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【六、麗部の術、産形の術】
麹口から出立した一行は三日をかけ、旗立山脈の足元にある宿場町、佐和黒に着いていた。休みを挟んではいたが、強行としか言えない速さでの到着である。
橙路府と緑峰府の間に聳える旗立の峰――若葉に彩られながらも、神々しい山々を望める宿にて、一行は休息を取っていた。ここからさらに関所のある峠を目指さなければならなかったのだが、予定に変更がなされ、佐和黒に転送陣を展開できる術師たちが派遣されることになっていた。
というのも。
「……不甲斐ないばかりです」
現在、貸し出された部屋に臥せって呻く、志乃の体調を鑑みてのことである。
床には畳が敷き詰められ、床の間には花と掛け軸が飾られた広い部屋は、この値が張る宿の中で一番高いという。志乃からすると入室が躊躇われる部屋だったが、そんなことが言えるわけもない。
宿の滞在費は晴成の兄が持ってくれたようだが、懐が寒くならない程度に済ませてもらったらしい。麹口の食事処でも、晴成を見るなり店番の老爺が畏まっていたが、星永家は緑峰府でも顔が利くのだという。
「まさか、馬に乗るということが、こんなにも困難だったとは……皆さん、よくお一人で乗れますね」
尊敬の眼差しに、知らせに走って不在の宏実以外が、満更でもない顔をする。芳親はしっかり胸を張って、自慢とばかりの顔をしていたが。
乗馬の負荷に何とか耐えていた志乃の膝だったが、佐和黒に着く前から笑い始め、足自体が使い物にならなくなっていった。弦月から降りた後、ろくに体を支えられないほどに。この部屋にも自力で来られず、芳親に俵よろしく抱えられて運ばれていた。
「気に病むことは無いよ。兼久君もそうなる可能性はあるものとして考えていたから、こうして予定を変更できたわけだし」
机の傍から、直武が微笑と共に返す。志乃は四人が向き合って座っているのを、横から眺められる位置に臥せっていた。
妖雛は体の丈夫さ故、人間よりずっと強行には耐性がある。しかし、不慣れなことや相性が悪いことに対しては、もちろん弱い時もある。兼久は志乃が動けなくなってしまった場合も考え、いつでも佐和黒に部下を派遣できるよう態勢を整えていた。
「それに、茉白君が来るって言っていたからね」
「そう。茉白が来る」
半ば直武に被せて、かなり食い気味に芳親が言う。分かりやすいくらいにうずうず、うきうきと体を揺らし、にこにこと嬉しそうに笑み、牡丹色の目をきらきら輝かせている。祭りの始まりを心待ちにする子どものような素振りは、どう見ても上機嫌なものだ。
「芳親殿。分かっているとは思いますが、茉白殿は仕事のために出向いて来られます。邪魔をしてはいけませんよ」
「うん。会えるだけで、充分」
素直に即答したかと思うと、芳親は無邪気に、この世で一番幸せなのだと言わんばかりに笑った。周囲の呆然や苦笑を誘うほど眩い笑みは、彼が完全に人間ではないことを忘れさせる。
「そうだ、この先、もうみんなで集まって、長く時間を取れるのは今だけかもしれないから、私や紀定が扱う術について、志乃君に説明しておこうか」
「そういえば、聞いておりませんでした」
紀定の術については、沢綿島を発った後、佐和黒に着くまで落ち着けた時間がさほどなかったことも災いして、説明されずじまいだった。当の志乃も、乗馬の負荷に耐えることに精一杯で、訊くのをすっかり忘れていたのだが。
「音に聞く四大武家の妙術でございますか。渡辺の破邪、碓伊の必中、境田の怪力、麗部の深影。麗部家の妙術だけ詳細が分からぬ故、不思議に思っていた次第でござる」
「まあ、地味だからねぇ、うちに伝わる妙術は。もちろん、四大武家の名に恥じない術ではあるけれど、最後尾から支援する術だし」
直武に対しても、晴成は幾分か砕けており、直武もまた砕けている。期待の笑みを浮かべる晴成に、直武はどこか困ったような笑みを返していた。語らずとも謙遜を感じ取らせる笑みは、直武らしいものだった。
「麗部家に伝わる妙術〈深影〉というのは、ある一定の空間に、下準備の術を張り巡らすものなんだ――と言っても分かりづらいだろうから、実践してみせよう」
傍らに横たわらせていた杖を手に取ったが、直武は立ち上がらずに続ける。
「術式を可視化するのは、志乃君が回復した時にまたやろうか。寝たままじゃ見られないものね」
とす、と石突が畳に落とされ、添えられていただけの直武の手が離れる。すると、杖は穴に落ちたかのように、一瞬で下へ消えてしまう。音もなく起こった出来事に、志乃は思わず跳ね上がるようにして体を上げたが、すぐに呻いて布団に沈んだ。
「いたた……旦那、何をなさったので? 穴でも開けたのですか」
