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しばらくして男はバスルームへ行ってしまった。
部屋でひとりになった私は仰向けに寝そべったまま陰部にそっと手を伸ばした。白い液体が指に付くだけで血は出ていなかった。腹痛などもない。
安堵して脱力する私の脳裏に数時間前の記憶が甦った。
洗面所で立ち尽くす私が持つ白い棒には、青い線が二本浮き出ていた。
妊娠検査薬をプラスチックの袋に戻しティッシュで何枚もくるむとごみ箱に捨てた。
生理が来ない不安からようやく解放されたものの、代わりにもっと大きな悩みに直面することになってしまった。
子はおろすしかない。あの男もそれを望むに決まっている。
男は抱くことで私を辱めて傷つけたいと思っている。それが彼の言う復讐なのだ。
彼は胎児など気にせずに私を抱き続けるかもしれないが、私の体に支障がでればそれもできなくなってしまう。だから一番手っ取り早い方法として中絶を強要してくるかもしれない。私との子など彼にはなんの価値もないのだから。
不意に、私の両親の顔と子どもの頃の寂しさに満ちた思い出が浮かんだ。
親に愛されなかった私に宿った子もまた望まれない存在になるなんて、なんて滑稽なことだろう。
男の低い声、端正な顔、しなやかな体、そして大きな手。あの綺麗な手に痛々しく残る傷跡を思い出すと、あの日のことを考える。
手を血まみれにした彼がとても痛々しくて、私は罪悪感と後悔に苛まれ泣きじゃくりながら何度も謝った。
男は「俺が悪かった」と許してくれたが、彼のその微笑が偽りだとわかっていた私は必死で懇願し続けた。
私を嫌いにならないで。
ずっとずっとそばにいて、と。
「うっ……うう」
不意に押し寄せてきた涙に顔を覆った。
子をおろしたくない。彼と一緒に育てたい。
私は彼を愛していた。初めて会った幼い頃から今だってずっと。
微かな照明の下で泣きむせぶ私は、あの頃と同じように深く冷たい孤独の闇に閉じ込められていた。
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