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序
それは昨年の話だ。――立ち寄った公園にて。
俺の足元では飼い犬が、雑草の匂いを熱心に嗅いでいた。
「おまえ、そんなにずーっとクンクンし続けてて、苦しくならない? ちゃんと息、吐きなさいね」
なにも聞いちゃいない愛犬に話しかけながら、俺は手袋を取り出そうとジャケットのポケットに手を突っ込んだ。
そういえばあの日は、とても寒かったなあ。
――いつものコースを辿るだけの散歩だからと、すっかり気が緩んでいたことは認める。
手袋をはめている最中、ついうっかりリードの持ち手を落してしまった。拾おうとした矢先、しかし突如、犬は肉球で地面を蹴った。そしてミサイルのような物凄いスピードで、公園を飛び出して行ったのだ。
――俺は呆然となる。
いやいや、おまえ、そんなキャラじゃなかっただろ……。
うちの犬は普段ぼーっとしていて、ひなたぼっこをしながらの昼寝が何より好きな、まだ若いはずなのにご隠居さんみたいな、そんなおっとりした性格だったはずなのだ。
あいつが走るところなんて、ここ何年も見ていない。――それなのに、なんで?
いや、驚きに固まっている場合ではない。正気に戻った俺は、当然犬を追いかけた。
次の瞬間、「キキーッ」と車の急ブレーキの音が聞こえてきて、心臓が凍りつく。
百メートルほど全速力で駆けると、不自然な形で停まっている車と遭遇した。そしてその細長い車体の鼻先には、茶色のかたまりが横たわっている。
――うちの犬だ。
通り過ぎるついでに車の運転席を覗けば、迷惑顔の中年男が座っていた。
「嫌なものを轢いちまったなあ」。そんな心の声が聞こえてくるようだった。
伏した犬の傍らには、誰かが跪いていた。野次馬だろうか。
犬の周りはびっしょり濡れていた。近くまで行ってようやく、アスファルトを染めているそれが、血だと気づく。
「おい! おい……!」
気が動転してしまい、俺はぐったりしているあいつの体をしきりに揺すった。――情けないことに、それしか出来なかったのだ。だって被害にあったのは犬だし、救急車なんて来てくれるわけがない。
じゃあ、どうすれば? すぐにタクシーでも呼んで、動物病院に連れて行けば良かったのだろう。だがそのときの俺は、そんなことを思いつく余裕もなかった。
「ごめんね……」
傷ついたあいつの横にいたのは、俺と歳が近そうな女の子だった。血で汚れるのも気にせず地面に膝をつけ、犬の頭を撫でている。
見知らぬ女の子。――いや、どこかで会ったことがあるような?
「こんなことになるなんて……」
女の子の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
朦朧となった犬の口からは、ひゅーひゅーと聞いたことのない音が漏れ出している。うめき声のような、だけど、甘えているかのようにも聞こえた。
「私のせいなの。私の……」
ちなみに犬の名は「豆太」。五歳の雑種である。
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