第六章 若鶴

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【七、老と若】  兼久隊に貸し出された屋敷と、橙路(とうじ)府側が使っている屋敷とはまた別の武家屋敷。結界が何重にも張られたそこには、棚盤山(たなざらやま)の頭として君臨していた風尾弥重郎がいる。  若鶴城に近く、比較的大きなこの屋敷には、弥重郎が楽に巨体を横たえられる大広間があった。至る所に施された装飾が美しかった広間は、術が染み込んだ紙に覆い尽くされ、天井からは同じく術が染み込んだ紐や、掛けられた術具が釣り下がっている。  守護を目的とした術と、弥重郎の回復を促進させる治癒の術が入り混じり、薬の匂いも漂う病室。徹底的に外部からの接触を弾く空間へ、兼久は静かにやって来た。 『……境田の、小僧か』  兼久が声を掛ける前に、巨大な(いたち)(かす)れた声を発した。見事だった黄金(こがね)の毛並みは、部屋と同じく治癒の術が染み込んだ布や紙に包まれ、今は見られない。けれども、威厳の光を絶えず灯す焦げ茶の双眸は、危うげながら見えている。  いつものように臆することなく、兼久は弥重郎の目先に正座した。 「ええ、境田兼久です。おはようございます」 『無駄話は不要。……()くのであろう』  言いづらい話題を突かれても、兼久は動じない。話すのはこれで五回目程度だが、老いた鼬の気質はじゅうぶん分かっていた。 「貴殿の領土に踏み込むご無礼、何卒(なにとぞ)お許し願います」 『ハ。何を今さら。(わし)は既に許した。お前も、星永の小僧も。山を取り戻してくれるのなら、誰でも構わぬ。……空っぽだがな』  小さな音に切り裂かれた胸の痛みを無視して、兼久は微笑を貫いていた。  後継たちの尽力により、弥重郎は若い鼬や弱い鼬らを連れて山を脱出した。何故、老いている弥重郎の方が退いたかと言えば、利毒が相手を操ることができると早々に見抜けていたから。もし、古強者(ふるつわもの)である弥重郎が敵に回っていれば、事態はもっと深刻になっていたかもしれない。  棚盤山に残り戦った鼬らは、残念ながら、静の予知で助からないと分かっている。何とか助け出せた鼬も僅かながらいるが、弥重郎と共に逃げてきた鼬らも含め、変貌した仲間たちの凶行を目の当たりにした彼らの心身は壊れかけだ。これから回復させるにしても、どれほどの時間がかかるのか。 『話は終わりだ、儂は寝る。あの白い……茉白、と言ったか。あの娘を含め、儂の手当てに尽力してくれた者たちに、礼を伝えてくれ。この老いぼれを、よくぞ生かしてくれたと』 「はい、もちろん。それでは」  すすり泣く声を頭の片隅で思い返しながらも、兼久は手短な挨拶とお辞儀をこなす。来た時と同様、静かな所作で立ち上がりもした。 『小僧』  しかし、数歩先で呼び止められ、肩越しに弥重郎へ目を向ける。彼は既に目を閉じていたため、視線は合わなかったが、 『頼んだ』 「はい。お任せを」  真っすぐこちらを見ていることは、痛いくらいに感じられた。  返答に迷わず、贈る言葉は短く。弥重郎は終始、簡潔なやり取りを望んだ。当初、彼が会話すら困難な状態だった名残でもあり、彼の口数が元から多い方ではなかった故でもあった。  足音をなるべく立てず、大広間から離れる。弥重郎の寝息すら押し消されそうな静謐は、触れていられないほど冷たく、寒い。  ――必ず、貴殿に温かな日々を。それを迎え入れるいつかのために、持てる全てを尽くす。  口に出したら、『ハ、生意気なことを』と笑われるのだろうと思って、兼久は少しだけ、本心から微笑した。  弥重郎を治癒している屋敷から、滞在している屋敷へ戻って来た彼を迎えたのは、何故か門前に立っていた直武だった。 「やあ、兼久君。おかえり」 「ただいま戻りました、先生。何をなさってるんです?」 「喜千代君が訪ねてきてね。少し相談に乗ったんだ」  (にご)った「え」が出ると共に、兼久の顔が引きつった。 「……僕、何か、やり忘れてたこと、アリマシタカ」 「大丈夫、任務のことじゃないよ。喜千代君、失言をしてしまったらしくてね。志乃君に辻川君のことを()らしかけてしまって、後味が悪いことになったと。志乃君は、隠してはいたけど動揺していたようだ」 「あ、ああー、それは。何とも言えない、ですね……」  話題というのは取り留めなく変わっていくものだ。辻川忠彦についての話題が出てきても、何ら不思議ではないだろう。まして、志乃は彼の元で育ったのだから、どんな拍子(ひょうし)に触れるか分かったものではない。 「いつか私から話さないといけないことだったし、ちょうどいいからと言っておいたよ」 「それはそれで返しに困りますけど」 「まあ、当事者でも、触れるには気を付けないといけない話題だからね」  ふう、と息をつく直武は微笑している。けれども、隠しきれていない哀情が、影にはみ出ていた。 「少し心配なのは、それが志乃君の一時的な弱点にならないか、だね。すぐ話せるようなことじゃないから、利毒に見抜かれて指摘されたら、悪い方向に転ぶかもしれない」 「それはあるでしょうね、確実に。そういうことには目敏(めざと)い鬼ですし。仮に、一対一で話をするような事態になったとしたら、間違いなく志乃ちゃんの方が負けます。心の成長はこれからなんて子は、利毒からしたらカモでしかありません」  至極冷静な分析に、直武からの反論はない。