第六章 若鶴

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【六、ささやかな亀裂】  天巫女姫(あまみこひめ)こと静の予知通り、直武一行の休息のための一日は平穏無事に終わり、討伐の日はあっさりとやってきた。  卯月二十日あまり七日、薄闇が抜けきっていない明六ツ。志乃は隣で眠る茉白を起こさないよう身支度を整え、部屋を出た。片手には、いずれ妖刀に至る妖魂器(ようこんき)、団史郎から渡された刀を携えて。  辻川から(はなむけ)として贈られた短刀に加え、新たに携えた無名の刀を持って向かうのは、武器を思う存分振るえる広めの庭。清澄な空気を(たた)えるそこに、先客はいないと思われたが。 「あら。おはよう、志乃ちゃん」  柔らかく相手を覆う、衣のような声の持ち主がいた。すらりとした立ち姿の持ち主でもある彼女は、木下喜千代。女性隊員の頭であり、兼久が信頼を置く副官だった。 「おはようございます、喜千代さん。邪魔をしてしまいましたか?」 「まさか。でも、ちょっと驚いたな。私と同じくらい早起きして、刀を振るいに来る子はいなかったから」  朝日の強い光が無くても、喜千代の笑顔はよく見えた。すっきりとした顔立ちと、艶のある直毛の短髪が、彼女の爽やかさを引き立てている。 「そうだ、もし良かったら、私と手合わせしない? 芳親くんの強さは知ってるけど、貴女の実力は分からないから、興味があるの」 「そういうことでしたら、ぜひ。喜千代さんは努力家で、お強いと聞いておりましたので」 「んー、努力家なのは認めるけど、妖雛相手に強いって言えるほどの自信は、あんまり無いかな」  庭に降りるための階段に刀を置くと、木刀が投げて寄越される。夜蝶街(やちょうがい)でもよくある渡し方だったため、志乃は当然のように受け取った。  喜千代は既に構えを取っており、いつでも来いと言外に伝えている。志乃も構えを取りかけたが、「あ」と一つ声を(こぼ)した。 「始める前に、ご注意を。俺は刀で戦っていても、手や足が出てしまうことがあるので、殴打や蹴りが出てしまうかもしれません。もちろん気を付けますが、喜千代さんにも上手く避けていただけると助かります」 「了解。そういう子は意外といるから、そこまで心配しなくても大丈夫よ。戦場なんて、持つ物すべてを振るってでも切り抜ける死地なんだし、実戦に近くていいと思う」  快諾に賛同まで受けたところで、志乃も改めて構えを取った。一呼吸おいて、「では」と先手を取る。  守遣兵(しゅけんへい)とは言え、女性の喜千代がどれほどの力量を持っているかは分からない。まずは小手調べと一刀を振るったが、容易く防がれた。 「……。志乃ちゃん、女の子相手に戦った経験、無い?」 「ええ、はい。机上や盤上でならあるのですが」 「まあ、そっか。そうでもなきゃ、こんな弱い打ち込みしてこないよね」  交差した刀越しに、喜千代は苦笑した。しょうがないね、とでも言いそうな様子だが、志乃が振るった「小手調べ」は、成人男性を後ずさりさせるくらいの膂力(りょりょく)で押し込まれている。その時点で全く後退していない喜千代は、(まご)うことなき実力者だ。 「じゃ、手加減はそんなに要らないってこと、教えてあげる」  笑みを不敵なものに変えるなり、喜千代は刀を振り抜く。その力を利用して、志乃は大きく後退したが、喜千代はすぐさま間合いを詰めてきた。先ほど志乃が振るった動きとほとんど同じ一刀が、防ぐ木刀に打ち込まれ、鈍くも派手な音を立てる。 「どう? 結構、要らなそうでしょ、手加減」 「あははぁ、そのようで」  喜千代がぶつけてくる力は、男性のそれと遜色ないどころか、上回っている。志乃はすぐさま認識を改め、膂力も改めた。  同じ場に上がった二人の剣舞が、幕を開ける。  突き、振り払い、避けて、共に一歩も譲らない。朝稽古と呼ぶには激しすぎながら、柔らかな受け流しや回避も含む刀のぶつかり合いは、傍から見れば舞踏のようにも見えた。と言っても、舞と称するには苛烈(かれつ)で、躍動に満ちていたが。 「うーん」  渦中で重く力強く木刀を振るっていた志乃に、戸惑うような表情が浮かんだ。喜千代は素早く気付き、一旦攻撃を止める。 「何か、体に違和感でもあった?」 「ああ、いえ。そうではなく。喜千代さんは、俺が喧嘩をしてきた方々とは、少し違うものをお持ちのようでしたので」 「違うもの? あー、もしかして」  心当たりはあったようで、喜千代は志乃の方へ歩み寄るなり、木刀を差し出した。戦闘を再開するわけではないため、切っ先は下に向けている。 「志乃ちゃん、木刀を重ねて押してみてくれる? 力、思いっきり入れていいから」 「分かりましたぁ。