたら、60だ」
「そうだね。ねぇおばあちゃん、僕、お土産買ってきたんだよ。東京の浅草で、ちりめんの小物入れ買ってきた。おばあちゃんさぁ、昔から小物入れ集めるの好きだったでしょう?」
雰囲気を変えようと、声色を明るくし告げた。小物入れと発したが、ポーチのことである。カタカナは理解が難しいのではないかと思い、あえて日本語にしたのだ。
「手鏡とかお薬とかいろいろ入れてたもんね。 “これに入れておけば、なくさねぇんだー”って、いつも言っていたから」
光瑠は紙袋の中から、ちりめんのポーチを手に取った。白地に桜模様が施されているため、偶然にも清瀬幸子の服装と揃いのよう。
「春っぽいのがあったんだ。こっちはまだまだ雪残ってるけど。岩手山も雪で白くて、びっくりしたよ。早く温かくなって、気温も落ち着けばいいね」
清瀬幸子はちりめんのポーチを受け取った。人生85年分の苦労が滲む、皺と乾燥した両手。先程、光瑠に向けた笑みが嘘のように、表情が固い。
「好みじゃなかったかな。叔母さんに聞いてから買えばよかったね。僕、おっちょこちょいだからさ。来る途中の盛岡駅のホームで、転びそうになっちゃってね、キャリーケースと一緒にズーッて行きそうになっちゃ……」
「東京さ行って仕事して、隆志さんと出会って結婚して、光瑠が産まれた。なんで、幸せだった静佳と隆志さんが死なねばならながったんだ」
光瑠は思わず首を垂れた。
父、天音隆志享年58歳。そして母、天音静佳享年55歳。2人は5年前、不慮の事故で命を落としていた。
「……なんで、死なねばならなかったんだ」
「そうだね。なんで、お父さんとお母さんが亡くならなきゃいけないんだろうね。普通に高速を運転していただけなのに。飲酒運転で逆走した車と衝突して、亡くなるなんて」
「……犯人は、今、なにやってんだべ」
「懲役13年。刑務所だよ」
清瀬幸子は、ぼんやりと天井を見上げながら呟いていた。無表情で淡々と言葉を発している。
「……なんで、犯人生きてるんだ? 静佳と隆志さん殺したべ? それは殺人で、死刑になんねぇばおかしい」
「危険運転致死傷罪。殺人罪は適用されないよ」
「……ばぁちゃんが元気だったら、刑務所さ行って、殺せるのになぁ」
光瑠の視界が滲み始めた。唇を噛み締め、涙を堪える。
“冗談でも、そんなこと言わないで”
と、本来ならば即答するべきなのだろう。しかし、やり場のない怒りや悲しみが含まれた言葉は、被害者遺族の心の声。思いは同じだ。
「……光瑠は、いい子だから、きっと1人で泣いてんだ。お父さん、お母さんがいなくなって、泣いてんだ。怖い思いしながら、生きてんだ。だから、ばぁちゃんが犯人殺して、光瑠が笑ってくれるようにしなきゃなんねぇのさ。大安の日に、犯人殺しに行ぐがらなぁ」
それは、愛する孫が側にいることを忘れた言葉。認知症の症状が進行しているため、意思疎通ができなくなってしまった。
光瑠は胸が苦しくなってしまい、両手で顔を覆う。認知症が蝕んでいる状況でも尚、孫のために、亡き娘夫婦のために戦おうとしている。それは、困っている誰かのために手を差し伸べる、優しき祖母の性格でもあった。
「おばあちゃん、なんとか笑って生きてるよ。でも、僕も殺したいほど憎い。それでも、なんとか生きなきゃいけないんだよ」
「……光瑠、待ってろなぁ。ばぁちゃんが今、仇とってくるからなぁ……終わったら、一緒に岩泉の短角牛カレー、食べようなぁ」
居た堪れなくなり、光瑠は椅子から立ち上がった。ロビーで少し休むと叔母夫婦に告げ、部屋を後にする。清瀬幸子の中で過去が蘇ってしまい、まともな会話は困難だと感じたのだ。
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