悪鬼の総大将は陰陽師になりすまし、

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「また生まれたな……」  玖弦(くげん)は夜空を横切る朱い彗星に目を細める。  何人も立ち入ることの許されぬ鬼祖山には、まるで夜空と同化したような深い闇があった。さんざめく星も薄雲を照らす柔らかな月明かりも、地上のどこよりも近くで見てとれる。たなびく雲が月や星を飲みこんだとき、それはどの星よりも鮮烈に闇夜を横切った。    組んだ腕を枕代わりに片膝を立て、岩山の上に仰向けになる玖弦は呆れ顔で眺める。  都を囲む山岳のひとつ、鬼祖山(きそざん)。  その名のとおり鬼の祖が生まれたとされる山である。  昼夜問わず深い霧で覆われ、常人であれば足を踏み入れたとたん、瞬く間に道に迷ってしまう。  実際、鬼祖山は陰の瘴気で満ちており、鬼門とされる方角に位置する。    宮廷に仕える陰陽師たちは鬼祖山に入山することを禁忌として定めたが、一方で霊峰として祀り、陰の瘴気を押さえようとしていた。年に数回、決まった時期に陰陽師が麓の鳥居を訪れ祈祷を捧げるのだ。  しかしながら、神力も霊力も皆無に等しい名ばかり陰陽師がいくら真面目ぶって祈祷を捧げようと無意味。  つい先日も行われたばかりだが、その中にはそしらぬ顔をして経を唱える玖弦の姿もあり、陰から見守る悪鬼たちはその性悪さに腹を抱えた。    我らの若様は鬼を滅そうとする陰陽師に紛れて堂堂と宮中に入り、陰陽師のふりをして楽しんでいるのだ。    鬼の親玉がすぐそこにいるのに、誰も気づかないんて。    玖弦はうんざりしながら柿にかじりつく。先日鬼祖山に奉納された柿で、熟れていて甘みが濃い。若いものは渋みが強いから好みではない。そんな物を奉納された日には総力を挙げて都を襲ってやろうと常々思っているのだが、残念なことに毎度厳選された甘い柿ばかりが奉納される。    なぜかといえば、あいつが余計な遺言をしたからだ。 『わたしの亡き後は、決して鬼祖山に踏みこんではならぬ。あそこには世にも恐ろしい悪鬼がおるのだ。天下を震わす凶事を招きたくなければ年に一度は熟れた柿を奉納するといい』  いまわの際に残す言葉がそれかと、ひとづてに聞いた時は思わず苦笑がもれた。  後輩の陰陽師たちに力がないことはあいつもわかっていたのだろう。  だから好物で機嫌を取ろうというのか。  なんとも浅はかで、あいつらしい考え方だ。    いくらうまい柿が奉納されようと玖弦は鬼の総大将なのだ。  やろうと思えばいつでも都に大量の悪鬼を放てたし、宮中の重役を殺すこともできた。  けれど玖弦はそうしない。  熟れた柿を食むたびに思いだすからだ。  今日も持ってきたぞと、飽きもせずに訪れる知古の笑顔が。    いまごろ星見をする陰陽師があの星を視て凶事の兆しだと騒ぎ立てているに違いない。明日のことを考えると気が滅入った。  人知れず感慨に耽る玖弦の膝元には一匹のガマガエルがいる。  肌は岩肌と同化し、茶とも灰色とも見てとれた。それだけなら普通のガマだが、異様なのは大きさだ。猫ほどの体格があり、まるで神社などに据え付けられた置物のようだ。 「霧峰盆地の方角ですな」  落ち着き払った声でガマが口をひらく。 平べったく薄い膜がかった目は白く淀んでいた。 「出向かれるか、若様」 「放っておいてもどうせ都に集まってくるのだ。出向くより待っていた方がたやすいだろう」 「まったく暢気なことを言っておられる。都に至るまで他の悪鬼を取り込む可能性もあるのですぞ」 「脆弱なものたちだ。俺の手を煩わせるほどの災厄になれるのなら、なってみるといい。そのほうが倒し甲斐もあるというものだ。なんなら仲間にしてやってもいいしな」 「十鬼神が嫌がりますぞ」 「だろうな」  くつくつと玖弦は笑った。  十鬼神は玖弦の懐刀なのだが新参者を嫌うていがある。  それも生まれて間もない悪鬼など玖弦に仕えるに相応しくない。  冗談でも仲間にするといったら、玖弦がいうより早く実力を測ることだろう。  結果は考えるまでもないが。 「明日もまた祭事がある。きっとあの星を視て凶事の兆しだと騒ぎ立てるのだろうな。考えるだけでうんざりする」 「間違いではありませんがね」 「もともとは別件の祭事だ。帝の寵姫に何かあったらしい」 「しかしながら、あそこは古く強固な結界が張られておりますゆえ、我らは立ち入れませぬ。若様だからこそ耐えられるのです。何もあの様な場所に潜まぬともよいと思うのですが」 「くだらぬ。力のない陰陽師がいくら祈祷を捧げようとそよ風さえ吹かぬ。ただ、あそこには都や宮中の異変が真っ先に飛び込んでくるのでな。都合が良いのだ」 「それだけですか?」 「それだけさ」  ガマは今にも閉じそうなほど目をすわらせる。玖弦の唇は笑っていた。その理由をガマは嫌と言うほど知っている。 「いつか、あの男に狩られる時が来るやもしれませんぞ」 「それならそれでよい。この世は退屈過ぎるからな」  死に場所を求めているわけではない。ただ言葉のままに、この世は退屈なのだ。  玖弦は毎日思っている。  自分を凌駕するほどの怨霊や悪神が新たに生まれればよいのにと。  またあの頃のように、自分を滅するだけの力を持った陰陽師が出現すればよいのにと。  さすれば毎日が楽しかろう。  