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次の日、満月を乗り越え人間の姿に戻ったアルテミスと朝から元気いっぱいのスノーは朝ご飯を食べて(メロンパンだった。あんなわがままも叶えてくれるあたり、ジェーンさんはめちゃくちゃいい人である)、家を発った。制服だとか学用品だとか、そういうのを買わないといけないのである。
ジェーンは「アテナは大変ですけど楽しいですよ!頑張ってくださいね!」と激励のお言葉、そして頭なでなでを貰った。撫でられるなんて久しぶりである。
そして、二人は街の通りを歩いた。
スノーの説明で、アテナがものすごい名門校であることは大体わかっていた。それゆえにスノーは有名人、いや有名犬である。
街を歩けば、あっという間に人々の注目を集めた。
「あれは、スノー様!」
「スカウトは見つかったのか?」
「隣のガキは誰なんだよ?」
そんな隠し切れていない囁き声があちこちで漏れる。
注目されることはあまり得意ではないアルテミスは、スノーを急かしてレンガの道を歩いた。その反面、スノーは余裕のある足取りで堂々と歩いている。
「何緊張してんの」
半ば呆れたような顔をして言ってくるスノー。
いや、誰のせいだと思ってんだお前。
その意味を込めてじろりと睨んでみたが、スノーには伝わらず普通に話を始めた。
「じゃあ、今日の予定を説明するよ。今日は、入学準備の日。最優先で買うのは制服ね。教科書は税金で支給されるけどそれ以外は買わないとなんで、ペンとかノートとか鞄も買います」
なるほどなるほど、と頷くアルテミス。日本の入学準備も公立の学校なら大体そんな感じだ。
と、ここでスノーは爆弾発言をかました。
「あとは、寮で生活するのに必要なパジャマとかね」
「えっ?」
アルテミスはきょとんとしてスノーを見つめた。スノーはなぜ驚かれたのかわからない、という顔をする。
アルテミスは急いで聞き返した。
「え、待って、寮?」
「そうだよ?」
何を今更という顔で頷くスノー。
「アテナには世界中から魔法使いが集まってくるから、寮制の学校になってるの。あれ、僕言ってなかったっけ……」
「聞いてないよ」
最初は驚いたアルテミスだが、よく考えてみれば寮は非常に助かる。何しろ今のアルテミスは天涯孤独の身。金欠の学生なので毎日ホテルに泊まるなんて豪遊はできないし、ジェーンの家に泊めてもらうのは無論もってのほかであるのだ。
あと寮って初めてだから、すごい楽しみ。だって毎日友達と寝起きするんでしょ。毎日修学旅行みたいなもんじゃん。
わくわくしながら通りを歩いていると、その街並みのあちこちに旗がはためいているのに気づいた。
青地に狼の吠える威風堂々としたデザインである。狼と言えば灰色や茶色が一般的だが、その旗に描かれているのは青がかった月光色───普通の自然界ではなかなか見ないような色をしていた。
「あの旗は……」
アルテミスが指差せば、スノーはすぐに答えてくれた。もふもふの胸を張る。
「ん。ああ、国旗だよ。いいでしょ」
確かに、いい。とてもかっこいい。
そう思いながらも、アルテミスは少しだけ思ってしまったのだ。
国旗に狼を描くということは、狼はハルタの人々にとって嫌な獣ではないんじゃないか、と。
それなら、人狼である自分も受け入れてもらえるんじゃないか、と。
そんな夢物語を頭に描いたって、どうにもならないってわかっているのに。
やがて二人は仕立て屋にたどり着いた。
ショーウィンドウには、制服と思しき服がマネキンに着せられ飾られている。
青を基調としたデザインだ。白いシャツと黒いスカート、そして首を飾る青いリボンとネクタイ。そしてその上に、アッシュブルーのマントを羽織ってカフスボタンで留めている。そのボタンの真ん中には、黄色く輝く宝石がはめられていた。
スノー曰わく、これがアテナの制服らしい。
「お金はあげるから、買ってきなよ。僕が店に入ると目立つし、一人で買う練習もしたいだろ」
スノーはそう言って、首輪についていた小袋を渡してきた。その中には、獅子の描かれた金貨、豹の描かれた銀貨、猫の描かれた銅貨が入っている。スノー曰わくそれはハルタの貨幣で、銅貨十二枚が銀貨一枚に換算され、銀貨二十八枚が金貨一枚に換算されるらしい。めっちゃめんどくさい。
