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【五、明鏡】
昼食を終えると、一行は案内役二人が泊まっていた宿に向かい、五頭の馬を連れて検問を抜けた。そのまま次の宿場町へ直行……とはいかず、近くの野原で馬に挨拶代わりの触れ合いをしてから出立した。
鹿毛三頭、黒鹿毛二頭で構成された行軍は、緑峰府と橙路府の間に聳える旗立山脈へ向かう街道を駆ける。大まかな行先は同じと見られる人々を追い越し、目的地ではない宿場町は通り越し、ひゅんひゅんと駆けていく。
その道中、一度目の休憩を、丸石で埋まった川原にて取ることとなった。
「さて。我が愛馬の乗り心地を聞かせてもらおうかな、志乃?」
じゅるじゅると川の水を飲む相棒の黒鹿毛、弦月の隣に座り、晴成が問いかける。声や呼称が一気に砕け、親しみが表れているのは、芳親が静かにしつこく「かしこまらないで」とせがんだからだった。晴成も晴成で、応じるのも早かったが。
しかし、そんな声で問われたのにもかかわらず、志乃は中谷から説教を受けた後と似た顔で、彼の隣に座り込んでいる。一応、笑みは浮かんでいるものの、引きつっているそれに生気はない。
「……。……とても……揺れました」
「ははは! だろうなぁ。いくら妖雛とて、不慣れであれば堪えよう」
時間の流れもゆったりと感じられる空気を、晴成の笑い声が高らかに、気持ちよく突き抜けていった。
旅路から逸れた森の中、快いせせらぎが響く川辺で、一行は上下に分かれて休んでいる。志乃と晴成、そして少し席を外している芳親は川下で。直武と紀定、宏実は川上で。お互いの姿は視認できるが、近いとは言えない距離が開いている。
「申し訳ありません……俺が馬に慣れていれば、手間取らずに済んだかと」
「それは仕方なきこと故、気にするな。むしろ、警戒される見積もりを誤っていたこちらに非がある。まさか、本当にどの対応も効かず、志乃に対して平然としているのが弦月だけとは、思いもしなかったからなぁ」
自分の名前に反応して、額に曲星を頂いた黒鹿毛が晴成を見た。しかし、主人が何か用を言ったわけではないらしいと気付くなり、すぐに顔を逸らしてぼーっと突っ立っていた。
獣は妖雛を警戒する。馬のように聡い動物ならなおさらだ。志乃たちと直武たちが離れて休憩しているのも、馬が志乃を警戒してしまうため。だからこそ、晴成たちも冷静な馬を厳選して連れてきたのだが、弦月以外は志乃を警戒するという結果に終わっていたのである。
「まあ、弦月は大丈夫だろうと自信はあったが。こいつは冷静沈着というより泰然自若とした奴だし、何より動じないからな。もう其方を仲間と見做しているだろうよ」
「そうでしょうか」
「そうとも。なあ、相棒」
ちら、と弦月は一瞥だけで答えたが、確かに警戒するような雰囲気は感じられない。それでも志乃は緊張感を拭えないでいた。
妖雛だから近寄れない以前に、志乃は動物が苦手だった。妖獣相手なら遠慮なく接せられるが、普通の動物は言葉を交わせない。不快にさせたらどうすればいいか分からないし、触れるにも加減が分からない。失態をしでかした際、バレているのかいないのか、怒っているのかいないのか不明で恐ろしい、中谷を前にした時の気分になってしまう。
「ん? どうした、志乃。顔が引きつっているようだが」
「いえ、何でも、ありません」
錆びた音がしそうな動きで、志乃が顔を逸らした直後。木立の向こうから嘶きが聞こえ、次いで馬蹄の轟きがこちらに迫ってきた。
「お。芳親が戻って来るようだな」
呟きから間を置かず、川原にもう一頭の黒鹿毛が飛び出してくる。来る途中にあった野原で、芳親と共に駆けていた黒鹿毛だ。