翌朝、とある屋敷の角から姿を現した玖弦は、白い狩衣に竜胆色の指貫(さしぬき)、烏帽子を身につける。向かう先は宮中の陰陽寮。  宮の門をくぐると少々肌にピリッとしたものがはしったが、大したことはない。  玖弦は涼しげな顔をして足を進める。 (この結界もだいぶ弱まったな。あれから数百年経つのだから当然か)  すれ違う公家大名たちにすまし顔で会釈しながら、遠い記憶に思いを馳せる。  この門に施された結界は、数百年前にあいつが張ったものだ。  いまの名ばかり陰陽師とは違って本物の霊力を持ち、悪鬼を視ることもできたし、呪符や式神なんぞを使って退治することもできた。  何度も戦いを交えたが、あれは実に愉しいひとときだった。  結果的に十鬼神のうち三体は封印されたのだから、人間にしてはよく奮闘した方だろう。  玖弦としては、それすらも暇つぶしの一環であったから本気になることはない。ただ失念していたのだ。人間には寿命があるということ。  遊戯がわりの戦いに終止符が打たれたのは、奴が天寿をまっとうした時だった。  悪鬼からの報告で葬式に出向いて見れば、確かに出会った頃より老けたあやつが棺桶の中で静かに眠っていた。  戦いのときに見せた凜々しさや猛々しさ、満ち満ちた精力も。弾けるような笑顔も。  もうどこにもない。魂の抜け殻となった老いた屍があるだけ。  出会った当初はまだ十代だったはず。栗のように丸い目をした愛らしい顔立ちであったのに、いつの間にこれほど深いしわが目元に刻まれていたのか。玖弦の知らぬところで婚姻をあげ、孫までいた。何十年も戦い続けていたのに知らなかったのだ。  柿を手土産に戦いを申し込むあいつの足音を心待ちにし、戦いに興じる姿しかみていなかったから。そろそろ来てもいいころだと待ちわびていれば。  ――おまえはそこで何をやっている。俺を倒すのが悲願ではなかったのか。  深夜に墓を掘り起こし、玖弦は三日三晩、(むくろ)に向けて語り続けた。  こんなにもあっけなく、ひとは死ぬものなのか。  断りも別れもなく一方的に。  最後に戦ったのは数ヶ月前だったか。  あれが最後になると分かっていたら、本気で戦ってやったのに。  最後に聞いた言葉はたしか―― 『結局引き分けか』  引き分けだと? 俺を倒せていないのだから、おまえの負けだろう。  そういった玖弦にあいつは苦笑をもらした。  だっておまえだって俺を倒せていないじゃないか、と。  だから玖弦は迷わず答えた。 『おまえとの戦いを楽しみにしているのだ。殺したらもうできなくなるだろう』  いった途端、あいつが笑った。玖弦の毒気を抜くような、屈託のない笑顔。  あの笑顔が脳裏に焼き付いて離れない。  もう一度みたいと願っても、みられないのだと思っていたが――   「玖弦! 遅いぞ、また遅刻かっ!」  向こうから一人の青年が眉をつり上げて走ってくる。  栗のような丸い目が朝日を反射して琥珀色に輝いた。  玖弦は口の端を引き上げる。  見た目といい落ち着きのなさといい。  どことなしか声までもあの男と似ている気がする。 「千隼(ちはや)。おはよう。それほど焦ることもあるまい。どうせ帝が来るまでは始まらんのだ」 「阿呆! 帝が来る前に参列しなくちゃならないんだよ!」  ほら早く! と腕をつかんで駆けだした千隼にやる気の削げた顔を浮かべて、玖弦は引きずられてゆく。 「まったく。もう少しどしりと構えていたらどうなのだ。かつて名を馳せた稀代の陰陽師、安部泰忠(あべのやすただ)の末裔とは思えんな」 「そんな顔も見たことのない祖先のことなんて知らないよ。俺は俺だ。稀代の陰陽師でもないし、ただのしがない陰陽生ですよーだっ」  千隼は目の下に指をあてて舌をだす。  あいつがこれを見たらどう思うだろうか。  またこれも一興といって笑い飛ばすか。それとも不甲斐ないと説教でも始めるか。  あれは以外とおおらかな性格の持ち主であったから前者かもしれない。  そういえばあいつがまだ千隼と同じ歳のころ、決着がつかないことに悔しがり、帰り際に同じことをしていたなと思い出す。 (やはり血だな)  玖弦は心のうちでくつくつと笑い声をあげた。  陰陽生とは陰陽寮に於ける訓練生のことである。  陰陽寮に入ったからといって、簡単に陰陽師になれるわけではない。   教育にあたる陰陽博士の指導を受けて実力が認められ、帝が承認してようやく一人前の陰陽師として名乗れるのだ。  かくいう玖弦もまた、この陰陽生という地位に甘んじているのであるが。 「千隼。おまえはそろそろ陰陽師として格上げされてもいいと思うのだがな」  「無理無理! 俺、霊力これっぽっちもないから。せいぜい占うくらいしできないし」 「そうか? あいつらよりは実力はあると思うんだが」  境内の廊下を歩みながら玖弦がそう言うと千隼はぴたりと足を止め、ぎこちない動きで振り返った。頬がやや引きつっている。 「あいつらって……おまえ、まさか。陰陽師様のこと言ってる?」  何を恐れているのか声まで震えていた。  玖弦はせせら笑う。 「ふん。なにが陰陽師様だ。あれほど大層な詐欺師はおらんだろ」 「しーっ! 誰かに聞かれたどうするんだよ!」  千隼は青ざめ慌てて玖弦の口を片手で覆い、きょろきょろと周囲を見渡す。 「誰に聞かれようが構うものか。