では失礼して」  切っ先を下に向け、言われた通り重ねた木刀を押し込む。ぐ、と力をかけたその時、急に支えを取られたかのような不安定さが襲ってきた。だが、志乃は目を輝かせる。 「おぉ! これです、この感覚です!」 「やっぱり。これ体感するの初めてなのか。芳親くんは……あんまり使わないか。紀定くんあたりと手合わせした時とか、こういう感じ無かった?」 「紀定さんとは、刀を交えたことがありませんねぇ。沢綿島(さわたじま)に滞在していた時は、もっぱら妙術の扱い方だったり、体に慣れたりといった訓練をしておりましたので。紀定さんはその時も相手を務めてくださいましたが、刀ではなく苦無ですとか、暗器を使っていらっしゃいました」  思い出してみれば、という風に語る志乃に、「そっかぁ」と喜千代は頭を掻いた。 「んーっと……志乃ちゃんは、守遣兵が使えないといけない術については、知ってる?」 「はい。それは紀定さんが使っていらっしゃるところを見ておりますし、麗部(うらべ)の旦那や辻川の親方――俺を育ててくださった方です――が使っていらっしゃるのも、何度か」 「じゃあ、私たちが体や武器に呪力を纏わせることで、強度を高めていることも分かるかな」 「それは俺も教わりましたぁ。夜蝶街での物の怪討伐の後に、でしたが」  守遣兵が相手にするのは、人間を圧倒できる存在、鍛え抜かれた屈強な兵士でも敵わないことがある化け物だ。そのため、呪術を行使できるという条件は、前提として掲げられている。 「呪力の循環回路を通して、体全体に呪力の壁を(まと)わせる防術。攻撃の際、自分の体や武器に呪力を集中させることによって、威力を増幅させる攻術。この二つのことで合っておりますでしょうか?」 「そうそう。さっき私がやったのは、防術に回していた呪力を弱めて、掛かっていた力を逃がし逸らすってこと。例えるなら、相手が思いっきり押してる壁の支えを抜き取る、って感じ。受けきれない攻撃を回避したり、相手の体勢を崩したりすることを目的によく使うの」  ほおー、と、志乃はどこか間が抜けた相槌を打ちながら、確かに芳親は使わないだろうと胸中で頷いた。力量が同等ということもあるが、それ以前に、芳親は志乃に力の出し惜しみをしないし、志乃も芳親相手なら同じだ。加えて二人には、白熱してくると楽しさを優先し、頭を使わなくなるという欠点もある。 「ところで志乃ちゃん。話が変わっちゃうんだけど、さっき言ってた辻川の親方って、辻川忠彦のこと?」 「親方のことをご存じなのですか?」  咄嗟(とっさ)に訊き返した志乃だが、夜蝶街での物の怪討伐に赴いてきた守遣兵、井本輝幸(てるゆき)が辻川の知古だったことを思い出した。けれども、辻川と同僚だったという井本はともかく、兄貴分たちと同じか少し年下くらいだろう喜千代が知っているというのは、意外な事実に他ならない。  しかし、志乃の驚愕など置いて、喜千代は「そりゃあもう、ご存知だよ」と続ける。 「辻川忠彦の実力は、今の守遣兵と比べても(けた)違いって言われてるもの。物の怪や、敵に回った妖怪の討伐だって、すごく沢山こなしてるし。志乃ちゃんと同年代の守遣兵でも、辻川忠彦を知らない子はいないと思う。だから、ちょっと不思議に思って」 「不思議、ですか? 俺にとっては、親方がそれほどまでの実力者だったことが不思議なのですが」  ぱちぱちと目を瞬かせる志乃に、喜千代は「いや、それは志乃ちゃんが知らな過ぎるだけ」と苦笑する。しかし、凛々しくも優しい喜千代の顔は、(ほの)かに真剣みを帯びた表情に覆われた。 「志乃ちゃん、そんな強い人に育ててもらったんでしょう。それなのに、守遣兵の攻防術について教えて貰ったのは、夜蝶街に現れた物の怪が討伐された後。順序が逆じゃない? 黄都(こうと)府内じゃなくたって、各府のどこにだって物の怪や、悪意を持った妖怪が現れる可能性はあるわ。いくら洛都(らくと)を離れた辻川忠彦でも、そこを警戒しないわけはないと思うの」 「あぁー、えぇと、その……攻防術の教授については、俺の失態が一つありまして」  今度は志乃が頭を掻いた。 「攻防術については、座学で知識を付けていたのですが、俺は無自覚に使えるようになっていたらしいのです。妖雛(ようすう)には珍しくないとのことでしたが、物の怪相手に加減を間違ってしまったようで、一撃で首を落とすとはいかず。親方からは『芳親が最初から、物の怪を弱いと評してしまったから油断したのだろう』とご指摘を受けまして。いやはや、反論の余地も無いと言いますか」  さらに芳親がそう言った後、彼が物の怪たちをいとも簡単に倒してしまった光景を見たこともある。入ってくる情報が情報だったとはいえ、物の怪を見くびったことは事実のため、やはり志乃にとっては反省すべきことなのだが。 