鞍上にて黒鹿毛の手綱を取っている芳親は、勢いを殺すことなく、騎馬を川へ突っ込ませた。盛大に上がった水しぶきの中、気持ちよさそうに嘶く馬の姿に、晴成が目を細める。
「志乃の警戒されようには驚いたが、芳親の懐かれようにも驚いたな。しかも一番の若輩に。同年の馬の中では落ち着いていても、他の四頭と比べれば妖雛に戸惑うかもしれぬと思っていたが、すぐ仲良くなってしまった」
「芳親さんは動物に好かれるようですからねぇ、何故か」
羨ましいとまではいかないが、志乃は自分が馬に乗れていれば、晴成に迷惑を掛けずに済んだだろうとは思っていた。相乗りでの長距離移動は、志乃の後ろから手綱を握る晴成にも、二人分の重みを乗せて走る弦月にも負担が掛かってしまう。
やがて、豪快に川遊びをしていた一人と一頭が岸へ戻って来た。芳親が降りると、黒鹿毛は甘えるように鼻を擦り付け始める。
「本当に懐かれているな、芳親」
「……うん。……もう、志乃、にも……気、許してる、と思うし……志乃、撫でて、みない?」
一旦、黒鹿毛の顔をやんわりと押しのけて手招いてくる芳親に、志乃はぶんぶんと首を横に振った。馬を怯えさせて旅路に支障が出るのを懸念してのことだったが、「やってみるといい」と晴成にも促され、渋々応じて立ち上がった。
芳親から「黒」と何の捻りも無い名前で呼ばれている黒鹿毛は、志乃が近づいても暴れる気配はない。警戒の雰囲気はピリピリと感じられるが、目には好奇の色が宿っているようにも見える。
「では、その……黒さん、失礼します」
恐る恐る伸ばされた手が、黒の首に触れる。志乃がそっと撫でてみても、黒は大人しくされるがまま、目を細めてすらいた。
「……僕と、晴成が……志乃と、仲良くしてる、から……悪い奴じゃない、って、分かってくれてる……と思う。……それにしても」
黒の落ち着きぶりが予想通りだったからか、芳親は微笑を浮かべていた。ところが、不意にそれを消したかと思うと、じ、と志乃を凝視する。
「……志乃、何だか……ちょっと、臆病になった……ね」
「臆病、ですか」
撫でていた手を下ろすのにつられて、志乃は頭を少し俯けた。そう言われる原因に心当たりはある。麹口で晴成たちを探していた際、芳親から目を逸らしたのもそうだが、他にも。
「そうかもしれませんねぇ。馬に対しては、近寄ったことも無かったからというのもありますが……接することに対して、少し躊躇しているような気がしなくもないです。沢綿島でのことがあったから、でしょうか」
「沢綿島でのことというと、鼬の襲撃だろうか?」
問いかけに是と答えかけ、しかし志乃は閉口した。
誰かと接する時、躊躇がちらつくようになったのは、鼬のことより史継たちとの間にあったことが原因。史継とのことに連鎖して思い出してしまった、同い年の遊女に殺されかけた記憶もそうだった。
相手の傷心を理解せず、さらに傷つけた。「沢綿島でのこと」とはこれだが、詳細を晴成に話すか、迷った。
以前の志乃なら、何も気にせず笑って話しただろうし、結果として、畏怖や嫌悪の目を向けられることも気にしなかっただろう。むしろ、そんな反応は当然として受け入れる。今もそれは変わっていない。
けれど、既に彼女は知ったし、気が付くようになっていた。それでは寒い方へ、寂しい方へ行くばかりなのだと。
「……。晴成さんからすると、不快なお話をすることになるかと思うのですが。聞いて下さいますか?」
「無論。問うたのはこちらだからな。それに、其方にとって重要なことなのだろう。であれば、聞かない方が無礼というものだ」
晴成も立ち上がり、凛然とした姿勢で志乃と向き合った。
威圧感はあまりない晴成だが、正面に立たれると、嘘偽りを口にするのが憚られる雰囲気を持っている。もし言っても、容易く見抜いてしまうような清澄さが、藍色の双眸に宿っている。志乃にもそれは感じられ、故にこそ背筋を正していた。