実力のあるものが出世し都の安寧をはかれば、帝も助かるというものだ。無能な輩が偉ぶったところでクソの役にもたたん」 「玖弦! 言葉遣い! まだ陰陽生なんだから目上の方には敬意を払わなくちゃ」 「ふん。ほれ来たぞ、目上のものが」  口を押さえつけられたまま玖弦が奥へ目を滑らせる。  千隼もそちらを振り返った。 「おはようございます。あなた方は本当に仲がよいですね」  水のせせらぎを思わせる清涼とした声色だった。  長い睫毛を細めて唇に微笑を浮かべるその男を目にしたとたん、千隼の顔面が弾けた。 「黃沈(おうしん)様! おはようございます!」  つい先ほどまで青ざめたり目をつり上げたりと忙しかった千隼の顔が一変した。頬が紅潮し口元は情けないほど緩む。声など嬉々として高らかだ。  玖弦は呆れた眼差しを千隼に向けた。  現れたのは六人いる陰陽師のひとり。藤原黄沈(ふじわらのおうしん)。  千隼の年は十七。  特に興味のない玖弦は己の歳を正確に覚えていないが、見た目は千隼とさほど変わらない。対し、黄沈はそこから五つ上。  かの阿倍泰忠を凌ぎ、歴代最年少で陰陽師の位を授かった天才と謳われる男である。  千隼が憧憬の眼差しを向けるのも理解はできる。  が―― 「そろそろ帝が参られる時間だというのに、こんなところで油を売っていてよいのか」 「玖弦! 言葉遣い!」  よもや陰陽寮の人間はすべて大内裏に集結しているだろうに。  黄沈はくすりと笑う。 「陰陽頭(おんみょうのかみ)が取り急ぎ、千隼を呼んでこいと申すものですから」 「俺⁉ じゃなくて、わたしをですか⁉」 「そうです。どのような用件かは存じませんが、早く行った方がよいでしょう」 「わかりました!」  バタバタと千隼が駆けてゆく。その後ろ姿を眺めて、残された二人は肩を並べてゆるりと歩みだした。 「結界がだいぶ弱まってきているな。あれでは中級程度の鬼なら入ってこれる。ここはもう安全ではないかもしれん」  玖弦が空に目を向ける。  青く晴れ渡った空の内側に薄く膜が張ってある。  御所を囲む結界である。  もちろん常人にみえるものではない。    当時、あいつが施したこの結界は玖弦の力をもってしても打ち破れぬほど強固なものだった。しかし長い歳月と共にその力も風化しつつある。  一方で玖弦の力はより強固なものになった。  だからこそ、やすやすと結界をすり抜けられるのだが。 (術者がおらぬのに、よくもまあ、ここまで保ったものだ)  感慨に耽りながらも、玖弦は時の流れに侘しさを感じずにはいられない。  隣を歩む黄沈は小さく頷く。 「仰るとおりです。ここ最近、すでに何匹か鬼を視ました。今回のご祈祷……まだ詳細は明らかにされていませんが、帝は菅埜宮(すがのみや)様に憑物(つきもの)がついたと考えられているご様子。あながち空言ではないかもしれません」 「ふん。ならばあの詐欺師どもがどこまでやれるか見ようではないか。おまえは手出しするな」 「御意」  言って、黄沈はふっと姿を消した。  黄沈、またの名を黄幡神(おうばんしん)という。  玖弦の懐刀、十鬼神のひとつである黄幡神は武器に縁のある鬼神である。   ここにはあいつの力が宿る宝刀が祀られているので、ちょうどよかろうと内裏の内情を探らせるために忍ばせておいたのだ。  憧れの黄沈様が鬼神と知ったら千隼の奴め、どんな顔をすることか。  その顔を思い浮かべるとまた笑いがこみ上げる。 「さて、本物の悪霊だとよいがな」  玖弦は意地の悪い笑みを唇に浮かべて、歩みを進めるのであった。  内裏は厳かな雰囲気で満ちていた。  そろそろ秘密裏にされていた菅埜宮の話も伝わったころであろう。  陰陽頭(おんみょうのかみ)を上座に、陰陽助(おんみょうのすけ)陰陽允(おんみょうのじょう)などが並び、その下座に黄沈を含む陰陽師たち、指南役の陰陽博士、続いて陰陽生など総勢七十名ほどが座して待つ。  最後に到着した玖弦は何気ない顔をして間に割って入った。 「聞いたか、帝のご寵愛やまぬ菅埜宮(すがのみや)様に憑物(つきもの)がついたらしい」 「どのような憑物なのだ」 「わからぬ。菅埜宮様は温厚なお方だというが、夜になるとまるで人が変わったようになるのだとか」 「どのように変わる」  「それが、お付きの女房(世話係)の目を簪で刺したらしい。翌日、目覚められた菅埜宮様は何も覚えておられなかったと」 「なんと」 「昨晩凶事の兆しがあったらしい。あれは間違いなく菅埜宮様のことだと陰陽の頭が進言したそうな」  そんな話しがこそこそと交わされる。  玖弦は腹を抱えて笑いたくなるのを必死に堪えていた。  朱い流星はたしかに悪鬼が生まれた兆しであるが、都の瘴気に引き寄せられるまでにはまだまだ時間がかかる。くわえて生まれたばかりの悪鬼はひとに取り憑くだけの力がない。  ここにあいつがいたのなら、説教のひとつでもしていただろうが。 「昨日の星と菅埜宮様の件は別だと思います」 「なに?」  振り返った陰陽生は千隼をみて眉をひそめた。 「あの星は鬼の出現を象徴するものですが、生まれたばかりの鬼はひとに取り憑くことはできないって……聞いた覚えが……」  声を小さくしながら千隼は目を泳がせた。 「陰陽頭が進言なさったのだぞ。おまえは異を唱えるつもりなのか?」 