1 全ての始まりは望月の黄昏に

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 次の日目を覚ませば、少女は高校生ではなくなっていた。  その代わりに鏡に映るのは、だいたい5歳くらいの子どもである。くりっとした黒い瞳と、伸びた黒髪、それから頬に残る爪痕は面影がある。しかしそれ以外はよくわからなくて、自分が自分でなくなったようだった。  少女は幼い姿になっても、家族を待つことはやめなかった。むしろ薬を飲んだことで、消えかけていた希望の炎が再び燃え上がっていた。  きっと今に自分は、あの家に帰ることができる。もとの生活に戻ることはできないけれど、きっと別の人間として新しい道を歩んでいけるんだ。あの家で。  少女は来る日も来る日も檻の中で待ち続ける。初めは半人半狼の姿しかとれなかったのが少しずつその人狼の力を使いこなしていって、今や人間と見分けのつかないほどになっていた。  そんな、ある日のことである。その日は満月で、少女は狼の姿だった。あの日から1ヶ月経っているが、未だに家族からの音沙汰はない。そんな日だった。  何気なくその耳をぴんと立てていたときに、少女は聞いてしまったのだ。  それは二人の若い警察官の雑談だった。 「ねえねえ、聞いた?あの子の話」 「あの子?」 「ほら、留置所にいるかわいい子よ。なんか人狼?になって、よくわかんないけど薬のんでちっちゃくなったあの子」 「あー、あの子か。それがどうしたの?」  少女は自分のことであると気づき、耳をぴくんと動かした。姿は見えないが、二人は留置所の近くで立ち話しているらしい。その高い声を聞き取るくらい、狼の耳を持つ少女にとっては造作もない。  と、初めに話しかけたほうが、少しだけ声を潜めた。 「それがさ……あの子のお母さん、迎えに行くつもりないんだって」  どくん。  やけに大きい音を立てて、心臓が跳ねた。  脳が壊れたかのように、機能しなくなる。  しばらくしてやっと脳が正常に動くようになり、胸の中に再び囁き声が蘇った。 『あの子のお母さん、迎えに行くつもりないんだって』  どういうことだろう?  家族は……来ない?  固まっている少女をよそに二人の話は続いた。 「えー、そうなの?ひどいねお母さん」 「よねえ?でももう断固拒否らしいよ。かわいそうだよね、あの子」 「でも、いつまでもこっちだって面倒見られないじゃない」 「そうよ。こういうときどうするんだろうね。里親探し?」 「孤児院じゃないんだから……でも、本当ね」  少しずつ声が遠のいていく。離れていっているのか、それとも脳がこれ以上聞きたくないと聴覚をシャットダウンしているのか。わからなかったし、どうでもよかった。  家族は、来ないんだ。  断固拒否なんだ。  その事実が今はっきりと、理解できた。 「そうだよね……」  無意識に独り言が滑り出ていた。  心情を表すように外で雨が降り出した。最近はめったになかった雨。  つ、と頬が濡れる。キズモノの頬を塩辛い雫が濡らしていく。 「人狼なんて、いらないよね……」  口に出して気づく。  そうだ。  最初から、わかっていたことではないか。  あの家族はあやかしなんて嫌いだって。助けた直後だってああだったのだから。  自分なんて、必要とされてないのだって、とっくにわかっていたことだ。  人狼なんて穢れた化け物は死に絶えるべきだ。  ああ、なんて自分は愚かなんだろう。来ないなんてちょっと考えればわかることなのに、期待して高校生活まで捨てて、それで来ないことがわかって泣いている。  愚か者のすることではないか。  そう自分を戒めて嘲笑ってみても、涙は止まらなくて。  その日は何もしないでただ泣き続けた。  ◇◇◇  その夜のことだった。雨はやむことなく降り続け、少女の代わりのように雷が吼える。  涙も枯れ果て、死んだように眠る少女のもとにとある訪問者があった。 「ねえ、ねえ、君」  楽しそうな声に、少女はゆっくりと意識を浮上させる。 「ねえ、ねえってば。起きてよ」  わくわく弾んだ場違いな声に若干眉を潜めながら、少女は体を起こした。  留置所の窓から差し込む稲光が、少女の目の前を陣取る訪問者を照らし出す。  そこにいたのは───大きな、犬であった。  シェパードだろうか。艶めく金色の体を焦げ茶のおしゃれな模様で着飾って、首には立派な首輪がついている。そのシェパードが、精悍な顔をだらしなく崩して笑顔を浮かべていた。  どこぞの貴族の飼い犬のようなこいつが、どうして目の前にいるんだろう。 (……ていうか、さっき話しかけてきたのは誰?)  見回しても自分と犬しかいない。けれど話しかけてきたからには人間がいるはずだ。犬は喋れないのだから。  と、犬がぱたぱたと尻尾を振った。かぱ、とうさぎくらいなら一のみにできそうな大きな口が開く。 「何きょろきょろしてるの!寝ぼけてるの?」 「……………え?」  その大きな口から出てきたのは、さっき話しかけてきた人物と同じ声。そして言葉。  少女は大きく目を見開いて、犬を見つめた。恐る恐る口を開く。 「……あなたが喋ったの?」 「そうだよ?」  いとも簡単に、犬は頷いた。 「???」  少女は涙も忘れ首を傾げた。  どういうこと?これ、夢?  そう思って尻尾を踏んで痛覚を与えてみれば、ちゃんと痛い。え?じゃあ夢じゃないの?  混乱する少女に、犬はにこりと笑いかけた。犬なのに器用なことだ。 「そんなに固まらなくていいのに。……じゃあ、まずは自己紹介だね。僕はスノー。ハルタのアテナ魔法学園から来た。犬じゃないよ、シャルカって魔物の一種なんだ」 「?????」  知らない言葉だらけのセリフにますます混乱する。  何何どういうこと?はるた?どこの都市?あてな、なんて聞いたことない学校名なんだけど。  目をぐるぐるさせている少女に、犬は申し訳なさそうな声を出した。 「ああ、ごめん。わかんないよね。ハルタってのは、君は知らない国なのかな。魔法使いの住む雪国だよ。アテナ魔法学園はハルタの大きな魔法学園。僕はそこで校長の右腕として働いててね、今日はアテナにスカウトする優秀な人材を探すためにここに来たんだ」 「へ、へえー……」  楽しそうに語る犬、もといスノー。そして少女は曖昧な返事しかできない。  魔法使いが何だとか魔物が何だとか、ファンタジーすぎてついていけないのだが。 (でもまあ、人狼もファンタジーではあるか……)  そうだ。普通の図鑑に『人狼』は乗っていない。自分もファンタジーな存在の一人なのだ。それだったら、魔法の一つや二つくらいあってもおかしくないかもしれない。  閑話休題。  少女はスノーを見つめた。 「それで、その『魔法学園の校長の右腕』さんが人狼に何か用?」  校長の右腕なんだから、それなりに身分があることはだいたい想像がつく。そしてそのそれなりに身分がある人物が直々に合いにくるほど、少女に価値はない。  スノーは朗らかに笑う。 「ああ、それね」  そして、急に瞳を真剣に引き締め、少女を見つめ返した。 「僕は、君をスカウトする。アテナ魔法学園に、来てほしいんだ」 「…………えっ?」  頓狂な声が漏れる。
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