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次の日である。
アルテミスは今日の計画を実行すべくシアより早めに起きて着替え、鏡の前に立っていた。
犯人を追うには獣並みの嗅覚が必要になってくるわけだが、完全な人間の姿だと「少し普通のひとより鼻がいい」レベル。これで人ごみの中透明人間を追うのは不可能に近い。
しかし、耳と尻尾を出して人狼の姿になれば、そういう五感は一気に鋭くなる。狼と同じ、どんなささやかな香りも逃さない鼻を手に入れられるのだ。
匂いで追うなら、人狼と疑われないようにする確認は必須。よってアルテミスは今、鏡の前で確かめているのである。
深々とそのキャスケット帽を被り、さらにアッシュブルーのマントを羽織れば、耳と尻尾を出しても普通の姿となんら変わりはない。これなら、街で少しくらい人狼の姿をとっても問題なさそうだ。
一回くるんと回って確認し、よしと頷いて、数分後シアを起こしにかかる。
「シアちゃーーーん」
大声で吠えてぐらぐら揺さぶると、シアは「うう……」と唸る。容赦なく、アルテミスはシアに頭をぐりぐりと押し付けた。
どこからかココアも飛んできて、尻尾でシアの顔をはたく。
「おーーーきーーーてーーー」
「ギャッ、ギャッ」
「嫌……あと十時間……」
「ダメっ」
「ギャアッ」
十時間も寝たら日が暮れるだろ。
やいやいと騒ぎながらなんとかシアをたたき起こし身支度をさせて、朝食を食べたあとルティカに行く。
クレイマンの話によれば、土日はほぼ確実に犯行が起こるそうだ。それも、店が開いたばかりで人がそれなりに多い、しかしぶつかってしまうほど混んではいないような朝の時間が多いのだという。
今の時間帯はまさしくそれ。つまり、万引き犯が現れる確率が高い。
このタイミングを、アルテミスは獲物を伺う狼のごとく狙っていたのだ。
さて、まあまあ混んでいる街中をアルテミスはシアを引き連れて歩く。
目は覚めたとは言え、シアは眠そうだ。ココアを肩に乗せうつらうつらしている。
「うう……休日はとことん寝坊しようと思ってたのにぃ……」
「たたき起こしたのは悪いと思ってるけど、どっちにしても早く起きろって校則で決まってるよ」
アルテミスは目をあちこちに走らせながら答える。
アテナの校則その一。休日平日に関わらず寝坊をすべからず、である。
シアはどんよりとした空気をまとって零した。
「休日まで6時起ききっつ」
「そうなんだけどさ。退学とかもここあるから、頑張ろうよ」
アルテミスは励ますように言った。
普通、小中学校は義務教育なので退学はない。しかしこの名門校にはそういうのは関係ないのだそうだ。
たかが寝坊でも、積み重なれば懲戒処分になる。それは避けなくてはならないのだ。
そんな話をしながら、街の賑やかさにいい加減目が覚めてきたシアと街を歩いていると。
「!」
はっ、とアルテミスの足が止まった。
「え?どうしたの」
きょとんとするシアに「しーっ」と言って黙らせると、少し道の脇によけて一カ所を指差す。
その指の向こうには青年がいた。
ぼーっと突っ立っている、冴えない青年。どこか見覚えのあるその顔は。
「「カルントだ!」」
二人で囁く。
そこにいたのはなんという奇跡か、万引き犯のディンゴ・カルントその人であった。
「あ、アルテミス。見て見て」
じっと観察していると、何かに気づいたのかすっとシアも指を差す。
指差した先、その筋張った手にはお菓子が握られていた。蓮華色をした不思議な花の飴細工。
クレイマンの店に置いてある、クレオメの花だ。
これまた奇跡。二人は偶然、犯行直前のディンゴを見つけてしまったのである。
ここまでくれば、もうこの絶好のチャンスを逃すわけにはいかない。二人は息を潜め、カルントの様子を窺った。