「結局、芳親に強い呪力を叩きこんでもらうことで、攻術を最大限に駆使して、物の怪を討伐しました――という顛末を報告したところ、盛大に呆れられまして。やはり一からと、稽古をつけていただくこととなったのです」 「なるほどね。確かに、人妖兵(じんようへい)になった後で、一から稽古をつけられている人もいるわ。私の思慮不足ね、ごめんなさい」  謝られると思っていなかった志乃は、「にぇっ!?」と奇声を上げた。慌てて、気にしなくてもいい旨を(まく)し立てた後、胸を撫で下ろす。  落ち着いたところで、薄いながらに抱いていた辻川の過去への興味が、首をもたげた。 「そういえば、喜千代さん。俺からもお尋ねしてよろしいでしょうか」 「うん、なあに?」 「辻川の親方を知らなすぎるとのご指摘なのですが。親方は洛都でのことですとか、色護衆(しきごしゅう)に入って、守遣兵としてご活躍なさっていただろう時のことを、全くお話ししてくださらなかったのです。良ければ、喜千代さんが知っている範囲で、親方の武勇伝をお聞かせいただけませんか」  手合わせはもう終わりだろうから、朝食の時刻まで時間を潰そう。辻川のことを知らなすぎることは、以前からほんの少し気にしていたし。志乃の頭に浮んだのは、そういう、至って普通のことばかりだった。が、喜千代の表情を見た瞬間、それらは煙のように消え失せていく。  爽やかな笑みが似合う彼女の顔は、凍りついていた。一瞬だったのだろうが、その表情はじっくりと焼き付けられる。喜千代の表情ごと、時間が止まったような気さえさせるほどに。 「……あ。ごめんね、志乃ちゃん。えっと……辻川忠彦については、色々、当事者じゃないと話しにくいことがあって……ごめんなさい。興味を持たせるようなことを言っておいて、こんな返しをしてしまって」 「いえ、そんな」  ――辻川の親方は、桁違いの実力を持っているのではないのですか。  さも常識のように語られた、志乃の知らないこと。喜千代の声で再生される、いかにも誇れそうな事実が、何度も頭に響き渡っては(しぼ)み落ちていく。今も懐に抱く短刀を贈ってくれた、両頬に傷を持つ辻川の姿が、記憶に刻まれている姿全てが、疾走する馬のように駆け抜けて消えていった。  そもそも、と。喜千代の声も、辻川の姿も消えた虚空に、志乃自身の声がこだまする。  ――最高峰の実力者として、尊敬や憧れを持っているのなら。喜千代さんは親方を、突き放すように呼んだりしないはずですよ。 「あ」  声の(かたまり)を吐き出したかと思いきや、実際は、ほぼ吐息のようなか細い声が漏れただけだった。  うっすらと、感じていたことだ。気のせいだと片付けたはずのそれは、何事も無かったかのように居座り、体中に行き渡っていく。 「こちらこそ、すみません。よく考えてみれば、親方も何か思うことがおありで、だからこそ話すのを避けていらっしゃったのかもしれませんねぇ。思慮が足りないのは、俺も同じだったようです」  ――何でしょう、これ。  体内に何か、(にご)った冷水のようなものが満ちていくような。その出所は、(うず)いているような胸の辺りにありそうで、今すぐにでも抑えたくなる。心側がこんな状態なのに、自分の面側は、いつもの通りへらへら暢気(のんき)な振る舞いを演じている。  自分に何が起こっているのか、分からない。喜千代に教えてほしいけれど、彼女に言ってはいけないような、言いたくないような気がする。何より、どう伝えればいいのか分からない。  このまま、立ち尽くしていることしかできないのかと思った矢先。パタパタとこちらへ向かってくる足音が聞こえてきた。 「志乃! 見つけた、何処に行ったかと思ったよ。あ、喜千代さんも、おはようございます」 「茉白」  すみません、と志乃が(つむ)ぐ間に、茉白は放置されていた刀を拾い上げ、庭に降りてくる。 「朝ご飯、みんなで用意してますよ。志乃も喜千代さんも、お手伝いしてもらわなくちゃ」 「そう、だね。ごめんなさい、私としたことが。元はと言えば、私が志乃ちゃんと手合わせしたいって言っちゃったものね」  喜千代もどうすればいいのか分からなかったのか、答える声に硬さが残っていた。彼女に似合わない音色に、やはり言わなくて良かったと、志乃は自分でも謎の安堵を覚える。 「それを言うなら、応じた俺も悪いですよ。すみません、茉白」 「謝ってもらうほどじゃありません。さ、行きましょ、二人とも」  にっこりと笑う茉白に手を引かれ、二人は揃って足を踏み出す。合わせるように笑顔を浮かべる志乃の胸中は、しかし晴れないまま、黒々とした叢雲(むらくも)が湧き出し続けていた。
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