「だ、だけど星とは……」 「昨日の星は霊峰盆地に墜ちた」  不遜だと憤りをみせた陰陽生に萎縮する千隼が、泣きそうな顔で振り返る。  玖弦は真っ直ぐに前を見て、平然と唇を動かした。 「千隼の言葉を疑うのなら赴いてみるといい。生まれたての悪鬼は血を欲するものだ。憑依するような高度な術をまだ身につけておらぬから、見つけたら即座に飛びかかってくるだろう。経験すれば信じるに値するのではないか。わかったころには死んでいるかもしれんがな」  唇をつりあげた玖弦に、陰陽生は互いに顔を見合わせる。 「そ、それは陰陽師様達の仕事だろ」 「ふん。自分でたしかめに行くのは怖いか? あの星が菅埜宮様に憑いたのなら、赴いたところで遭遇することはあるまい」 「それはそうだが……」 「おい。やめとけって。本当にいたらどうするんだよ」 「そうだ。自分の命は自分でしか守れない。そのためには正しい知識を身につけることだ。あのもうろくじじいの言葉を鵜呑みにして頭ごなしに否定せずに、自分で調べろ」  陰陽生は押し黙った。  仮にも陰陽寮に属する彼らは、悪鬼や悪霊にまつわる逸話をよく耳にする。人知の理解を超えたおぞましい不遇の死。その被害者の中には正規の陰陽師の名も少なからずあったからだ。 「玖弦」 「礼などいらぬ」  玖弦は背後からかかった千隼の声に、わざとぶっきら棒に答えた。  気の弱い千隼は正しい意見を持ちながらも推し負けることが多い。  あいつも根は優しい人間だったから、引き継いでしまったのだろうか。  あいつは宮中でどのように過ごしていたのだろう。  誰と語らい、どのように笑っていたのか。  あいつの骸をみながらそんなことを思った。  あいつの血を引く千隼に想いを重ねるのは間違っているとわかっているが、あのときできなかった後悔が玖弦をここに導くのである。  思い起こせば、感謝の言葉など……いわれたことがなかったな。    あいつと似た声で、あいつと似た顔で。  さあ、言うがいい。ありがとうと。   「もうろくじじいって誰のこと」  玖弦はひとつ瞬きをした。  千隼とは思えぬ低く冷めた声にゆっくりとかぶりを振る。 そこには黄沈にみせたような破綻した表情はなく、目を据わらせた千隼の顔があった。 「陰陽頭(おんみょうのかみ)だろう」 「陰陽頭は一番偉いお方なんだぞ! そんな言い方したらダメだって、いつも言ってるのに!」 「おまえ……そんなことより、他にいうことがあるだろうが!」 「あっ、もう行かなきゃ。俺、すごく大事なことを頼まれたんだよ! 不安だったから相談しに来たのに、話してる時間なくなったじゃんか。玖弦のバカ!」  「なっ……」  べえっと舌を出して走り去る千隼に、玖弦は呆気に取られる。 「おまえが先に余計な口出しをしたからだろうが……」    それから間もなく、奥から大勢の近衛を従えた帝と十二単を纏った女人が姿を現した。  奥に住まう女人は人前に顔をださないのが通例だ。  しかしこうも大勢の前に姿を現すとは。  それだけで、ただごとではないと周囲に知らしめるには十分であった。    壇上にある簾の奥に帝が腰を下ろすと女は一段下座についた。   陰陽頭が頭を下げ、続いて一同が礼をする。  宮廷仕えだとしても奥に住む女人とまみえることはない。  玖弦は帝の下座に腰を下ろした菅埜宮に眼差しを向ける。  目尻は垂れ気味で、頬もふっくらとしていて眉も薄く丸い。  秋らしく萩の色を基調とした十二単からはしっとりとした奥ゆかしさと、伏せた目や愛らしい顔立ちからは桃の花を思わせる可憐さがある。  あれが帝の寵愛やまぬ菅埜宮か。  なるほど。確かに温厚そうで、とうてい人の目を簪で刺すような人物には思えない。 (さてさて、お手並み拝見といこうか)  二人が座したのを見計らって、事情を知る陰陽の頭が腰をあげる。  菅埜宮が目を刺したなんて公に公表できるはずもない。  ことは粛々と始まったのである。    そろそろぽっくり逝きそうな陰陽頭は、祭壇の前に菅埜宮を座らせると背後にまわり、紙垂(しで)を絡めた榊の枝を掲げ経を唱え始めた。本当に菅埜宮に鬼が憑いているのか占うためだ。  毎度のことであるが、この時間が実に退屈なのだ。  この経は占いではなく催眠術なのではないか。  そう疑ってしまうほど強烈な眠気が襲ってくる。  しかしながら、強風が吹いたらぽきりと折れそうな体をしているくせに、声には内裏の隅々まで響き渡る力強さと、不思議な柔らかさがあった。  悟りを開いた坊主とでもいうのか。  棘など微塵もない。ささくれのひとつも含まれぬ。  春の陽気を思わせる穏やかな声が波紋のように広がってゆく。 「ふああ……」  つい涙をためて欠伸をすると隣に座す陰陽生が小さく睨みをきかせた。 (おっと。まずいまずい)  慌てて顔を引き締め、しんそこ真面目に耳を傾ける。  さあて、どのような結果がでたのやら。  ここで糞詰まりや月のものが原因だと言えば腹を抱えて笑ってやったのだが。 「どうやら菅埜宮様には悪鬼が取り憑いておられるご様子」  一通り経を唱え終わった陰陽頭(じじい)は神妙な面持ちで帝に向き直り、恭しく結果を告げた。 (ほう。まともに占うことはできるらしい)  菅埜宮の気が触れたわけではなかったことが嬉しかったのだろう。  帝はすがりつくように、されど少し嬉しそうに顔を輝かせた。 「やはりそうであったか! でなければ、この菅埜宮があのようなことをするがずがない。