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「……またか、篠田」
「さーせん」
もはや所作なしとばかりに首を振る教授を前に、へらへらと笑って見せる。さすがにこう何度も遅刻を繰り返せば、罪悪感なんてものはなくなる。そもそも、決まった集合時間があるわけでもないのだから。
「B4が入ってきてこれか……」
B4――学部生が研究室に入ってきて、早一週間。
院生に上がったからと言って日々が変わることはなく、けれどうららかな春の日差しが誘う二度寝の誘惑にはあらがえない。
「春が悪いんすよ。こんなに眠るのに最適な季節なんてほかにないでしょ」
「……夏にはクーラーが効いた部屋で布団をかぶり、秋は過ごしやすく、冬はやはり布団のぬくもりが手放せない……年中聞いたようなセリフだな?」
「いやぁ……どうっすかね」
そういえばそんなことを言ったような気がしないでもない。というか、いちいち口にしたことを覚えているはずもないし、ほとんどフィーリングで話しているわけで、記憶に残るはずもない。
口を突いて出たそばから、自分が一言前に何を言ったか忘れる。日常会話なんてそんなものだ。
「……まあ、今日に限っては言い訳があるんですよ。昨晩、彼女が寝かせてくれなかったんで」
「…………そうか」
独身歴45年。最近はすっかり独り身が慣れたと話していた教授には少し酷な話だったか。
口から零れ落ちた「そうか」の一言にこもっていたのは、きっと俺に対する深い諦観ではないだろう。
「院生になった区切りだ。少しくらいしゃんとしたらどうだ」
そんな捨て台詞を残して去っていった教授を見送り、テーブルにつく。すでに一年使っている席に新しさなんてない――ということもなく、並ぶメンツはまだまだ目新しい。
真剣に論文を読み込んでいる者、早くも(?)院試の勉強に必死になっている者、ESらしきものを書いている者――新四年生は、けれどフレッシュと呼ぶには大学生活の慣れが感じられた。
「……先輩、やっぱり今日も遅刻でしたね」
「ああ、寝るときに思ったんだよ。『あ、これは明日遅刻するな』ってな」
「ダメじゃないですか。……もしかして、目覚ましかけなかったとかですか?」
「その通り。目覚まし代わりに彼女が寝起きする気配は……全く感じなかったな」
この春就職したあいつは新しい環境に慣れるのに必死で疲れているのか、昨日はどうにも気が立っている様子だった。
寝かしてくれなかった、というのも彼女と軽い口論になっただけだ。そのことをあえて言葉にするつもりもないが。
「さて、ちゃっちゃとやるかね」
卒論前に合成途中で放置したままになっている生成物がある。いい加減精製してしまって、無駄な記憶を続ける必要性を無くすべきだ。
タスクは積み上げないに限る。
春のけだるさの中、俺はのっそりとドラフトのほうへと向かった――
「信じらんない!」
ヒステリックな悲鳴が頭に響く。
信じられないのはこちらだって話だ。
疲れて帰って、一杯やるか、なんて考えていたのに台無しだ。
家に帰ってすぐ、俺を出迎えたのは同居している彼女の叫びだった。
一度実験を始めれば帰るのが遅くなるのは必然だ。数日まで大学生だったのだから、お互いに知っていて当然のこと。
だから、「掃除とか洗濯しておいてっていったのに」なんていう言葉に反論せずにはいられなかった。
「やっておいてって朝言ったでしょ!? どうせ暇なんだから」
「暇じゃねぇよ。大学があるし、実験だってあるんだよ」
「嘘。どうせ今日もダラダラ寝過ごして遅刻していって時間を浪費したんでしょ。朝、やっとく、って返事したのに……そもそも私は貴方の何倍も忙しいのに」
その言葉にはさすがにかちんと来た。
お前が忙しそうにしてるのはわかってるさ。だが、俺だって忙しいんだ。年始のイベントにB4の対応、授業だって始まってるし、奨学金の手続きとか学生職員の仕事とか、大学生だったころにはなかった予定が入ってるんだよ。
言葉を重ねたところで、喚き続ける彼女に届くはずもなかった。
やれ貴方は昔からそうだったと、過去の話を一から十まであげつらうのだから、もう辟易せざるを得なかった。
こいつ、こんなに鬱陶しい奴だったか?
