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【七、志乃と茉白】
初めて聞く声が転がり込んできたのは、男五人が退出して少し経ってからだった。
「こんにちは、失礼いたします」
キンと刺さるような鋭さは無く、さらさらと控えめに鳴る鈴のような声。次いで入ってきた声の主も沈着な雰囲気を纏っていたが、全てに若干の緊張が滲んでいる。志乃はそれらを読み取っていたものの、入ってきた姿を認めた途端、注意をそちらへ傾けさせられた。
地味な色合いの作務衣を着、道中で被っていたのだろう笠を持った小柄な少女。その肌と髪の色が、作務衣の色に不釣り合いすぎる雪白の色をしていた。眉毛や睫毛すらも白い顔の中では、血をそのまま映したような瞳が赤く咲いている。
「初めまして。天藤茉白と申します」
非凡な容姿の彼女は、けれど、誰もができる礼儀正しい挨拶をした。呆気に取られていたせいで、志乃の頭は一拍遅れて下がる。
「……初めまして。花居志乃と申します。臥せたままでのご挨拶、どうかお許しを」
「いいえ、事情は聞き及んでおりますから。大変でしたでしょう。ご苦労様でした。お疲れのところ申し訳ないのですが、治療を開始しても?」
「もちろん。よろしくお願い致します」
歳が一つほどしか違わない、花盛りのはずの少女たちが交わす言葉は硬い。笑顔も、対人用に貼り付けた風なのが見え透いてしまっている。
もしも芳親がいたら、不満げな顔をするだろうなと志乃は確信した。この場ではなく脳裏に現れた芳親は、すでに顰め面で文句を言い始めていて、ちょっと申し訳なくなる。
「治療は治癒術で行います。痛みと、それから疲労も取り除きますから、だいぶ楽になりますよ」
「治癒術……」
「あ、ご存じありませんでしたか? 説明が必要でしょうか」
「いえ、そこまでしていただくほどでは。聞いたことはあるのですが、見たことは無かったもので」
治癒術はその名の通り、呪力によって傷を治す術だ。才ある者であれば、簡単な治癒を努力次第、相性次第で習得することができる。それでも数は多くなく、ほとんどが色護衆に所属しているため、黄都府以外の住人にとっては、知っていても見ることはあまりない存在だった。
「お気になさらず、始めてしまってください」
「では、失礼しますね」
掛け布団を丁寧かつ素早く取って、茉白は志乃の足に手を翳した。目に見える変化が起こる、不思議な音が聞こえてくるということは無かったが、独特な癖がついた短髪がわずかにそよぐ。
視線を外した志乃からそれらは見えなかったが、足が癒されていくのを感じ取って、術が行使されているのは分かった。固く重く、石のようだった下半身に、じんわりと湯が浸透していくような感覚が広がり、ほぐされていく。
「……ふう。終わりました。もう自由に動けるはずです」
「おぉー、それは重畳。では、よいしょっと」
恐る恐るではなく、いつも寝床から起き上がるような遠慮のなさで、志乃は自力で立ち上がる。膝が笑うことはもう無く、むしろ軽くなっていた。
「良かった、何も問題なさそうですね」
「おかげさまで。それにしても、治癒術というのはすごいのですねぇ。こんなにも早く回復してしまうとは」
ぴょんぴょんと跳ねてもみて、本当に大丈夫だと確認すると、志乃は寝ている時も結びっぱなしだった髪を結い直しながら座った。
「改めまして、ありがとうございます、茉白さん。ところで話は変わるのですが、少々お願いしたいことがありまして。聞いていただけますか」
「お願い、ですか。……分かりました。ご期待に沿えるかどうかは少し不安ですが、私でよろしければ」
急な話を振られても、可愛らしい顔を顰めることなく引き締めて、茉白は背筋を正した。志乃はまだ笑顔だったが、女性の正座で綺麗に手をつく。
「単刀直入に申し上げますと、俺と仲良くなっていただきたいのです。友人として、これから仲良くしていただけないでしょうか」
