第六章 若鶴

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【五、二通りの夜】  日が暮れ、時刻が六ツ半を数えると、召集を掛けられた一部が御殿(ごてん)に集結した。昼間には庭を望めた大広間に、直武一行、兼久とその直臣三名、そして、星永家が率いる橙路(とうじ)府の面々――晴成と宏実、静も含む――計十六名が揃う。  各集団は長を最前にして固まり、三つ巴のように相対している。その中で最初に口を開いたのは、橙路側の長、星永靖成(やすなり)だった。 「よくぞお越しくださった、麗部直武ご一行。此度(こたび)は、橙路府逢松(あいまつ)郡の危機に助太刀いただけること、厚くお礼申し上げる」  藍色の髪と目を持ち、顔立ちこそ晴成と似通っている靖成だが、雰囲気はまるで違っている。晴成があらゆる場所を駆ける若い牡鹿(おじか)なら、靖成は長く森で生き抜いてきた牡鹿のような、聡明さと存在感を持っている。 「とんでもない。貴殿こそ、我々に猶予(ゆうよ)を与えてくれたと聞きました。礼を申し上げるのは、こちらも同じこと。お心遣い、誠に感謝いたします」  加えて、返礼した直武のような、老成の静けさも持ち合わせていた。とっくに成人しているとはいえ、靖成も若いことに変わりはないのに。 「さて、お顔合わせはそれくらいでよろしいですか、お二方」 「ああ。時間を頂いて相すまぬ、兼久殿。進めてくだされ」  表情や声音が大して変わらない靖成だったが、友好的に笑いかける兼久には、いくらか空気を和らげているようだった。長く滞在するとあって、信頼関係が築けているのだろう。 「改めてご紹介いたします。こちらは四大武家が一角、麗部(うらべ)家の当主、麗部直武殿。斜め後ろに控えておりますのが、四大補佐家が一角、産形家の産形紀定。さらに、後ろに控えているうち我々側におりますのが拙の義弟、境田芳親。そして、橙路府の皆様側におりますのが、人妖兵の花居志乃にございます」  紹介を受ける度、先の三人が一礼していたため、志乃も頭を下げた。晴成たち見知った相手は微笑し、靖成は返礼をしてくれたのだが、残る四人の顔知らぬ人々は、見定めるように志乃を(にら)んでいる。  彼らの視線には憶えがあった。「こいつが音に聞く強者の妖雛?」と(いぶか)しみ、女であることを怪しみ、ある時は軽蔑や警戒も抱く夜蝶街のお客たちと同じだ。名のある家の出ではないことも、彼らの眉間に(しわ)を寄せている一因だろう。  だが、どういった相手であれ、他者には笑みを返すのが常の志乃は、いつもの通りにっこりと笑ってみせた。対する反応が芳しくないことは予想通りのため、気にしない。 「それでは、棚盤山(たなざらやま)に棲む(いたち)の討伐作戦について、情報共有を行います」  進行役を務める兼久も気にせず、(よど)みない口調を変えずに続ける。 「まず、敵について。討伐対象は鼬ですが、その背後には名前持ちの鬼、利毒が関わっており、かの鬼も鼬の拠点に滞在しています。今までは可能性としていましたが、利毒からご丁寧に手紙が送られてきましたので、待ち構えていることが確定いたしました」  つい、と兼久が視線を後ろへ向け、宗典を見る。視線を受けた凶相の術師は、小さな袋と紙を持って進み出た。 「利毒は蟲を使役することで知られている鬼です。今は特に蜘蛛(くも)を使っているようで、蜘蛛を通じて鼬を操ったり、蜘蛛そのものを攻防の手段として用いたりなど、積極的な行動が目立っております」  説明の間に、宗典は紙を敷くと、その上に袋の中身を撒く。果たしてそれは、小さな蜘蛛たちの死骸だった。 