それで、祓えるのであろうな」 「もちろんでございます。我ら三日三晩祈祷を捧げ、菅埜宮様に取り憑く悪鬼を打ち払ってみせましょう」 「よう言った! 菅埜宮よ。おまえも難儀であろうが、耐えるのだ。よいな」 「はい。それで安寧が手に入るのでしたら、お安いものです」  解決策が見出され、二人は安堵したようである。  しかし玖弦と言えば渋面を浮かべる。  あのもうろくじじいめ。  三日三晩の祈祷だと?   意味のない経をいくら唱えたところで何も変わらぬわ。 「しかし……ひとつ進言したい議がございますれば」 「なんだ」 「本来、帝や奥の方様への祈祷は高位の陰陽師が対応すべきことと存じております。しかし許されるのでしたら、ここにおります阿倍千隼(あべのちはや)の力を借りとうございます」  じじいがそう言うと千隼が緊張で凝り固まった顔をして立ち上がった。  帝は「ほう……」と声をもらし、簾の奥から千隼に眼を向けた。 「阿倍泰忠(あべのやすただ)の血族だな」 「さようでございます。この者はまだ陰陽生ではありますが、鬼を占うことに関しては秀でたものがあります」 「占いは終わったのであろう」 「ここにおります千隼は少々特殊な力を持っていますれば。この者が占うと潜んでいる鬼が姿を現すのでございます」 「なんと」 「さすれば、三日待たずともここで打ち祓えるかと」 「ぶっ」  ここにきて玖弦は吹き出すのを止められなかった。  口元を袖で覆い隠し、肩を丸めて声を押し殺す。  千隼は確かに術に長けている。特に鬼の気配を探る術に秀でているのだ。  あくまでここにいる猿どもに比べればの話だが。  千隼が探ることで鬼が反応するのであるが、鬼が千隼にだけ過剰に反応をみせるのには訳がある。  それこそ千隼の先祖である阿倍泰忠と玖弦の関係に起因する話だ。  あのころ、玖弦は鬼たちに泰忠を見たら問答無用で襲うように言いつけてあった。   命令を撤回する前に泰忠が往生してしまったので、その血を継ぐものに命令が引き継がれてしまった。  つまり千隼が鬼を探っているから見つけるのではなく、千隼を見つけた鬼がみずから襲いかかって姿を現しているだけなのである。  見つけていることに変わりはないので、ずっと黙っていたが…… 「くくくく」  笑いが止まらない。  千隼が術を使えば、鬼はすぐさま千隼の中に眠る泰忠の血を嗅ぎ分けて襲ってくるだろう。 (これは愉しいことになりそうだ) 「かつてこの国は阿倍泰忠どのに大いに助けられたと聞く。その子孫であるおまえにどれほどの力があるかは知らぬが、試してみるのもよいかもしれぬ」 「はっ、はいっ。精一杯がんばります!」 「では千隼、頼むぞ」  変な汗を額に浮かべながら千隼が力強く頷く。  じじいに代わって菅埜宮の後ろに座し、榊の枝を手にして一呼吸おいた。  それから目を閉じ、唇から細い息を吐きだす。  じっと身の内にある霊力をみつめるのだ。  みつめ、練り上げ、目にみえない世界を視る。  集中を高める千隼の顔に、あいつが重なる。 (ああしていると、本当にうり二つだな)  失った思い出と存在を再び蘇らせる千隼に玖弦の目は細められる。  しだいに千隼のまわりに金色の霊気がゆらりと立ちはじめた。  術者の性格なども大いに影響を受ける霊気の色は千差万別で似たものがない。  例えば人間に霊気の色がみえたとして。彼らが同じようにみえるものでも玖弦や鬼にするとまったくの別物なのである。鬼はそうして人間を判別するのだ。  しかし、千隼の纏う霊気は玖弦から視ても泰忠が纏っていた霊気と同じ色。  それが言葉にならないほど感慨深く、玖弦は懐かしさに目を細めた。  ここにいる誰もがあの高潔たる霊力を視ることはかなわない。  玖弦と黄沈の二人だけが何百何千と己に向けられたあの霊気に想いを馳せ、じっと千隼に魅入っていた。    立ち上がる霊力がまた一段とふくれあがる。  帝とじじいの期待を背負い、しいては陰陽寮の威信さえ背負って祈るのだから、失敗など許されない。  千隼の集中力は普段の非ではなかった。  さらに膨れあがった霊力にさすがの黄沈も警戒が生まれたようだ。  自分に向けられるわけでもないのに威嚇するような鋭い眼差しを向け、いつでも千隼の霊力を跳ね返せるように警戒態勢に入った。 (十鬼神を警戒させるとはやるではないか)  いつもせわしないくせに、ここぞという集中力の高さはさすが泰忠の子孫か。  千隼が唇をひらいた。  まだ声変わりも怪しい女のように高い声が、緊張気味にふるえている。  それでも経は応じる。  晴れ渡っていた青空に異常な速さで暗雲が覆いかぶさり、空気は清涼さを失い生暖かく澱みに満ちた。衣の隙間から忍び込むような、肌にねっとりとまとわりつく気持ちの悪い風だ。  暗雲は天と宮中を二分し、部屋には闇が舞い墜ちた。  急に暗くなった空に座す者達は訝しげな目を向ける。  ろくな術が使えないとしても、やはり陰陽師ということなのか。    不穏な気配を感じたのか、部屋のあちらこちらに目をはしらせる陰陽師達。    ただ霊気を練っただけで天の色を変えるとは、千隼の潜在能力には本当に驚かされる。しかしそれもまたあいつの血だと思えば得心がいった。  妙な心の高揚を感じ、玖弦は口角をひきあげる。  ざわめきだした雑踏のなか、陰鬱とした気が菅埜宮の背中に集結してゆく。  