濁しはしたが、直武も完全に同意見だった。  人間に近付くことを目的とし、傍目に見ても徐々に歩み寄れている志乃や芳親にとって、精神的な弱点を突くことに長けた利毒はまごうことなき強敵。最初から、話をする余裕も与えず叩けるなら別だが、大人しくやられるような相手ではない。  が、それはこちらも同じこと。「でも」と兼久は笑う。 「先生は、たとえ悪い方へ転んでも、立て直せると考えている」 「もちろん。でも、その言い方はまだ易しいかな。もっと厳しく行かなきゃ。――何としても立て直させる。打撃を受けたまま()せっているようでは、私の余命が間に合わない」  返された笑みに、兼久の背筋がゾクリと震える。いつも慈愛に満ちている直武の顔が、我が子を谷底へ落とし、這い上がってくるのを見下ろす獅子のそれに変わっていた。彼から指導を受けた者なら、必ず目にする顔だ。  直武が持っている笑みは優しい。だが、稽古場で浮かべる笑みは挑発的なものばかりだ。それに臆することなく、闘争心を奮いつつも思考し、課題を達成できる者が、彼の元でより強くなれる。兼久も、直臣三人も、芳親もそうだった。  自分たちの列に、志乃も加わる。折れることもあるだろうが、彼女が打ちひしがれ、直武の前から去る姿は、兼久には想像がつかなかった。丁寧でゆったりした態度に隠れてこそいるが、彼女の闘争心も並ではない。でなければ、直武は厳しさなど見せない。 「志乃君には、友人も、兼久君たち先達もいる。引き上げるには十分だろう」 「あはは。期待されちゃったら、応えないわけにはいきませんね」 「期待なんてしなくても、君たちは望む通りの結果を出してくれるよ。強弱に関係なく、君たちは、志乃君に働きかけるべき言動を知っている」  何せ、私の試練を乗り越えてきたのだからね。と、言外に伝わってきた。おそらく、喜千代も同じことを言われただろう。  未だゾクゾクと、こそばゆく体を巡る高揚に、兼久は笑みを深める。自分が強くなっていくのは快感だが、他人が強くなっていく姿を見るのは更に気分が良い。  ――新たな強者は、もっと僕を高めてくれる。 「はあ。僕も結構な性格してるなぁ」  今までの会話からすると、何の脈絡もないような呟き。稽古場と戦場での彼を良く知る直武は、兼久が落としたそれを難なく拾い上げた。 「私は好きだよ。兼昌(かねまさ)そっくりで、だからこそ鍛えがいがあったもの」 「先生、好きなんて軽々しく言っちゃいけないんですよ。僕そういうの誤解する人間ですから」 「ごめんなさい、妻と息子がいるので」 「ヴッッ!! 真顔で丁寧に返さないでください、当然だけど何か傷つきます」  胸を押さえて情けなく抗議する兼久に、直武は平時の笑みと笑い声をかけた。  間違いなく飛躍させてくれるのに、こういう風に友達のようなやり取りができる師。父の旧友というところもあって、兼久は直武を慕っていた。――故にこそ、「私の余命が間に合わない」の一言が深く刺さったまま、ずっと抜けきらない。  旅人らしからぬ十徳(じっとく)姿の下は、物の怪から受けた呪詛に(むしば)まれている。次に会えば必ず仕留めると、こちらが倒されても道連れにすると刻まれたそれは、呪詛をかけた物の怪に会わずとも、あと一年以内に直武を殺してしまう。  意識しないようにすると、余計に(まと)わりついてくることは知っているため、兼久は(とげ)に触れないようにした。抜かなければ、噴き出してくるものもない。 「まあ、傷ついている暇なんて無いですけどね。夜が来れば任務が始まりますから、やれることはしっかりやらないと……可愛い義弟(おとうと)はもちろん、新しくできた可愛い後輩たちに、無様なところは見せられませんから」 「あれ。喜千代君は含まないの?」  ごん、と鈍い音が響く。屋敷に戻ろうと門をくぐりかけた兼久が、顔面を思いっきり門柱にぶつけた音だった。 「きっ、きき、きぃちゃんにも勿論、格好悪いところ見せられませんよそりゃあ。あっっったりまえじゃないですか」  額をさすりつつ、がくがく震える声で答える兼久は、芳親を前にした時と同じくらいみっともない。彼の一側面を担う優秀な好青年像は、好きな相手の前では目も当てられないほど(もろ)い欠点持ちでもあった。  宗典からポンコツ呼ばわりされる原因でもあるため、本人は直したいと思い、努力も一応しているが、改善の兆しは全く見えていない。戦場ではそうならないことだけが、ほとんど唯一の救いである。 「全くもう、からかわないでください」 「ごめんね。宗典君からまだ付き合っていないどころか、君から告白もしていないって聞いて、つい」 「何で傷に塩を塗りこむんですかぁ!?」  もう一度、ごめんねと謝る直武だが、晴れやかな笑顔に悪いと思っている色は無い。むしろ面白がっている。それが、いつもなら泣き寝入りする兼久に火を点けた。 「もおお! 怒りましたからね僕! 先生に喧嘩売ります!」 「うん、いいよ。受けて立とうじゃないか。……ところで、何で宗典君にはその勢いでいけないのかな」 「正直、先生より怖いからです! 色んな意味で!!」  やけくそ気味に叫んで、やけくそ気味に直武の腕を引っ張り、兼久は隊員たちが稽古場にしている庭へと歩いていく。結果は残念ながら、兼久が負けることになるのだが――今の彼は予測こそすれども、知るわけはなかった。
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