とにかく使い方に慣れないといけないので、アルテミスは外にスノーを待たせ一人で店に入った。重いドアをこじ開けると来客を告げるベルがメロディーを奏で、店員らしき男性がこっちを見る。
その目がアルテミスの姿を捉えると、彼はにぱ、と快活に笑った。
「おや、いらっしゃい嬢ちゃん。アテナの生徒さんかい?制服を買いにきたのかな?」
こくり、と頷くと、男性はそれなら寸法を図ろうと店の奥へと促した。その間も、楽しげに話しかけてくれる。
「お嬢ちゃん、入試大変だっただろう。お疲れさま」
「えっ……えーと、ありがとうございます」
まあ大変っちゃ大変だったけど(何しろ人狼に襲われてそのあと親に捨てられたのだ。なかなか凄惨な体験をしたとは思っている)、入試は受けてないんだよなあ、と思ってしまい、返事が曖昧になる。
と、その反応に気づいたのか、男性が怪訝そうな顔をした。
「あれ、なんか違ったかな……でも入試なんて大抵の人が受けるし。……もしかして、スカウトの子だったりしないよな?」
再び迷う。スカウトは珍しい存在だからあんまり言いふらすなとスノーに言われている。
でもまあいっか、減るもんでもないしと思って、アルテミスは頷いた。
「そうです。わたし、スカウトです」
「っ!!」
首肯した瞬間、男性は目をこれ以上ないくらい見開いて、ぎこちなく動きを止めた。間抜けに口がぽかんと開いている。
そんなに驚くことだろうか。やっぱり言わないほうがよかったかな。
そうアルテミスが思っていると、男性はやっと我に返って恐る恐る聞いてきた。
「え、スカウトって、あれ……?あの、スノー様に誘われてっていうあれ?」
「その通りです」
男性はアルテミスが頷くのを見て、感心した顔をした。ころころ表情が変わって面白い。
「はあー、すごいね君……四十年近くここで生きてきたけどさ、スカウトなんて初めてだよ。いやあ、すごいねえ」
「えっ?そんなに珍しいんですか?」
さすがにそこまで珍しいとは思わなくて目をきょとんとさせると、彼はやっとメジャーを取り出して測りながら頷いた。
「そりゃあ珍しいよ。スノー様はシャルカっていう魔物なんだけどね、優れたものを探す能力に長けてる魔物なんだ。でも、本当に優れたものしか見つけられないから中途半端なやつはスカウトしない。でも本当に優れた魔法使いのたまごなんかめったにいないから、スカウトは珍しいんだよ」
「へえ……」
アルテミスは大人しく測られながらそんな返事を漏らした。
ということは、人狼というのは非常に強い魔力をもつ怪物ということになる。その以前まで普通の人間として暮らしていたアルテミスに、魔力があるなんてのは有り得ないからだ。
物思いに耽っているうちに寸法を測り終わり、男性はメジャーをしまった。そしてカウンターの上に布地を出して広げる。
青、白、黒、アッシュブルー。それからカフスボタンやリボンを並べていく。何をするかがわかり、アルテミスは首を傾げた。
「今作るんですか?」
男性はにこやかに頷く。
「ああ。魔法をちょっと使えば簡単に作れるからね。業者にやってもらうより早いし金もかからないからいいだろ」
そうご機嫌に呟くと、男性は魔法の杖を取り出した。
大体三十センチくらいの大きめの杖で柄は木製に見える。そしてその先っぽに銀光りする珍しい宝石がついていた。鋭い針を思わせる銀色だ。
男性がそれを一振りすると宝石が淡く輝いて、布地がぱっと光った。しかしそれも一瞬で、シャボン玉が割れるように光は霧散する。
そして完全に光が消えるとそこには、ショーウィンドウで見たのと同じ制服がカウンターに乗っていた。
「すごい!」
再びの魔法にアルテミスは目をきらきらさせる。
「すごかねえさ。スカウトの生徒さんに言われても嫌味としか思えんよ」
男性はそう言ったが、目の奥は嬉しそうに笑っている。
アルテミスは丁寧に紙袋に入れられたその制服と荷物を入れる鞄を買って、一礼してから外に出た。
「あっ!買えたみたいだね!」
店から出てくるのを見つけたスノーが楽しそうに駆け寄ってくる。
「まあね。さあ、次に行こうよ」