「これは、襲撃してきた鼬の(うなじ)に付いていた蜘蛛でございます。沢綿島に現れた鼬にも、同様の蜘蛛が付いていたとの報告を頂いております。蜘蛛についての詳細は、瀧の方から説明をさせていただきます」  流れるように、語り手が兼久から宗典へと変わった。普段の口調とは全く違う真剣な声音が、隙なく言葉を紡ぎ出す。 「この蜘蛛には、二つの仕込みがありました。一つは利毒が調合した毒。この毒を体内に打ち込まれると、徐々に内臓が(むしば)まれて(もろ)くなり、体表から出血も始まります。さらに、幻覚や幻聴、精神の高揚による凶暴化など、心身共に症状が表れます。若鶴に現れた鼬にも、沢綿島に現れた鼬にも、同様の症状が見られたと報告されています」  毒の説明を疑う者は、この場にいなかった。皆、凶暴化した鼬の姿を目の当たりにしている。だが、多くが表情をわずかに歪めている。 「もう一つは、呪詛です」  努めて無表情を保つ宗典が続けた言葉に、さらに顔を歪ませていく者が続出した。 「呪詛は、鼬に敵意や殺意を植え付け、操るために仕込まれていたと思われます。また、鼬に生じた怨恨(えんこん)を手に入れるための仕掛けも施されており、それらはすべて、利毒の手に渡ったかと。  利毒は、呼び名に『毒』とある通り、毒物に関する研究を行っている鬼です。その毒には呪詛の類も含まれています。鼬と、彼らに付けられていたこれらの小蜘蛛は、今回用いられた毒と呪詛の効果を実証するために使われたと思われます。加えて、鼬から新たに怨恨を収集するためにも」 「――何度聞いても、外道の所業よ」  役目を終えた宗典が、小蜘蛛を仕舞って後退するのと入れ替わるように、橙路府側の男が低い声を零した。他に言葉を発する者はいないが、思うことは同じである。 「利毒が何故、鼬を研究に巻き込んだのかは不明ですが、協力者がいると思われます。しかしながら、その協力者がこちらに姿を現す可能性は低いため、これについては割愛いたします」  再び、進行は兼久に(ゆだ)ねられた。 「未だ利毒の蜘蛛を付けられた鼬と、利毒が使役する蜘蛛。これらが今回の討伐対象であり、敵です。彼らを討つためには、幽世(かくりよ)の棚盤山にある鼬の拠点に攻め込む必要があります。この作戦についての確認に移ってもよろしいですか?」  首肯、あるいは沈黙による応答がなされ、語りが再開された。 「現状、我々が選択すべきは、攻城戦であるという結論が出ております。鼬らは利毒の支配下にあり、その利毒は自陣から動かない性格をしているため、こちらから仕掛ける他ありません。とはいえ、作戦決行の前日、こちらの隙を狙って仕掛けてくる可能性も捨てきれませんので、油断は出来ませんが」 「色護衆(しきごしゅう)が来てからの敵襲は一度のみと、天巫女姫が予知なさっておられる」  先ほど声を零した男とは、別の男が意見した。(たたず)まいこそ静かだが、声や視線には(とげ)が潜んでいる。 「星永の巫女姫が予知を外すことは無い。貴殿らは、まだ疑念をお持ちか」 「まさか。予知の精密さは、既に証明してくださいましたでしょう。しかし、念には念を入れるべきです。慢心を捨てて初めて、完璧が成り立つ土台ができるのですから」  にこりと笑む兼久に、意見した男は(いさぎよ)く謝罪して頭を下げた。けれど、剣呑さは消えていない。はびこる鉄葎(かなむぐら)のような雰囲気は、橙路側の名も知れぬ四人の身にずっと(まと)われている。  協力関係こそ結ばれているが、彼らには〈征北(せいほく)〉の歴史――色護衆の背後にある洛都(らくと)、すなわち彩鱗国(いろこのくに)の中央となった勢力に敗北し、下された歴史がある。