床に広がる十二単が波打ち、艶やな黒髪がさわりと浮かぶ。  まるで何かを探し這い回っているような動きだ。  うねりながら広がり、波打つ。  千隼はいまだに硬く目を瞑ったままで異変に気がついていないが、正面で見守っているじじいは別だ。慄くように腰を引き、息をのむ。後方に控える陰陽師達も同様。みな目を見張り固唾を飲んで見守った。  もはや、菅埜宮の髪は肩ほどの高さまで浮かんでいた。  メキメキと音がする。衣の裾から真っ赤な長い爪がのぞき、額からはツノが伸びた。  帝のそば近くにいた近衛から「ひっ」と声がもれたのと同時に。  (ごう)っ  菅埜宮を中心として突風が起きた。  帝の座す簾をものともせずに吹き飛ばし、座していた陰陽師さえもなぎ倒すほどの風。 「来るぞっ!」  そう叫んだのはじじいではない。  じじいは飛ばされないように床にしがみつくので精一杯だ。  近衛たちは帝の前に立ち塞がり、守りに入った。  顔は恐怖に青ざめ、手にした刀はカタカタとふるえていた。刀を構えることだけで精一杯なのだろう。反射的にでも動いたのは称賛に値するが。  ここでようやく千隼が目をひらいた。  目の前に浮かび上がる長い黒髪に口をあんぐりと開けて、アホのように呆けている。 おかげで経が途切れたが、ここまでくれば十分。  菅埜宮に巣くった悪鬼が姿を現す。  額を裂いて反り上がったツノを二本生やし、小さくすぼんだ唇を横に引いて牙をのぞかせる。目はつり上がり、怨嗟を乗せて血走った。   菅埜宮がゆらりと立ち上がり、後ろを振り返る。  赤く燃える瞳に映ったのは真っ青になって震える千隼の姿。 「泰忠(やすただ)あああああ!」  菅埜宮の姿をした鬼が狂気的な金切り声をあげて爪を千隼の首筋に向かって振りかぶった。伸びた爪の長さは小刀ほど。常人が小刀での首を切断するのは困難だろうが、鬼ならばたやすい。   「うわああああッ!?」  恐怖に青ざめた千隼が来るな来るなと榊を振り回しながら後ろに倒れる。 (まったくもって情けない)  あれだけの霊力があるにも関わらず、体術はからっきしだからな。  泣き叫ぶ千隼に盛大な嘆息をもらし、玖弦は狩衣の下で人差し指をちょいと動かした。 「うわっ⁉」  突然千隼の体が後方に吹き飛んだ。まるで何かに引っ張られたような動きだ。後方に座していた陰陽師たちを巻き込んで盛大に吹き飛び、あわやというところで菅埜宮の爪が空を切る。 「何者か」  菅埜宮が動きを止め、大きな目でぎろりと何十という陰陽師達を()めつける。  菅埜宮のものとはとうてい思えぬ、しゃがれた低い声。  ぎょろぎょろと血走った眼を動かす菅埜宮にばれぬように、玖弦は限りなく妖気を抑え込み、前に座す陰陽生の背中に身を潜める。伏せた顔は必至に吹きだすのを堪えていたが。 「捕縛八卦(ほばくはっけ)を唱えよ! まずは動きを封じるのじゃ!」  ようやく突風が収まり、じじいが叫んだ。  顔色こそ悪かったが、逃げ出す陰陽師は誰ひとりとしていない。  というよりも、腰を抜かして動けなかったといった方が正しいか。  先ほど言い合った陰陽生などは恐ろしさのあまり声が出ない様子で目に涙を溜めて菅埜宮に食い入っていた。   じじいの声を皮切りに経がこだまする。直ぐさま反応したのは、やはり正規の陰陽師各位。おそらく鬼と遭遇した経験があるのだろう。力強く膨れあがった経の輪唱が菅埜宮の声をかき消すほどに低く波状してゆく。  捕縛八卦の経は鬼の力を弱め、身動きを封じるためのものだ。  ひとりひとりが薄弱とした霊力だとしても、束になればそれなりの効力を発揮する。  腹の底から乗せた経が宮中に広がり、菅埜宮の表情が苦痛にゆがみ始めた。  しかし玖弦も黄沈もその中にいながら平然として座す。  陰陽師七十名の経をもってしても、二人にはなんら影響を与えるものではない。    玖弦は手助けなどする気はなかったから経など唱えない。  手出し不要の命を受けた黄沈は、すまし顔で口だけは動かしているようだ。  もちろん霊力など乗せていない。形ばかりの経である。 (タヌキめ)  憧れの黄沈様がタヌキだと知ったら、千隼はどう思うのだろうか。  玖弦はいずれ明かしてやろうとほくそ笑む。  菅埜宮は妨害した犯人をまだ捜しているようで、血走らせた(まなこ)を隙なく陰陽師達に這わせていた。  だが術が効き始めているせいで、思うように身動きが取れないでいる。  何かを叫びたいのか、苦しそうに唇が動く。しかし声はでない。あきっぱなしの口からは涎が垂れ、首筋を伝った。  ついに諦めたのか、菅埜宮が再び千隼を振り向いた。   ぎぎぎと、ぎこちない首の動きは骨が軋んでいるような音を生む。  赤い目に睨まれて千隼はさらに青ざめる。 「泰忠あああ……」 「俺はじいちゃんじゃないって!」  周囲はみな額に汗を垂らして経を唱えているというのに。  泣きながら言い訳する千隼がおかしくて、玖弦は顔を伏せて肩をふるわせた。  菅埜宮がぎこちない動きで千隼に手を伸ばし……そこでぴたりと止まった。   捕縛の術がしかとかかったようだ。 「よし! 千隼、おまえも陰陽寮の末席に座すなら泣き喚かずに経を唱えんか!」 「は、はいいいっ」   陰陽頭(おんみょうのかみ)に怒鳴られた千隼は、転ぶようにして黄沈の隣に滑り込んだ。  (ちっ)  なぜ黄沈の隣なのか。どうせ一番安全だとでも思ったのだろうが。  あながち間違いではないが、俺のもとに来ればよいものを。  経が切り替わる。否、経が二つに分かれた。  動きを封じるものと祓うもの。その二つである。  祓う経を唱えるのは陰陽師から上の官職を持つものたちだ。  玖弦と千隼はその下なので動きを封じる経を唱えなければならない。   玖弦は黄沈(おうしん)に手出し不要と言いつけた。  黄沈の協力を欠いた名ばかりの陰陽師とじじいで何ができるのか。  じつに見物。  そう思ったが――。  あろうことか、まわりを取り囲む高位の陰陽師たちにつられて千隼が祓いの経を唱え始めたのである。  これには玖弦も黄沈もすぐに気がつき、驚愕の表情で千隼を振りかぶった。   千隼は無我夢中で経を唱えていた。恐らく菅埜宮(すがのみや)を見るのが怖いのだろう。固く目を閉じ、声がかれるほどの大声で経を叫んでいる。 「あのバカ!」  千隼から金色の霊気が立ちこめ、辺り一面に広がってゆく。  恐怖のせいで鬼を呼び寄せたときより集中できていない。  いや、ある意味集中できているのか。  天上を突き抜けるのではというほど高く伸びた霊気はたこ足のように不規則な動きで四方八方に波打ち、部屋の半分を占めている。真横にいた黄沈は鬼どころの話ではない。  表情こそ崩さなかったが即座に妖気を纏い、少しだけ位置を横にずらした。  そうしなければ軽い火傷くらいはしただろう。  あの男は妙に美意識が高いから、少しの傷も嫌がるのである。    千隼に気づかれる危険もあるというのに、まったく。 (はた迷惑な!) 「ぐわああああ」  千隼の霊気にあてられ菅埜宮が悶絶する。  真っ赤な眼は千隼から伸びる霊力を恨みがましく睨めつける。  そう。千隼ただひとりをだ。鬼であれば嫌でもわかる。  いま自身を襲っているのは千隼の霊力だけだと。  千隼の持つ霊力は他と群を抜いているが、いかんせん使い方が悪い。実戦などしたことがないし、己の能力を扱いきれていないのだ。  経が乗っているので効くことには効いているのだが、未だに鬼は菅埜宮の体から離れない。   言うなれば一瞬のうちに炭と化すことができるのに、一点集中できないためにつま先から業火でちりちりと炙っているようなものだ。それはそれで、あの鬼にとっては苦痛であろう。  口さえ動けば、やるならさっさとやってくれ! と叫んだかもしれない。  待っていればいずれは燃え尽きるだろうが…… (いつまでかかるんだ?)  それこそじじいの言うとおり三日三晩はかかりそうだ。    下手に千隼の霊力が上乗せされて攻撃は成功しているし、だからといってすぐには終わらない。  これで千隼がいなければ、そこらの陰陽師のひとりやふたりくらいは食われていたかもしれなかった。本当に余計なことをしてくれたものである。 「ちっ」  そこに微々たるものであるが、高位の陰陽師たちの力が加わる。  せっかく愉しい見物ができると思っていたのに、これでは興ざめだ。  持久戦を鑑賞するくらいなら、さっさと終わらせた方がよい。  苛立って妖力を纏った玖弦だったが、その指先は菅埜宮ではなく左右に振られる。   際限なく放出される千隼の力に呼び寄せられて、内裏の襖や通路から次々と悪鬼が姿を現し始めたのだ。中級の悪鬼ともなると遠隔攻撃を使用する。口や手から生みだした瘴気を相手に向かって飛ばすのだ。当然のことながら標的は千隼である。 「余計なものまで呼び寄せよって」  玖弦の苛立ちは頂きを極めた。  千隼の霊力があれば中級の鬼にも太刀打ちできるはずだ。  しかし不安定な上にコントロールがきかない。  いつぞやも穴のあいた所から瘴気が入り込み、いきなり発熱して倒れたのである。  今回は数も多いし不安でしかなかった。  玖弦は目に見えぬ速さで指先を振り回し、黒い妖気を穿(うが)ち、的を外すことなく悪鬼どもを殲滅していく。  黄沈といえば、すました顔で悪鬼の攻撃を極小の動きで躱しながら、経を唱えるふりを続けていた。手を出すつもりはないらしい。玖弦の命令はどんな時も絶対なのである。 「あいつ。もう少し融通がきいてもよいと思うのだが」  当然のことであるが、黄沈がひらりと躱せばその後ろに座していた陰陽師に攻撃が当たる。幸運なことに今回は千隼に当たった攻撃は消滅するか弾かれていた。  いっそのことどちらかにしてくれたらよいのに、蒸発したと思えば弾かれて隣の黄沈に飛び、黄沈はさらにそれを避ける。  何ごともなければ読みやすい悪鬼の攻撃は千隼を起点として複雑な動きをみせ、ばたばたと陰陽師を失神させていった。    その様を玖弦は白い目で眺める。 (仲間を倒してどうするのだ、あのバカめ)  結界が弱まり悪鬼が侵入していたことはわかっていたが、これほどまで集まっていたとは。  小さく舌を鳴らしつつも、玖弦は新たな悪鬼達の殲滅しにかかる。  あまり強力な妖気を使っては他のものに感知されかねないから、菅埜宮に憑いた悪霊の妖気に混ぜるようにして力を調整して。  それでも殲滅するまでに、さした時間は要さなかった。 千隼が黄沈の隣に逃げ込んだときはむしゃくしゃしたが、終わってみるとやや気分がスッキリとしていた。  あちこち攻撃したおかげで気が紛れたのかもしれない。  