それなりに惚れてたし、楽しく、上手くやっていたつもりだった。それはたぶん、俺の勘違いだったのかもしれない。
「出てって! 貴方なんかと続けられないわ!」
「そんなに言うんなら出てってやるよ!」
売り言葉に買い言葉。
もとはといえば大学近くにアパートを借りていた彼女の部屋に俺が上がり込んでいただけで、いざ出ていくために荷物を用意すれば驚くほどに少なかった。
俺が自分のものを集める間、彼女は俺たち二人の記念品だとか揃いの品をかき集め、分類も無視して資源ごみの袋に叩き込んでいた。
ペアのマグカップが無残に割れる音は、俺たちの破局をこの上なく的確に示していた。
「……っつうわけで、追い出されたわ」
彼女の家に置きっぱなしになっていたスーツケースに荷物のすべてを積み込み、大学に舞い戻った。
外はすっかり暗くなっているにも関わらず研究室にはまだ明かりがついていて、同じM1の姿がそこにあった。
「へぇ。ようやく彼女も篠田のずぼらさを直視したのか」
「まるで俺が猫かぶりで、真性の屑だとでも言いたげだな」
「ずぼらでルーズでずさんなのは事実でしょ」
やれやれ、と安全眼鏡をはずしてハンカチで拭いてかけなおす。何か小声でぼそりとつぶやかれた言葉は、ドラフトの排気音のせいで聞こえなかった。
「さて、どうすっかな」
家まで一時間くらいなのだから、実家に帰ればいい――なんて、そんな簡単な話ではないのだ。
彼女の家に上がり込む際、親父とはひどくやりあった。あの頬の痛みはまだ忘れちゃいない。
向こうが頭を下げるまでは帰らない。だが、ネカフェに泊まるような金があるかといえば悩む。
今日だけならいくらでもなんとかなるが、今後も生活をしていく上では、貯金も、今のバイト料も心もとない。
「……そういや、アパアートの金は払ってなかったな」
上がり込みそのまま同居していた都合上、住居代はすべて向こう持ちだった。その分食費くらいは出していたはずだが、まあ釣り合ってはなかったのかもな。
無性に自分が屑に思えていて、実際に屑と聞こえた気がして、ドラフトのほうをにらむ。
しこしこ操作を続けてやがる背中は、特に何も語っちゃいなくて、ただ俺の独り相撲に終わる。
「……無料で泊まれる、住める場所、か」
キャリーケースに詰まった生活用品はある。当面の生活資金くらいはある。バイト先はここからそう遠くなくて、屋根とシャワーと電子レンジと給油ポットと水道があって……
「なるほど?」
――またか。
体の中で響く呆れた声音に、獰猛に笑って見せる。
完璧だ。完璧だった――。
「おはようございます」
ピ、という電子音のあと、どこかこそこそと小声でつぶやかれる。椅子を引く音、パソコンを机に置いた音、ペンを走らせる音――それらはすべてBGMとなり、再び俺を眠りに誘う。
やがてどうにも周囲の音が大きくなってきて、俺は眠い目をこすりながら起き上がる。
「ふぁ……ぁふ」
「おう、揃ってるか? ……揃ってるな」
タイミングよく研究室に入ってきた教授が、俺の姿を目に留めて、自分の目を疑うようにしきりに瞬きを繰り返す。
やけに視線を感じて見回せば、教授だけじゃなく、B4たちからも視線が集まっていた。
「……もしかして、帰らなかったんですか?」
「おう、泊まったぜ。あ、いや、今後は泊まるぜ。これで遅刻は無いな。何せ、研究室に住むことにしたからな」
反応を待つこと数秒。
返って来たのは、教授のそれはもう深い、深い、呆れと諦観をないまぜにしたため息だけだった。
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