――ぽかん、と。茉白の顔から力が抜けた。
独特の跳ねた癖毛が耳のように見え、小動物が固まっているように見える茉白の顔。止まっていた彼女の時は、瞬きで動き出した。次いで表情と肩が震えて、笑いだす。最初は手で口を隠していたが、笑声の鈴はころころ零れ出ていた。
「っく、ふふ、ふふふっ……ごめんなさい。そんな、とても律義に、お友達になりましょうって言われるなんて、思わなくて」
「すみません。同年代の女性と友人関係を結ぶのは、これが初めてでして。同年代の男性でしたら、既に芳親さんと友達になれたのですが」
志乃に身内と呼べる人はいれども、友人と呼べる人はいなかった。年が近いのは山内や中谷、志鶴あたりだが、それでも八、九ほど離れている。
同年代の少年少女というのは、周囲にはいても寄ることは無い、近くて遠い存在だったのだ。志乃は彼ら彼女らに興味が無いし、少年少女たちは志乃を恐れていたので。
茉白は何らかの事情を察したような顔をしたが、すぐに屈託ない笑みを咲かせた。
「じゃあ、女性としては私が、志乃の初めての友人だね。こちらこそ、仲良くしてもらえると嬉しいです」
「おぉ……!」
「そんな、話し方を変えただけで感嘆されてもなー。志乃も、私のことを呼び捨てにしてくれていいんですよ? 敬語だって使わなくていいし」
「あー……敬語は、もう癖でして。兄貴たちが何度か、敬語を抜けさせようと奮闘してくださったのですが、それでも直らずじまいでした」
礼儀作法を教えた時のように、砕けた話し方を教える珍妙な授業を、山内はもちろん中谷ですら大真面目な顔で志乃にしていたのだが、いざ話すとやはり敬語になってしまうのだった。それだけ、丁寧な話し方は志乃に染み付いている。
「それはまた、根深い。……あ。でも、敬称は? 頑張れば外せるとか、ない?」
「うーん、どうでしょう。試したことが無いので」
「それなら試してみましょう。まずは私の名前を呼び捨てに。次は芳親の名前を。志乃が私のことだけ呼び捨てにしていたら、きっと不機嫌になりますから、あの子」
一瞬、茉白の表情が、見覚えのある影と重なる。それが志鶴の、穏やかな艶笑と思い出すと、志乃はハッと目を見開いた。
顔が赤くなる気配はなかったけれど、胸の中身を全部、掴まれたような感じがする。頭が記憶を引っ張り出し、出立の前に志鶴と交わしたやり取りを蘇らせる。芳親を「あの子」呼んだ茉白は、志乃の問いに返された志鶴の笑みに、よく似た雰囲気をしていた。
恋そのものを知らず、興味もない志乃は、春や夏と同じ色をした話に胸をときめかせることもない。けれど、誰かに恋をしている人の微笑には吸い寄せられてしまう。
どうしてなのだろう、と。内心で志乃は首を傾げた。それほどまでに、恋というものは強力なのだろうか。それとも、自分が気付いていないだけで、恋について何か思うところがあるのだろうか。
「……ん? あれ、志乃?」
「あ。失礼しました、別のことを考えてしまって」
「そっか、まあ、そういうこともあるよね。それじゃあ早速、呼び捨ての練習しようか」
「はい。ご指導よろしくお願い致します」
仰々しいなぁ、もう。と笑う茉白は、志乃が何を考えていたのか、深く詮索する気は無いらしい。何となく――本当に、何となく――訊かれたら困る、とぼんやり思っていた志乃は、小さく息を吐いた。息に乗っかったのか、考えがするりと頭から抜け落ちる。
空になった志乃の頭は、呼び捨て練習への集中が埋め尽くした。自分の声に、茉白のような親しみが籠っているのかどうかは分からなかったけれど、名を呼ばれてくすぐったそうに笑う友人を見て、何だか志乃も、胸からくすぐったさが広がっていくような心地を味わった。
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