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初恋は、甘いだけではない
「行ってきます」と言って、碧が出て行った。
航平は、おにぎりに噛り付いたまま、碧の後ろ姿を見送った。
もう、ランドセルは背負っていない。
背も高くなって、体つきもがっしりとしていた。
守ってやらなくてはいけない、小さな子供ではなくなった。
それでも、あの頃と表情は変わらない、素直で、可愛らしい碧だった。
碧あおの出て行った、玄関を振り返って眺めた。
「やっと、帰って来たな、いってらっしゃい、碧君」
航平は、先ほど碧の言っていた『甘えられないし』という言葉が気に成った。
初めて出会った時から、碧は何処か大人びていた、大人に甘える事を知らない少年だった。
航平は、食べ終わった、洗い物の皿を、シンクに入れる。
碧の、持って来てくれた、スーツに着替えると。
キッチンの柱に掛けられた、近くの時計店の名前が書かれた小さな鏡で、ネクタイを確認した。
鏡を見て、航平は、知らずに笑顔になっていたことに気が付いた。
弓削碧が、航平の勤める大学に、合格したことを知っていた。
新入生の名簿に、その名前を見つけた時、とても驚いた。
それから、じわじわと喜びが、込み上げた。
大きくなった碧に、会えるかもしれないと思ったとたん、航平の周りは、華やかに色づいて、踊り出しそうなほど、体が軽やかになった。
おかげで、滞ったままになっていた仮説を、証明するアイディアが浮かんで、論文も書き終えた。
つまり、浮かれていた。
昨今無いほどの、浮かれ具合だ。
わが子のようにかわいがっていた碧に、また会える。
もしかしたら、この家から大学に通いたいと、また、戻ってくるかもしれない。
もっと早く、現れると思っていた。
甘えて来てくれると、思っていた。
下宿させてほしいと、この家にやって来るのではないかと期待していた。
それなのに、なかなか現れない碧に、少し諦めモードだった。
日に日に、テンションが下がって、昨日など、なめくじのように、じめじめとしていた。
やっと、碧は、現れた。
入学式の朝になって、ようやくだ。
航平は一人、ニヤニヤと笑ってしまう口を押えた。
幸福感が、じわじわと、腹の底から沸き上がってきた。
航平は、もう一度鏡を見た。
頭をフリフリと振って、碧のまとめてくれた髪を、確認した。
鏡に映った、時計の針に驚いて、家を出る支度に戻った。
大学に着くと、そのまま入学式の行われる、講堂に向う。
講堂の中は、沢山の生徒が集まっていて、この中から、碧を見つけるのは、難しそうだった。
入り口で、事務員に、職員席に案内された。
一段高くなった、職員席で、北野教授の、後ろの席に座った。
「今日は、ずいぶん、まともじゃないか」
北野にからかわれて、航平は肩をすくめて見せた。
大勢の学生がいて、職員席からずいぶん離れているが、碧からは、航平が見つけやすい。
朝、確認した姿で現れた航平は、職員席に座っていた。
職員の間で、何か楽しそうに話している姿を、碧は、注意深く観察した。
航平と話をしていた、教授らしき人は、薬指に指輪をしている、妻帯者だ。
女性と、親しく話すような様子はなかった。
碧はそっと、息を吐いた。
やっと、ここまで来た。
自分の力で、航平の勤める大学まで、何とかたどり着いたのだ。
子供の頃に感じた、執着が、恋心だと気が付いたのは、航平と別れてすぐだった。
『恋だ』と気が付いたが、この恋が実るのはとても難しい。
航平は、紅子の恋人だったのだから、航平の恋愛対象は女性だ。
対象年齢も、航平と同じ年代の人だと思われる。
同性で、十八も年の離れている碧が、恋愛対象に入っていないのは、火を見るよりも明らかだ。
碧だって、分かっているの。
でも…… 諦められない、せめて気持ちだけでも、知らせたい、知ってほしい。
碧の世界には、航平しかいないのだから。
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