彼はもちろんこの小さな二人に気づくわけもなく、路地裏に身を引っ込めて飴細工を口に放り込む。バリッという音が鋭くなった耳に届き、精巧な花が呆気なく砕けるのがわかった。
あんなに綺麗なのに、一口で噛み砕いてしまうだなんて。アルテミスはもったいない気持ちだった。けれど犯行は何度もやっているそうだから、お菓子に対する感動もないのだろうか。
そう思いながら静かに観察していた、そのときである。
「……!」
変化の訪れにアルテミスは思わず息を飲んだ。
しゃらん、と鈴のような音がして、透明なインクを頭からバケツでかけられたようにその姿が消え始めたのである。その消えゆく姿に相互するように、影も薄くなっていく。
これこそ、エルフの魔法の力。人間の魔法使いには難しいのであろう術。
そして、あっという間に彼の姿は消えてしまった。
「本当に消えちゃった……」
驚いたような声がシアの口から漏れる。
いよいよ勝負時。計画実行の時だ。
アルテミスは唇を引き締めた。シアの手を握る。
「追いかけるよ」
「えっ!?」
親友の思わぬ言葉にシアはぎょっと目を見開いた。ぶんぶんと首を振る。
「無理だよ!見えないもん!」
その訴えにアルテミスは瞳を鋭くした。
シアの言うとおり、もうどれだけ目を凝らそうとカルントの姿はない。人間に追うことは不可能だ。
しかし、人間でないアルテミスの鼻は強い潮の香りをしっかりと捕らえている。
「無理じゃないよ。わたしに任せて」
そう囁いて、アルテミスは動き出した潮の香りを追う。
「……何か考えがあるの」
シアは怪訝な顔でついてくる。
その強い香りに導かれるまま、アルテミスは歩を速めた。
姿を消そうが逃がさない。だって狼は執念深い生き物だ。
(絶対に捕まえてみせる……!)
口の中で、ガルルッと獣じみた唸り声が漏れる。
狼を敵に回すと痛い目に遭うこと。奴に教えてやろうではないか。
◇◇◇
香りを追って走ると案の定、その源は『ホウセンカ』の中へと入っていった。アルテミスは花に誘われる蝶のようにその中に入る。
シアはココアを放して中に続いた。
狭くはないとは言え街よりもずっと面積の小さい店の中では、強い香りを追うことなど造作もない。アルテミスはシアの手を放し、店内を注意深く駆ける。
姿を消したままうろうろしていたカルントだったが、やがてチョコレートが山積みになった籠の前で足を止めたらしく動きがなくなった。アルテミスは店内の散策をやめたと判断し、狼から一転猫のようにそっと近づく。
と。
チョコレートが一掴みふわっと持ち上がり、すっと消えた。
「!」
不自然な動き。
チョコレートを見えない手が掴んで、ポケットか何かに入れたのだ。
万引きの瞬間を今見たのだと確信したアルテミスは次は捕まえるべく息を殺してギリギリまで───手を伸ばせば触れられるまで近づく。これで丁度いいタイミングでその腕に触れ、声をかければ魔法が解ける。あとは、クレイマンなどの大人たちがどうにかしてくれるはずだ。
かなり近付いたアルテミスだが、カルントは気づいていないのか香りに揺らぎはない。
そりゃあそうか、アルテミスは大変な低身長である。クラス一くらいの。
ただでさえ一年生というのは小さく目につきにくいのに、さらに100センチいかない低すぎる身長が合わさって、アルテミスは今とんでもなく大人から見にくくなっていた。
ちなみに日本にいたときから低身長だった(のくせに体重だけは右肩上がり。逆だろ普通)。何度この体質を恨んだことか。
しかし今はこの腹立たしい低身長が幸いし存在を悟られずにいる。
さあ、犯すなら犯せ。
と、もう一度。チョコレートがふわりと持ち上がった。
今目の前に、奴の腕がある。
(今だ!)