「沢綿島で、俺はとある方のお身内が重傷を負ったことに対し、不謹慎な態度を取ってしまい、その方の心を傷つけてしまいました。そして、それを察することができず、さらに傷つけてしまいました」
相槌は無く、反応も無い。「人の形をした鏡に話しているよう」なんてことが、志乃の脳裏にぼんやりと浮かんだ。鏡に映った自分に語り掛けているようだ、とも。
「以前にも、他の方の心を傷つけたことはあったのですが、気にしたことはありませんでした。俺には、心の傷など見えていませんでしたし、何かを傷つけた結果、畏怖や嫌悪の目を向けられるのは、当然のことだと思っていましたので」
ぴく、と。凪いだ水面に小石を投げたかのように、晴成の表情が動きかけた。けれど彼は何も言わず、表情も崩れない。
「この一件以降、俺は、他者の内情を読み取れずに傷つけてしまうことを、おそらく気にするようになれたかと。だから、以前より臆病になったのかもしれません」
話し終えると同時に、志乃の視線が下がる。微動を終了の合図と受け取って、「なるほどな」と晴成は呟いた。
「つまり、自分の行為で相手が傷つくかもしれないと考えるようになったから、接し方に気を付けるようになったと。それを芳親の感覚で言うのなら、『臆病』なのだな」
「……晴成、は……どう思う、の?」
藍色の目は偽を許さなかったが、牡丹色の目は黙秘を許さない。志乃の後ろから視線と共に投げられた問いに、晴成は「ううむ」と唸る。
「恭謙、戒慎、といったところか。要は遠慮深い、慎み深いということだな。芳親は後ろ向きに捉えているようだが、己は前向き、美徳と捉える」
「……僕が、悪者、みたいに……言わないで、ほしい……」
「ははは、すまぬ。そう聞こえてしまったか」
じと、と晴成を睨んだ芳親だったが、晴成の笑顔が明快だったからか、そもそも気にしていなかったか、機嫌を悪くする素振りはなかった。
「……形が、どうあれ……志乃が、変わろうと、してる。……それは、良い、こと」
「うん? 志乃は何か、改めようとしているのか」
「ええ、はい。そのために麗部の旦那のお供をしております。芳親さんもそうですし」
こくこく、と芳親が頷くと、黒も真似をするかのように首を振るった。何故か弦月も真似して、ぶんぶんと首を振るっていた。
「先の話から考えると、他者の内情を慮れるように変わる、といったところか」
「それも変えなければならない点の一つだと、沢綿島でのことで分かりました。最大の目的は、何のために力を振るうのかを考え、何を人生の道標にするのか探し当てることですが……それ以外にも、俺たちには問題がありますし、それについても知らなければなりません」
「うん。……志乃も、僕も……やっと、気にする、ところまで……来たばっかり、だけど」
知ることから始めなければならないと、直武は二人に言っていた。異常を気にかけてはいても、実情を知らず、知ることもしなかった妖雛二人は、今やっと、道の始まりから一歩踏み出したあたりにいる。
「ふむ、まずは自らを知り、省みなければならぬ、か。己も見習わなければならぬことだな」
「? 晴成さんには、あまり必要が無さそうですが」
揃って不思議そうな顔をする妖雛たちに、「そんなことはない」と晴成は胸を張る。
「我が身を知り、省みることは基礎。基礎を疎かにすれば、その上に積み重ねるものが崩れてしまうのは明白。故にこそ、常に見返すことを心掛けねばならぬ。……ああ、それと、志乃。話が変わってしまうが、一ついいだろうか」
「はい。何でしょうか」
ついでに頼もうとしていたことを思い出した、というような晴成の表情は、しかしどこか深刻なものへ早変わりした。