物の怪という、妖怪とすら共通の脅威がありながら、人同士が争っていた時代から数百の時が経っても、根深く残り消えない事実だ。  無論、今は関係のない話題である。兼久は言葉にこそしなかったが、「気を取り直して」といった風な顔で口を開く。 「では、作戦についてご説明させていただきます――」  ***  永劫(えいごう)の夜が覆う幽世。月光が降り注ぎ、蒼黒(あおぐろ)く沈黙している山々に、新しく仲間入りした山があった。名を棚盤山というそこは、人間の暦でいう今年の卯月から、明かりを灯さなくなっている。  棚盤山を照らしていたのは、山の中腹を拠点に棲んでいた鼬の一団だった。風尾弥重郎を襲名する(かしら)に率いられていた彼らの姿は、無惨に変わり果てている。周囲の山々にも、人間の真似事で造られた弥重郎の屋敷にも、正常な意識を保っているものはいない。  ……いや、一匹だけ。屋敷の部位に含まれる、懸造(かけづく)りの舞台に生き残りがいた。普通の鼬よりはるかに大きなその一匹は、しかし月下に晒された舞台に身を横たえ、(いまし)められている。青白い光に照らし出された体には、いくつもの生々しい傷が刻まれ、(いか)めしい縄が容赦なく食い込んでいた。 「ここから眺める月は格別なのに、見ないとは勿体(もったい)ないことをなさる」  何の前触れもなく、男でも女でもない声が落ちてきて、鼬はそれまで閉じっぱなしだった目を開ける。誰もいなかった手すりの上に、忽然(こつぜん)と現れた人型のモノが腰かけていた。 「ンフフ、ワタクシとはもう談笑してくださいませんか。それとも、そんな気力も残っておりませんか」  梅紫(うめむらさき)の目を細め、ニタニタ笑う人型のモノ。性別が無い、利毒という名のそれは、側頭(そくとう)から天に伸びる(いびつ)な角を二本生やしている。頭には女物の小袖を(かつ)いでいたが、落ちないよう、角に紐で(くく)り付けていた。 「……(いや)しきモノと、談笑など、した覚えは、ない」 「アハハ、そうでした。笑うのはワタクシばかりでございました。若頭(わかがしら)殿はニコリとも笑ってくださいませぬ」  話し方も笑い方もいちいち(かん)に障る利毒に、鼬は辟易(へきえき)する気も失せていた。だが、(いきどお)りだけは絶えず抱き、(くすぶ)らせている。 「せめて最後、もう一度笑みを見てみたかったものです。最近の若頭殿は嘲笑すら零しませぬ。それの何と寂しいこと、悲しいこと!」  よよよ、と顔を覆うも、利毒はすぐにニタニタ笑いを取り戻して語る。 「ワタクシ、誰かの笑顔がとても好きでして。ええ、それはもう大好物でして。微笑まれ続けることも好きですし、勿体なさを抱えながら、絶望へと一転させることも好きなのでございます」  初めて聞く話ではなく、何度も繰り返し聞かされた話だった。外道と(ののし)る声もあったが、その声の主たる同胞はもういない。 「しかし……ああ、何ということ。どうやらワタクシ、若頭殿をお待たせしすぎてしまったようで。まことに申し訳ありませぬ。貴殿の笑声(しょうせい)が美しかった故、勿体ぶっておりましたが、もはやそれすらお聞かせ下さらぬとは」 「……(あざけ)りが、意味をなさぬなら、この口が、弧を描くことなど、ない」 「ああ、アア、そんなことを仰いなさらないでくださいませ! せっかくこうして、研究や目的より私情を通し、最後まで貴殿を残しておいたというのに。我が(うるわ)しき主人の笑みが無き今、笑いかけてくださるのは貴殿だけというのに」  大仰に嘆いていた利毒だが、「あああ、ですが」と、これまた大仰に月を見上げる。 「そうでした、ええ、そうでしたとも! 