4.神が寝ている

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 たしか両手を広げた長さが自分の身長と同じぐらいだと聞いたことがある。そこからだいたい想像するに、すでに今五メートルの禁止エリア内にいることは確実だった。  少し身を後ろに引くが、当然壁があるので下がれない。颯斗は恐る恐る顔を上げた。 「あ、あの」 「あ?」  不機嫌で面倒そうな善の声が返ってくる。その様子に肩を震わせながらも、颯斗は言葉を続けた。 「二メートルではだめですか?」 「は? なに交渉しようとしてんの?」 「は、はいっ、あのー……す、すでに、そのくらいの距離にいて、これ以上……離れられないので……」 「ああ……」  不意に善の表情が色を変えた。その瞳が蛍光灯の光を滑らせ、何らかの感情を滲ませている。  颯斗はごくりと唾を飲んだ。  コマンドの乖離だ。  同じDomから発せられた命令を同時に満たすことができない状況に陥ると、それを自覚したSubは混乱する。  「離れろ」はコマンドの要素はなかったものの、それでもDomからの()()は、Sub本人が意識してしまうとコマンドと似たような効力を発揮するのだ。  額から汗が吹き出した。動悸がして、颯斗は呼吸を荒くする。 「あ、あのっ……こ、これ以上、下がれなくて、あのっ……」  息苦しくて、颯斗は必死で肩を上下させながら言葉を絞り出した。  しかし善からコマンド解除(許し)の言葉が出てこない。それどころか、善の瞳は動揺する颯斗の姿を見下ろしながら昂りさえみせていた。 「ストーカーやろう」 「はっ、はひっ!」  颯斗は膝に手を置いたまま、ピンと背筋を伸ばした。善がベッドの縁から立ち上がり、ふらりとこちらに一歩足を近づける。 「あ、あっ、あのー、せ、せんぱいっ、きょ、距離が……」 「オマエ、Subだろ?」 「は、はぃ……」 「Subのくせに、Dom()のコマンド聞けねぇの?」  また一歩距離を詰め、ギラリと善の瞳が揺れた。  まるで別人だ。何か違う生き物が宿っているかのようだった。  颯斗はじりじりと詰められる距離に混乱し、ついに足を崩して背中を壁に押し付けた。 「ご、ごめんなさいっ……せ、せんぱいっ、ごめんなさいっ!」  気づけば許しを乞いながら、颯斗はその瞳から涙を溢れさせていた。動悸も止まらず呼吸が苦しい。  Domのコマンドに従えないことが、まだプレイに慣れない颯斗にとって過度なストレスになっている。  善が大きく息を吐き、それが命令を聞けない自分への落胆のように思えた。  喉奥が締まり、颯斗はついに息ができなくなってしまった。 「おっすー! 善、調子どっ?」  突然、保健室の扉がガラリと開き、場にそぐわぬ飄々とした声音が空気を割った。  颯斗も善もその人物を振り返らないままお互いを向いていたが、声で誰かはわかっている。  善の友人の金沢だ。 「えっ? なに、どうした⁈」  すぐさま二人の異様な様子に気がついた様子の金沢は、颯斗の元に駆け寄り肩を支えた。  颯斗は上手く呼吸ができずに唇をガクガクと震わせている。 「これサブドロップか⁈ 鼻血でてんじゃんっ! アノちゃん平気⁈」  金沢の手が颯斗の肩を撫でる。  しかし善の命令を満たせないままの颯斗の呼吸は一向に楽にならなかった。  颯斗の視界に映っている善は、金沢が到着した瞬間、また人が変わったみたいに表情を強張らせ、この状況に明らかな混乱をみせていた。  金沢も善のその様子に気がついたようだ。 「ご、ごめんなさい……で、できなくて……ごめんなさいっ」  颯斗は必死に言葉を絞り出しながら、善の表情を見上げている。 「アノちゃん、大丈夫だから、『Look(こっち見て)』」  金沢は颯斗の肩を撫でながら、優しい声音でそう言った。  コマンドだ。  颯斗は知らなかったが、金沢の第二性はDomのようだ。  呼吸を阻むように締め上げられていた胸元が少しだけ緩み、颯斗の視線は金沢を向いた。 『Breath(ゆっくり息して)』  金沢のそのコマンドに合わせて、颯斗はゆっくり息を吐き、またゆっくりと吸い込んでいく。  徐々に呼吸が落ち着いていった。金沢が善からプレイの主導権を奪ったようだ。   「よしよし、いい子。ちゃんと息できてるよ、偉いねアノちゃん」  そう言って金沢は颯斗の頭を撫でる。そこでようやく、颯斗はあらゆる衝動から解放されたかのように、ゆっくりと肩を下ろした。 「善、こっちこい! オマエもやらないとぶっ倒れるぞ」  金沢が善を呼び寄せた。  当然、プレイの主導権を奪われたDomは満たされない欲求を抱えたまま体調に支障をきたすのだ。  それを防ぐためには、きちんとした形でSubとのプレイを終わらせなければならない。  善はふらふらと颯斗に歩み寄った。  金沢が場所をあけ、善が颯斗の前に膝を折って屈み、その手のひらが颯斗の頭に伸びてくる。 「ごめん、悪かった」  颯斗は呆然としたまま善を見上げた。  その表情は穏やかだが、何か後悔をはらむかのように寂しげだ。  善の指が颯斗の髪を撫でる。そこから伝わる温度がじわじわと颯斗の体に染み込んでいった。その手が颯斗の頬に滑り、親指が鼻血を拭ったようだ。 『Good boy(よくできました)』 善の紡いだそのコマンド(言葉)が、颯斗の心を満たしていった。
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