1 全ての始まりは望月の黄昏に

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「わたしが、魔法学園に……?」  今一度スノーの言葉を反芻してみたところで意味がわからない。  魔法学園なんて、そんなの自分とは全くの無縁だと思っていた。  いや、人狼となった今関わってはいけないのだ。  自分のせいで傷つく人が出るかもしれないことが、怖くて仕方ないのだから…… (なんて、わたし、つくづく臆病だよね……)  内心自嘲する。  昔からそうだった。いつも勇気がでなくて動けなくて、なけなしの勇気を振り絞って行動してもいい結果にはならなくて。そして、絶好のチャンスを逃す。いつの間にか勇気を出すことさえ嫌がるようになっていた。  しかしそんな心情は露知らず、スノーは拗ねる子どものような不服そうな顔をした。 「なんだよ。行きたくないの。いつまでもその檻の中にいるつもり」  正論だ。少女は言葉に詰まったが、すぐに首を振った。 「でも、行けないよ」 「なんで」 「見たらわかるでしょう?わたし、人狼なんだよ」  俯いて零す。  なぜかスノーが不思議そうな顔をしたのは、少女には見えなかった。  少女は俯いたまま、自分が人狼であること、親にも捨てられ今留置所の檻の中に暮らしていることを話した。 「わたし人狼なんだから、みんなを傷つけちゃうよ」 「……」  スノーはしばらく黙って、口を開く。 「……でも、今日は満月だけど君は理性を保ててるじゃないか。それは、狂暴化しない薬を持ってるってことだろ?それだったら大丈夫だ」  安心させるような声音だ。 「あと、ハルタのひとたちは狼くらいで怖がらない」  暖かな声に、少女は顔を上げる。いつの間にか小降りになっていた雨が、優しくBGMを奏でていた。  スノーは少女の真っ黒な前足の上に、自身の大きな前足を乗せる。 「だから、さ。アテナに、来てくれないか」  とん、と。  さっきとは違う優しさを持って、その言葉は少女の胸の奥に触れた。  アテナの校長の右腕は、こう言ってくれている。親に捨てられたのだから引き止める人もいない。だから、行ってみてもいいんじゃない。そう誰かが言っていた。  八方塞がり、四面楚歌。その先の方で、スノーの灯した希望の光が揺れている。  少女は、首肯した。 「じゃあ、行ってみようかな。アテナ魔法学園」  ぱあ、と目に見えてスノーの顔が明るくなった。尻尾がぶんぶんと揺れる。 「やったあ!」  給食のデザートじゃんけんで勝った男子みたいに、スノーはうぉんと吠えてははしゃいで跳ねる。とても、『魔法学園の校長の右腕』には見えないけれど。  その無邪気な姿を見ているうちに、少女の胸の中に爽やかな風が吹いた。獣の逃げたあとの殺風景な空間に安らぎと希望を持ってくる、桜色の春風だ。 (まあ、どうせもう親はわたしと合う気ないんだし。わたしも親のこと忘れて新しい人生を歩んだっていいよね)  すすり泣いてばかりだった心が、そんな声を漏らした。だんだん、スノーに釣られるように気分も上を向いてくる。  と、窓から銀色の光が差した。少女ははっとしてその窓を見る。  煌々と、満月が輝いていた。さっき月を覆い隠していた雨雲は緩やかに去り、月光が少女の頬を濡らしている。 「空、晴れたね」  天気まで喜んでくれているみたいだ、と思うと、スノーがどこか呆れた目をした。爽やかな気分に水を差され、むっと眉をよせる。 「何よ、その目」 「いや、気づいてないんだ」  スノーが少しだけ嘲るように口角を持ち上げた。無知な子どもに教えてやるように、ゆっくりと言う。 「この雨は、君の魔力が暴走した結果だよ」 「えっ」  少女は目を瞠る。スノーが頷いた。 「いつもは押さえられてるんだろうけど、今日はいつもの比じゃないくらい感情が高ぶったから暴走が起こったんだよ。さっき、君は泣いてただろう。だから雨が降った。けど、僕が来て気持ちが明るくなったから空も晴れたんだ」  少女はほう、と声を漏らした。まだ杖も持っていないのに、魔法って使えるんだな。  これも、人狼だからなのか。もし、そうだとしたら。  皮肉にも、少女は人狼になったおかげで魔法の世界に行けることになっている。 (人狼、悪くないかも)  こう思ってしまう少女は、単純なのだろうか。 「どうせなら、新しい名前も決めないか」  シニカルに笑ったスノーが言った。少女は、首を傾げる。 「どういうこと?」 「だから、君はもう親と縁は切ったんだろ?それだったら名前も新しくして、一から別の人間の人生を歩むんだって感じにしてもよくないか、と思って。まあ、気持ちの問題ではあるけどさ」  スノーの提案に、少女は頷いた。  けじめって大事だ。まだ吹っ切れたとは言えないけれど、そうやってけじめをつければ少しだけ心の傷も癒えるかもしれない。  少女はスノーの端正な顔を見上げた。 「候補はあるの?」  スノーは少女を見下ろして、それからぐんと顔を上げて窓の月を見上げた。 「アルテミス、なんてどう?」  アルテミス。  懐かしい痛みと思い出せないもどかしさを持って、その言葉は少女の脳内に響いた。どうしてだろう、この名前、知っているような……でも、全然そんな記憶はない……  そんな感覚を振り払い、少女も月を見上げる。  スノーが穏やかに口を開いた。その目は、どこか遠くを見ている。 「アルテミスっていうのは、月の女神様だ。月と深い関係にある君にぴったりだろう」  その言葉の後にぼそりと何かを呟いたけれど、少女には聞こえなかった。  少女は煌々と輝く満月を見つめる。  少女を狂わせる恐ろしい力を持ちながら、古代から人々に愛されてきた銀色の星を。 「……すごく素敵。わたしは、アルテミスだ」  少女、もとい、アルテミスは真っ黒な瞳と毛皮を揺らして初めて微笑んだ。  胸の中で花が咲くように、期待と希望でいっぱいになる。 (超楽しみっ)  アルテミスがそう心の中で吠えれば、呼応するように月が輝いた。  ◇◇◇  次の朝警察官が巡回に来るころには、少女の姿はなくなっていた。  防犯カメラの映像は夜中の数時間だけエラーを起こしていて、鍵が壊されていない故に無理やり逃げたということも考えにくい。  けれど確実に、その檻の中に小さな狼はいなかった。  それから、彼女の行方を知る人間はいない。
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