音に聞く妖雛、花居志乃殿! アア、かの雷雅殿の娘という御方が、こちらへいらっしゃるのでした。少しばかり失礼を致しますが、雷雅殿から許可を得ておりますし……ンフフ、談笑するのが楽しみです」  被いた小袖と濃紫(こむらさき)の長髪を振り乱し、直垂と長袴を纏った身を抱きしめながら、利毒は楽しげに(もだ)えた。ところが、唐突に静止したかと思うと、(ふところ)から何本か(たすき)を取り出し、粛々(しゅくしゅく)と袖や(すそ)(まく)っていく。急に狂乱を鎮めた様子は、取り憑かれたかのように不気味だった。 「ハアァ……とんだ失態をお見せいたしました、お許しくださいませ。大抵の鬼は、気が(たかぶ)ると我を忘れてしまいます。尤も、ワタクシ、まだ昂っているのですが」  歪な弧を描く口から、牙が覗く。棚盤山へやって来た時にも浮かべていた笑みだ。身なりも素振りも奇怪な鬼は、今も同じ顔で鼬を蹂躙(じゅうりん)し続けている。 「貴殿の妖力はほとんど、縄に吸いつくされてしまった頃合いでしょう。アア、懐かしい。ワタクシの研究が作り上げたこの縄ですら、最初は貴殿を抑えきれなかった。だからこそ、こうして申し訳なくも傷つける羽目になったのですが」  しなやかな手が、硬い縄をするする解いていく。また新しく襷を取り出した利毒は、縄を綺麗にまとめるため、鼬に背を向けた。小袖と長髪に覆われた、無防備で、相手の気力を完全に奪ったと油断している背を。  ――そんな隙が訪れる時を、鼬はずっと待ち構えていた。  覚悟と胸中で高らかに叫び、鼬は最後まで残していた力を振り絞って踊りかかる。が、後ろから鼬の体を貫くモノがいた。 「ああ、申し訳ございません。若頭殿にお見せしたかったものがあったのですが、すっかり失念しておりました」  先ほどまでの、(しゃく)に障るような色が全くなくなった声を出しながら、利毒は振り返る。鬼の背は、(うめ)き代わりに吐き出された鼬の血に塗り潰されていたが、全く気にしていないらしい。表情も声音も別人のように、怖気(おぞけ)がするほど穏やかに()いでいる。 「ここで作った蜘蛛の中で、現状、それは特に出来が良いものでして、重宝しているのですよ。何匹かを組み合わせましたので、色合いもほら、綺麗でございましょう?」  うつ伏せに倒れた鼬は、丁寧に仰向けさせられた。(いつく)しみを錯覚させるような利毒の手は、先ほど鼬の巨躯(きょく)を貫いた蜘蛛の足や、胴体を撫で擦る。消えかけの意識を何とか起こしていた鼬は、蜘蛛を覆っている色、すべての正体に気付いた。  蜘蛛の胴体や足を覆う毛皮は、彼の身内のものだ。利毒を外道と罵った同胞の色もある。おそらく中身も、そのまま蜘蛛の体内を構成するために使われたのだろう。  事実をひどく冷静に飲み込んでいくにつれ、燻っていた憎悪の炎が燃え上がる。けれども、鼬は発声すらできなかった。彼の体は、とっくに限界を迎えている。 「若頭殿は、今の風尾弥重郎に次いで強い妖獣でございますれば。これを作った時の余りと組み合わせれば、素晴らしい出来になります。いえ、させてみせましょう。この利毒の腕にかけて」  まだ、利毒は穏やかだった。自信と恍惚(こうこつ)が滲む紅い頬も、微笑を(たた)える口元も。男女どちらかも分からないのに、笑みも紡ぐ声も色香に満ちた鬼の姿は、おぞましくも美しい。  鼬は――弥重郎を待ち続けた跡継ぎは、憎悪しか抱けない美顔を睨みながら、視界を閉ざす。動かなくなった彼の上に、笑声の欠片(かけら)が零れ落ちた。
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