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航平との同居生活は、二年弱で終わった。
紅子に、新しい仕事と、彼氏ができたからだ。
『航平の家を、出て行く』と紅子から言われたとき、碧は泣いた。
声をあげて泣いた、イヤだと駄々をこねて泣いた。
航平の家を、出て行きたくなかった、ずっとこの家に居たかった。
『紅子のオマケ』である碧に許されるはずはないのに……。
ずっと、航平と居たかった。
次の紅子の恋人との同居は、半年で終わった。
その次は、三ヶ月。
その次は、一年もった。
その次は、彼氏が突然家の金を持って居なくなり、半年で終わった。
その後、紅子は、小さな公営住宅を借りて、碧はそこで高校生になった。
航平の家を出て、六年。
やっとここまで戻ってきた。
弓削碧は、背筋を伸ばして、大きく息を吸い込んだ。
整えられた竹垣、格子の引き戸の玄関。玄関までのエントランスには、雑草が伸び放題。
一見、人が暮らしているようには見えないが、その様子がそのまま、懐かしい。
碧が、この家を初めて見た、八年前の記憶そのままだった。
門扉につけられた新聞受けから、今日の朝刊を引き抜くと、玄関の引き戸を、そっと開けた、玄関は、鍵がかけられていなかった。
碧は少し複雑な気持ちになる、不用心を戒めたい気持ちと、扉が開いた安心感が交差した。
玄関には、航平のモノだろう男物の履物しかないことに、少し安心した。
「ただいま! 」
精一杯吸い込んだ息を、そのまま吐きだすように、大きな声でそう言った。
家の中からは、何の気配もないので、そのまま上がる。
八年前に、整理した書斎の隣の部屋。
当時は、怖くて開けることのできなかった、その部屋の扉を引いた。
部屋の中は雑然としていた。
部屋の真ん中には、敷きっぱなしになっているだろう布団が一組あり、その周りを洗濯ものだろう、服の山が取り囲んでいた。
あまりの光景に、半歩後ずさるが、思いとどまって部屋の中に呼びかける。
「こうちゃん、起きて!
今日は入学式だよ!
こうちゃん!」
部屋の真ん中の布団が、モゾりと動いた。
布団の上で、半身を起こしたその人は、ぼさぼさの髪と、無精ひげを伸ばした、中年の男だった。
男は、ぼさぼさの頭を掻きながら、碧を見た。
「あっ?…… あおくん?」
男は、ゴシゴシと目を擦って、布団の上に置かれた眼鏡を、手探りで探して、かけた。
「あおくん? あお? 」
「そうだよ、碧だよ。
今日から、こうちゃんの大学に通うんだ! 」
弓削碧は、おろしたてのスーツを着て、胸を張って、結んだネクタイを、航平に見せつけるように胸を張った。
「こうちゃん、早く起きて、準備してよ。
冷蔵庫開けるね、食べるものあるかなぁ…… 」
碧は、航平の返事を聞く前に、台所に移動した。
碧が居た場所を、ぼんやりと眺めた後、航平はようやく立ち上がった。
航平は、まず洗面所に行き、顔を洗って、ひげをそった。
そうすると、幾分すっきりしたが、目の下のクマや、やつれた感じは払えなかった。
漂って来たいい匂いにつられて、台所へ顔を出すと、碧が朝食の準備をしていた。
「こうちゃん、冷蔵庫のなか、何にもなかったよ、どうやって食事してるの? 」
「あ、あぁ」
「有り物だよ、卵焼きと、はんぺんを焼いただけ、だけど食べて」
「飯あったか? 」
「買って来たヨ、コンビニおにぎり、鮭と昆布だよね」
碧は、ビニール袋からおにぎりを取り出すと、テーブルに二つ並べる。
「座ってね」
航平は、言われた通り、台所にある、小さなテーブルの椅子に座ると、温かいお茶が出てきた。
「食べてね」
言われた通り、お茶を一口飲んで、コンビニのおにぎりに手を伸ばす。
「服は? 今日着るやつある? 」
「書斎にかけてある」
「わかった」
碧は、書斎の部屋の扉を開いた。
八年前に片付けた書斎は、片付けた時のまま、整然と保たれていた。
その部屋の奥に、きちんとアイロンがかけられた状態で、スーツが一組、かけられていた。
碧は、そのスーツの手触りをそっと確かめると、顔を近づけて匂いを吸い込んだ。
匂いは、遠くなってしまった記憶を、簡単に呼び戻す。
碧は、少し泣きたくなった、懐かしくて、恋しい思い出。
吸い込んだ息を、吐きだすと、思ったより、息が震えた。
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