「先の話で、其方は己が不快になるかもしれぬと前置きしていたな」
「あー。やはり、気分を害されましたか」
「うん、少し不快になった。畏怖や嫌悪の目を向けられることを当然と思う姿勢がな」
「……はへ?」
目を瞬かせたのち、志乃は間抜けな声を出す。思ってもみなかったと言わんばかりの表情に、晴成は眉を顰めた。
「畏怖や嫌悪を向けられることを、当然と思ってはならぬ。それは我が身を低く見るということ、自らの基礎を見誤ることに繋がる。卑屈になるでも傲慢になるでもなく、中立の目で我が身を見よ。今、自分がどこに立ち、どういう状態にあるかを真に見極められねば、変わる方法も分らぬままだぞ」
強すぎず、けれど痕跡は残すような声と言葉で作られた塊が、志乃の中に投げ入れられて、沈んでいった。沈み込み、溶けて浸透していくのを、彼女は確かに感じ取った。
晴成の言葉に、自分が何を思ったかまでは分からない。だが、空虚が広がる胸の奥で、何かが揺さぶられたような気がして。そんな感覚は初めてで、志乃はただ唖然としてしまっていた。
「それに、まだ顔を合わせて数刻ほどしか経っていないが、己は其方らを気に入っている。其方らにはどこか、うつろで、底の見えぬ陰のようなところがあるが……何か心に置いているものを話すときなどは、目に光を宿す。その光を見ると、其方らと己たちは同じ場所に立ち、笑い合えると分かるのだ」
い、と口で弧を描き、晴成は無邪気に笑った。からりと晴れ渡った空を思わせる、清々しい笑顔だった。
「故にこそ。端から分かり合えぬと決めつけられることも、故に嫌悪するばかりの視線を向けられることも、当然などと思わないでほしい。己にとって、其方らは良き友人なのだから」
「友、人」
唖然としっぱなしだった志乃は、やっと声を出した。出したというより、ひとりでに滑り落ちていたという方が正しかったが。
「そう、友人だ。嫌だったか?」
「いえ、その……友人ができるのは、何だか、初めてのような気がして」
「待って。僕とは友人じゃないの」
呆けた調子の志乃に、芳親が鋭く問いかける。非難するような牡丹色の目を、何故か志乃は直視できず、思いっきり目を泳がせた。
「もちろん、芳親さんも友人です。ですが……芳親さんは友人というよりも……ええと」
中谷や山内のような、同僚であり身内といった感じに近いと言うはずが、言い淀んでしまう。もっと良い言い方があるのではとか、最適な言葉あるのではないかとか、思考が渦巻いて焦りを積もらせていく。
目に見えて焦り始めた志乃に、芳親は顔を見る見る不満げに曇らせ始め、追い打ちをかけた。
「……そう。……友だち、だと……仲、良いって、思ってた、の……僕だけ、だったんだ……」
「いえ、断じてそういうわけではなく」
「何だ、裏切りか? 人を騙すのは良くないぞ、志乃」
「違います! えぇと、その……弁明! 弁明の余地をください!」
にやにや笑う晴成と、黙って黒の手綱を引いて離れていく芳親。双方に慌ただしく顔を向けつつ、志乃は芳親を呼び止める。
「芳親さん、お待ちください芳親さん、黒さんに乗らないで」
「さよなら」
「さよならではなく!」
悲痛な訴えもむなしく、芳親は黒を駆り、見る間に遠ざかってしまった。志乃が芳親を呼び叫ぶ声と、高らかな晴成の笑い声がこだまし、空に消えていく。
「よし、追うか。先に乗れ、志乃」
「うう……申し訳ありません……」
晴成へ向けた言葉に、ぶるる、と弦月が反応する。「何やってんだお前」と言っているかのような彼の素振りに、思わず志乃は「ご迷惑をおかけします」と頭を下げていた。
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