「影に術を巡らせて、一種の空間にしたんだ。穴を開けたというよりは、影を海のような空間と見做して入り口を作った、と言った方が正しい。触ってもらえればすぐに分かると思うけど、それはまた次回だね」
言いながら、直武は影の中に腕を突っ込み、杖を引きずり出す。何も無かったかのように戻って来た杖に、志乃と、無言ながら目を見開いていた晴成の視線が釘付けになっていた。
「影ある場所に術を張り巡らせ、好きな時に起動させて効果を得る。これが麗部の術だ。罠を発動させたり、影に入った相手の武器や術を奪って無力化させたり――ああ、無力化は夜蝶街でも使っているよ。志乃君と芳親を気絶させるために。広範囲だったし、何より二人の呪力は強いから、久々に堪えたなぁ」
直武は楽しい記憶を懐古するように言うが、迷惑をかけた側である妖雛二人は気まずい顔をする。直武に掛かったのは身体的な負担だけではないと、二人とももう、よく知っていた。
「尤も、説明する時以外、可視化させることなんてないから、何をやっているのか分からなくて、やっぱり地味なんだけどね。……さて、お次は紀定が使う術を説明しようか。おいで、紀定」
子に語り掛けるように言った直武に、紀定が慇懃な返事をして歩み寄った。
「産形に伝わる妙術は〈影潜〉と言う。麗部が術を張り巡らせた影に潜ることができるんだ。同じように術を巡らせた影から影へ移動することも出来る。夜蝶街でも、志乃君に初めて会った時、紀定は私の影の中に潜んでいたんだよ」
説明する直武の傍ら、触れるか触れないかのところで、先ほどの杖のように、紀定の姿が突如として下へ消えた。と思えば、直武が指さした床の間、飾られた花瓶の影から紀定が抜け出てくる。
あっさりと為された不可思議は、呼び水となった。志乃が芳親と共に、史緒の回収と大蜘蛛を始末してから戻った宝山で、何も無い場所から紀定が姿を現したように見えた記憶の。あのとき不思議に思っていたことも重なって、驚きは濃さを増した。
「入る時は一定の大きさがないと入れませんが、基本的に、出る時はどんな大きさの影でも抜け出て来られます。あまりに小さすぎれば、さすがに出られませんが」
「とまあ、こんなところかな。すごく簡単な説明しかしていないけれど、今の志乃君に、色々体感してもらうのは難しいからね」
「あうぅ……すみません」
「謝ることじゃないよ、そんな顔をしないで。……君はどうだったかな、晴成君。麗部の妙術、面白かったかい?」
「無論、大変興味深い術でございました。もう少し詳しくお聞きしたいところにござるが」
ちら、と晴成が襖の方を見る。彼の微動を補足するように、「宏実、帰ってきた」と芳親が呟いた。果たしてそれは的中し、「失礼いたします」と帰還を告げる宏実の声が入り、次いで襖を開けた宏実の姿が現れる。
「瀧宗典殿が率いる術師部隊が、現在こちらへ向かっております。それから、同行していらっしゃる茉白殿からご依頼が。志乃殿を診察する際、集中したいので二人きりにしてほしいと」
「ああ、そうだったね。志乃君、茉白君と二人きりにしても大丈夫かい?」
「大丈夫です。粗相が無いよう気を付けます」
茉白が過剰な褒めに慣れていないことは承知している。その他、いつも対面の際に気を付けていることを徹底すれば、問題はないだろう――紀定からの注意をしっかり覚えていたこともあり、志乃は自信満々で答えた。
「では、私たちはもう別の部屋にいた方が良いかな。机だけ壁側に避けて」
「そうしていただければ助かる、とのことでした」
「よし。芳親、紀定、運ぼう」
聞くや否や、晴成が二人に指示をして机を退ける。彼らを眺めていると、志乃の胸裏に何故か、むずむずするような感覚が広がった。他者が働いている中、自分一人だけ大人しくしているというのは落ち着かない。誰かを手伝うことは当然だったが故に、それができない状況に慣れていなかった。
「……そうだ、志乃」
「んぇ? はい」
さっさと部屋を出ようとしていた芳親が、急に踵を返して志乃の傍らに歩み寄り、座り込む。彼が急な動きをすることに、志乃は慣れつつあったが、やはり不意を突かれるので驚いてしまう。
「……茉白と、志乃……仲良くなれる、と思う。……そうなって、くれると、嬉しい」
ずっと嬉しそうな顔が、更に喜色を深めた。想像だけでそこまで喜ぶのなら、実際に志乃と茉白が仲良くなった時、どうなるのか不安にすらなってくる。が、志乃は不穏な気配を感じることすらなく、純粋な思いを純粋なまま、真正面から受け取った。
「ええ、俺も仲良くなれればと思います。善処いたしますので、どうぞお楽しみに」
いつもの暢気な笑みに、芳親は満足げに笑って頷く。そのやり取りを皮切りに、志乃以外の五人は、別室へと移っていった。
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