アルテミスは意を決し、手を素早く伸ばし空を掴んだ。
その手は何にも触れていない。しかしアルテミスには分かる。
見えないだけで、しっかりと腕には振れられていると。
驚いたのかカルントの動きが止まる。抵抗をされる前に、アルテミスは顔があるのであろう上の空間に真っ黒い双眸を向けた。
「わかってますよ。万引き」
その言葉が、魔法を解く呪文だった。
しゃらん、と鈴の音がなり、インクを水で落としていくように青年が現れる。青年───カルントはその冴えない目を大きく見開いて、アルテミスを見据えていた。
その手にはチョコレートが握られたまま。ポケットからは少しだけ包装紙がはみ出している。傍目から見ても、彼が万引きをしようとしているのは明らかな格好でカルントは固まっていた。
作戦成功だ。
「すごい!すごいよアルテミス!」
そばで見ていたシアが歓声を上げる。クレイマンが慌てたように駆け寄ってくる。
アルテミスはふーっと安堵の息をついて耳をしまった。
緊張したあ。でも一件落着。
そう気分を緩めたそのとき。
「……俺を舐めるなクソガキがぁ!!」
カルントが野獣のように吠え、アルテミスに掴みかかった。腕に触れていたアルテミスは逃げるのが遅れ、その手に首を掴まれる。
ぐっと気道が締まる。もがこうにも、体を持ち上げられ逃げられない。
「う゛……、ぐあっ……っ」
呻くアルテミスに、激昂したカルントが罵声を浴びせた。
「この下等生物がよぉ!!俺の邪魔をするなぁ!!」
首をぎりぎりと締められては、さすがの人狼もどうにもできない。
力が入らない。視界が霞む。
苦しい。苦しい。苦しい───
と。
ふわ、と手の力が緩んだ。体が放り出される。
「ぐわ!!」
次の瞬間どしゃ、とすごい音がして、カルントの悲鳴が響いた。アルテミスの体はぱしっと受け止められる。
「クレイマンさん……!」
アルテミスは目を丸くする。彼女を受け止めたのは、端正な顔に優しげな微笑を浮かべたクレイマンだった。
クレイマンはその笑顔のまま下を見る。アルテミスも釣られるように下を見て、思わず絶句した。
彼は、倒れ伏し唸るカルントを思い切り踏みつけていたのである。
笑顔のまま。
わなわな震えるアルテミスを抱えて、クレイマンは優しく小さな子に教えるようにカルントに囁く。
「万引きはもちろんよくないことだけど……自分より小さいものに暴力を振るうのは、もっと感心しないなあ?」
言葉は優しいのに、ぞっとするような響きが込められている。
ひっ、とカルントの喉から悲鳴が漏れた。
◇◇◇
警官にカルントが連れられ去ったあと、クレイマンは花が咲くような笑みを浮かべてアルテミスを抱き上げた。
「わぁっ」
「本当にありがとう!」
驚くアルテミスに告げられるのは、心からの感謝だ。
クレイマンさんはぱっと明るく笑った。
「本当に助かったよ!」
「いえ、そんな……勝手にやったことですし」
アルテミスは恥ずかしくなって謙遜する。しかしクレイマンはにこにこしたままだ。楽しそうに言う。
「さすが優秀なアテナの生徒さんだ!僕は君みたいな生徒さんと知り合えたこと、誇りに思うよ!」
アルテミスは大きく目を瞠った。
(誇り?わたし、誰かの誇りになれてる?)
人狼でも、誰かの誇りになれる?
クレイマンに下ろされると、今度はシアとココアが抱きついてくる。
「すごいよアルテミスーっ!かっこよかった!」
「ギャッ、ギャッ!」
シアは目をキラキラさせ、ココアも誉めるように吠える。
アルテミスは、嬉しさに頬を染める。
(わたしでも、ひとの役に立てる……!)
それが、本当に、嬉しい。
わたしが何かすることで、誰かが喜べるなら。笑えるなら。
何だってしようではないか。
「次も何かあったら、任せてくださいよ!」
アルテミスは、二人と一匹に向けて明るく微笑んだ。
アルテミスは臆病者。飛んで火に入る夏の虫にはなりたくない。
けれど、それで笑顔が生まれるなら。
飛んで火に入る愚かな虫になってやってもいいと、思ってしまうのだ。
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