1 全ての始まりは望月の黄昏に

1/4
9人が本棚に入れています
本棚に追加
/16ページ

1 全ての始まりは望月の黄昏に

 ◇◇◇  さわさわと揺れる針葉樹の森。  ヨーロッパ調の優雅な街並み。  そしてそれらを純白の染める雪───。  ここはハルタ王国。煌めく魔法溢れる、不思議な雪国だ。  ハルタは基本的に田舎国である。特別大きな歴史的文化財があるわけでも一風変わった風習があるわけでもなく、人口も魔法使いだけを寄せ集めているだけにそこまで多くない。けれどそんなハルタにも一つだけ誇れるものがあった。  それは、ハルタ国立アテナ魔法学園である。  国内最大級の大きな魔法学校で、倍率が毎年とんでもなく高い超名門校。優秀な魔法使いしか入学することができず内容も他校とは段違いに難しいが、世界中の国から高い志を持った魔法使いのたまごたちがここハルタにやってくる。  基本的に、ハルタに入学する方法はただ一つ。受験である。  しかし、稀に例外があった。  それは、スカウトという存在。類い希なる才能を有し、しかしそれを上手く使えていない、そんな生徒がいれば学校はスカウトをする。  それを選ぶのは、なんと犬である。  しかし心配ご無用、彼はアテナの校長の右腕の、人間以上に賢い犬だ。まあ、そのお眼鏡に叶う生徒というのはめったにいないものなのだが。  さて、いまは冬の終わり。受験、そして入学の季節だ。  犬は端正な顔を引き締め、まだ雪の残る大地を駆け出した。  ◇◇◇  所変わって、日本。  ここに、一人の少女が住んでいた。くりっと丸い真っ黒な瞳と、さらりと揺れる黒髪が特徴的な、しかしこれといって変なところはない高校生の少女である。  彼女は今日、母とともに平坦な道を歩いていた。  今日は部活がなく、早く帰ってきたのだ。そして、母に「買い物にいかないか」と誘われたのでまあいいかと思って乗ったのである。高校生にもなってくると親よりスマホとかゲームとかのほうが大事になってくるのがもはや常識ではあるが、少女は優しいからついていってあげるのである。  肩を並べて歩く親子。夕暮れ時に、身長の変わらない二つの影が伸びている。  気の早い満月が煌々と輝いていた。 「ママ、今日は何買うの?」 「えー、お肉とか、野菜とか……あ、ついてきてくれたんだしアイスとか買ってあげようか」 「やったー」  仲良く言葉を交わしていたとき。 「ガルルルルル………」  獣の唸り声が、どこからか聞こえてきた。  少女は胸が少しだけぐっと掴まれるように苦しくなった。 (なんだろ……嫌な感じがする)  何か根源的なところで恐怖を感じ、少女は立ち止まる。母が「どうしたの?」と不思議そうに言った。 「行かないの?」 「えーだって……なんか唸り声するじゃん」  母も耳を澄まして、「あー確かに」と呟いた。  唸り声は少しずつ大きくなっていく。“なにか”がその声の大きさに比例するように近づいているのがわかって、少女は戦慄した。 「気をつけてね」 「わかってる」  そんな言葉を交わした、そのとき。  ぬっ、と黒い影が現れた。 「「っ……」」  悲鳴を上げることも叶わない。  それは獣の速さで強襲し、母に飛びかかろうとした。赤い瞳がぎらりと光る。  母は怯えたように、固まっていた。逃げられそうにはない。  少女は、考える前に動いていた。母を突き飛ばし、立ちふさがるように立つ。  影は唸り声を上げて、少女のかざした腕に食らいついた。 「ぐっ……」  腕を何かに貫かれ、痛みに顔を歪める。  また、胸が苦しい。この体の中で飼っている獣が暴れ出して出て行きそうな、そんな感覚だ。  少女はその獣を抑え、痛みを我慢して目を薄く開けた。  大きな犬が噛みついていた。  いや、もしかしたら鈍色の狼なのかもしれなかった。  自分の腕には長い牙が突き刺さっている。ルビーのような赤い瞳を鈍く光らせ、体中は鈍色の毛で覆われ、少女より大きかった。その体躯は成人男性ほどもある。  そしてその狼は後ろ足で立ち上がり前足を腕のように使って少女を抱え込んでいた。逃がすまいと拘束するように。身を捩ればその前足の爪が頬を傷つけ、血がぱっとしぶいた。 (変な犬……)  呑気にも少女は思った。  普通の犬も狼も、こうではないのではないか。狼はどれだけ大きくたって成人男性ほどにはないし、前足で獲物を抱え込むことはない。二足で立ち上がって狩りをすることはないし、意図的に目の近くの皮膚を傷つけて脅すことはない。  この狼は、変なところで人間に似ていた。普通の獣でないことは明らかだ。  少女は訳も分からぬまま、狼を蹴った。ただ力が込められず、とん、と軽い蹴りになる。  しかし効果は絶大だったようだ。狼はギャンッと悲鳴を上げて牙を抜いた。口から血を滴らせ、後ずさりをする。その仕草さえも人間のようだった。  その狼は怯えるように少女を見据えると、あっという間に消えてしまった。 「はぁ、はぁ……」  少女は息を切らし、焼けるように痛む腕を抱えた。  血がぼたたっと垂れては地面に染みを作る。  痛い、痛い、痛い。脳が爛れてしまいそうだ。  けれど、後悔はしていなかった。  自分は家族を守ることができた。自分があのとき動かなかったらこの痛みを味わうのはきっと母で、自分は後悔を一生背負っていくことになるだろう。そうなるのだけは嫌だ。  それだったら、この腕はきっと勝利の証なのだ。  それでも、少女は母に何か言ってほしいと思った。ありがとうでも何でもいい。幼稚なのだってわかっている。でも、何か暖かい言葉が欲しかった。  そう思って母を見て、怪訝に思った。  母は、感謝するような目をしていなかった。それどころか、虫けらでも見るようなおぞましげな目をしていたのである。  少女は首を傾げた。頬の血を拭い、少し近づく。 「……ねえ、ママ」 「嫌っ」  母は、無様に尻をついたまま後ずさった。少女はなんだか怖くなる。  ねえ、何が。何が嫌なの。  と、母が唐突に大声を出した。 「来るな、化け物っ」  声が鋭い響きを持って轟いた。 (えっ……)  どういうこと、と思った。  わたしが、化け物?どうして?わたしは人間だよ? 「ちょっと待って、何でよ?」 「うるさい!こっちを見るな!」  聞いてみても、母は人が変わったように拒絶するだけ。まともに会話ができそうにない。  少女はうろたえ、意味もなく周りを見渡し───窓ガラスに映った自分に声が出なくなった。  血まみれで立つみすぼらしい自分。  その頭に、大きな三角の耳が生えていたのだ。尻からは太い尻尾が伸び、手には鋭い爪がある。それは月光を浴びて、黒く艶やかに光っていた。  まるで、真っ黒な狼のような。 (化け物……)  少女は母の言葉を反芻する。  その姿は、まさしく『化け物』だ。  誰かが通報したのだろうか、パトカーの音が近づいてくる。  その音をどこかぼんやりと、少女は聞いていた。
/16ページ

最初のコメントを投稿しよう!