アルテミスは魔法使いの街を探検したくて急かすように言った。
それから二人はその通りで買い物を楽しんだ。
街には本当にたくさんのものが売ってあった。不思議な生き物や薬の材料、ゲテモノの食べ物に魔法の本まで。ハルタでは高すぎて貴族しか使えないみたいだけれど、空飛ぶ箒も売ってあった。
アルテミスはノートや万年筆、それから興味を持った本を数冊買った。魔法の世界の本なんて、気にならないほうが無理なのだ。ちなみにアルテミスはその溢れる知的好奇心ゆえに小さいときから本の虫である。
それから万が一狼の耳が現れてしまったときに隠せるキャスケット帽、小さな月のついた首輪を買った。この首輪は本物の月に合わせて首輪についた月も満ち欠けするという優れものである。これで、アルテミスはいつ薬を飲めばよいか分かるのだ。
さてそんなこんなで買い物を楽しみ、気がつけば日は落ちかけていた。アルテミスは街を出て、スノーの導きのまま道を歩く。やがて、海の近くの小さな街にやってきた。潮の香りが風に乗りアルテミスの鼻腔を満たしている。
スノーはここで立ち止まった。
「さてと。僕そろそろ学校に戻らなきゃ。一週間後には入学式があるから、そこの桟橋で船を待つんだよ」
どうやらアテナには船で行くようだ。バスや電車はあれど、船で学校に行くケースはなかなか聞かない。
その移動法にもいちいちわくわくしながら、アルテミスは頷いた。
「分かった。入学式の日、楽しみにしてるね」
そう微笑んでみれば。
「……」
急にスノーが黙って、アルテミスの顔を見つめた。
その金色の瞳は優しい光を宿し、淡く揺れている。
アルテミスは首を傾げた。
「どうしたの?」
スノーは「……いや、別に」と首を振って、嬉しそうに笑った。
「やっと、君が本当に楽しめてるのがわかって嬉しかったの」
アルテミスは目を瞠る。本当?わたし、楽しめてなかった?
スノーは微笑んだまま続ける。
「僕と最初に合ったときは、君は全てに絶望した顔をしてた。それが気になったから、僕はあれだけアテナに来るように説得したんだよ。君の身の上話まで聞いて……買い物に付き合ったのも、辛い目に遭って感情を失った君を少しでも明るい気分にさせたかったから。普通は、ここまでしないんだぜ?」
そんなこと考えてたんだ。アルテミスは驚いた。
スノーは言葉を紡ぎ続ける。
「スカウトを無理やり入れたところで、学校側の利益はそこまで変わらない。君じゃなかったら、それか君があそこまで世界の全てを諦めたような顔をしてなかったら、入学を嫌がられて『そっか、なら残念だ』でおしまいだった」
その『普通』を覆させてしまうまでに、スノーはアルテミスのことを気にかけてくれていたのだ。
スノーは「だからね、僕は言葉下手だからうまく言えないけど、これだけは言えるんだ」と顔を上げて、ひまわりのように笑った。
「僕は今、君が心から笑えるようになってとっても嬉しいよ」
その暖かな言葉が、残酷な出来事に傷つき冷たい氷を纏った心を優しく溶かして癒やしていく。
こんなに優しい人、他にいるだろうか。
人狼という穢れた存在のために頑張り、気を使って、優しく笑いかけてくれるような人なんて。
こんな人が近くにいるなんて、わたしは幸せ者だ。
アルテミスはその優しさを感じながら、ふわり、と微笑んだ。
「ありがとう、スノー。わたし、あそこで会えたのがスノーでよかった」
まだ、怒りや悲しみが消えたわけではない。未練も後悔もある。
けれどその言葉は確実に、アルテミスが過去を捨てる力になった。
アルテミスがその頭を撫でれば、スノーは嬉しそうに吠えた。しかししばらくそうしていれば、スノーは「もう行かなくちゃ」と言う。
「そっか。……まあ、もうそろそろ日も暮れるしね」
「うん。僕、君と入学式で会えるのを楽しみにしてる」
人狼と知っていながらそんな言葉をかけてくれるスノーに笑みをこぼしながら、アルテミスはじゃあね、と尻尾を振った。
スノーもじゃあね、と尻尾を振り返し、うぉん、と吠える。
次の瞬間。
もうそこに、大きなシェパードはいなかった。
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