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※
「どうしましたか、先ほどから箸がとまっておりますね」
取引先の取締役の男性に問われ、俺は笑みを浮かべた。
「申し訳ありません、古傷が少し痛みまして」
俺は痕ができている手の甲を掲げ「とある少女をかばって負った傷だ」と説明すると、彼は「あなたは昔からお優しいのですね」と笑った。
「どうですかな、この後は私のなじみの店にでも」
「せっかくですが、今夜は遠慮させていただきます」
「ああそうか、結婚して間がないですものね。さぞ奥様を愛していらっしゃるのですな」
「ええ、まぁ」
「お子さんに恵まれるのも時間の問題ですね」
社用車で帰宅する途中、信号待ちしているところにファミリーレストランから出てくる親子に目が止まった。
息子は父親に勢いよく抱き上げられ弾けんばかりに笑っている。母親はその光景を大きくなった腹を撫でながら微笑んで見ているのだ。
俺にはその女性が彼女に見えた。
彼女が慈しむような笑みを浮かべ俺の子が宿る腹をなでている。
父親と息子が守るように母親を挟んで並んだところで車が動きだした。俺はその幻が視界から消えるまで目で追っていた。
「どうされましたか?」
同席していた秘書が首をひねってまで車の外を見ている俺を訝しんで尋ねた。
「ああ。どうしたんだろうな……」
独り言をつぶやくように小さな声で答えた俺を彼は不思議そうに見つめていたが、また端末に目を落とした。
ほぼ毎晩抱いているから、いつ妊娠してもおかしくはなかった。
子ができたらもちろん育てるつもりだが、俺の子に接する彼女を真剣に想像したことはなかった。
今初めて思い描いた母親としての彼女は、愛情に満ちた顔をしていた。
彼女が俺の子などを愛すはずないのに。
その夜、俺は彼女を抱かずにひとりで眠った。
外泊もしていないのに彼女の体から離れたのは初めてだった。
どれほど肌を重ねていても俺と彼女の心は天と地以上に離れている。そんなことはよくわかっているのに、ひどく寂しかった。
俺は彼女をどうしようもなく愛していると認めざるをえなかった。
彼女が憎くかった。彼女の体と人生を奪ってめちゃくちゃに踏みにじりたくて結婚を申し込んだ。
にもかかわらず、いつの間にか俺は俺の子を慈しんでほしいと思うほどに彼女のことを愛してしまったのだ。
いや違う。
最初から愛していたのだ。きっと幼い頃に出会った瞬間から。
俺は恋慕と憎しみが入り混じった歪んだ愛を生み、育て、ずっと彼女に執着していたのだ――そんな自分に気づいた夜の闇は、いつも以上に深く冷たかった。
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