とはいえ再び正面に目をやれば、菅埜宮に取り憑いた憐れな悪霊はいまだに悶絶を繰り返している。    玖弦は項垂れながら大きく息をつき、ぶんっと手首をひねった。 「……‼」  絶叫する暇すらなかったのだろう。  鬼は声も立てずに霧散した。  菅埜宮の額からツノが陽炎のように霞んで消え失せ爪も元の長さに戻る。  ふっと意識を失った菅埜宮はその場に崩れ落ちた。  まもなくして嘘のように天から暗雲が引いてゆき、部屋は明るさを取り戻した。満ちていた瘴気が綺麗さっぱり消え、秋らしい清涼たる空気が衣を凪ぐ。  平穏を取り戻した部屋に菅埜宮が横たわっている。  千隼は黄沈に肩を叩かれてようやく我に返ったらしい。  背後に倒れる大勢の陰陽師をみて悲鳴をあげていたが。    そこに、じじいの声が響き渡る。 「おお! 帝よ、悪霊は去りましたぞ!」  誇らしげに立ち上がったじじいの言葉に、近衛を含む全員から安堵の吐息がもれた。 「誠か。それは誠なのだな、陰陽頭よ!」 「誠でございます。不浄な悪霊の気はもうどこにもありませぬ。これも我ら陰陽師の力。菅埜宮様のお力になれたこと、誠に光栄の極み」 「なんと!」  帝は(はばか)ることもせず、菅埜宮に駆け寄って抱きしめた。 「菅埜宮!」  菅埜宮は動かない。 「菅埜宮よ、頼むから目を開けておくれ」  菅埜宮の睫毛がふるえた。だらりと下がっていた指先がぴくりと動き、数度まばたきを繰り返して目を覚ます。澄んだ瞳が帝を映し揺れ動いた。 「みか……ど」 「菅埜宮!」  帝の目には涙が浮かぶ。  彼女を強く抱きしめる帝からは、やまぬ愛情だけが見る者に伝わった。 「みな、よくやった! よくやってくれた! 感謝する!」  心からの声であった。  涙ながらに感謝を告げる帝の声は熱く、心が震える。  帝の叫びにみな誇らしげに顔を輝かせた。  互いに肩を抱き合って健闘を称え、生きていることに涙する者までいた。  さぞや大きな満足感に心が満たされているのだろう。  その中で口もとをひきつらせるのは玖弦ただひとり。  その称賛は俺にすべきだと言いたくて仕方がなかった。  すべては祓いの経を唱えた千隼のせいであるが。 (あいつ、あとから説教してやる) 「して、あれの正体はなんだったのだ」 「それは……」  帝の問いにじじいが言い淀む。  助けを求めるように後ろの陰陽師達を振り返ったが、半数以上は失神。残っているのは玖弦の周囲にいて攻撃を食らわなかった陰陽生のみ。  黄沈は我関せずを決め込んでいるので、答えられる者などいるはずがなかった。  そんな中、不機嫌そうな声が空気を断ち切る。 「あれは菅埜宮様そのもの」  声の主は玖弦であった。  帝もじじいも他のものも一斉に玖弦を振りかぶる。 「どういうことか」  帝の問いに玖弦は面倒くさそうに顔をしかめた。  最後までじじいの手柄にされてたまるかと口をだしたのだが、どうにも尻拭いをしている感じが否めない。 「あれは菅埜宮様が生み出した悪鬼だと申しておるのです。鬼は必ずしも外からやってくるのではない。すべては人が生み出したもの。もしや菅埜宮様には誰にも話せぬ悩みごとでもあるのではないですか」  菅埜宮が驚いたように玖弦を見た。  大きくなった瞳が小刻みに揺れ、小さな唇を噛みしめる。  帝の手を握る指にわずかに力がこめられた。  帝は驚いて菅埜宮を見る。  強ばる頬と玖弦を見る眼差しが、的をつかれたことを如実に語っていた。 「己で処理できぬ感情が菅埜宮様の魂を分かち、あのように現れたのです。僭越ではありますが、帝は心より菅埜宮様を寵愛されておられるご様子。打ち明けてみてはいかがでしょう。心が晴れれば、二度とあのような悪鬼が菅埜宮様に憑くことはありますまい」 「菅埜宮よ……いまの話は誠か?」 「帝……」  菅埜宮の目から涙が溢れた。 「どんなことでも話してくれ。よに至らぬことがあるのなら申して欲しい」  菅埜宮は帝にすがりつき子供のように泣いた。  そのあと菅埜宮はなかなか子を成せず苦しんでいたと噂が立った。側女に帝の寵愛が移ろうことを心配されていたらしい。  げすの勘ぐりに他ならないが、そんなことを口にしたのが目を刺された女房だった。  それから数ヶ月後、無事に菅埜宮は懐妊し、宮廷に吉報をもたらすこととなる。 「おまえ、よくあれの正体がわかったよな。おまえは口が悪いから陰陽頭は直接褒めたりしないけどさ。俺と二人きりのときにはしきりに感心してたよ」 「だからもうろくじじいというのだ」 「また!」  頬をふくらます千隼を鼻で笑う。 「でもさ。いつも不思議なんだけど、なんで鬼は俺のことじいちゃんだと思うんだろう。そんなに似てるのかなあ」 「何から何までそっくりだ」  思い浮かべるのはあいつの顔。  鬼気迫る顔も笑う顔も、毎日毎日思いだした。  千隼をみては思いだし、柿を食っては感慨に耽る。  玖弦が知ることすべてに忘れることなどなにひとつない。  だけどいまは、あいつの記憶に千隼が重なるようになった。  それがどこか嬉しい。   「なんだよ、それ。俺のじいちゃんのこと知らないだろ」 「そうだな……知らないことが多すぎた。だからおまえのことはよく知ろうと思っている」 「なにそれ」  気づいたらいなくなっていたなんて、あんな焦燥感は二度もいらない。  おまえとの戦いは楽しかったと、長い間ありがとうと伝えることすらできず。  必死に向き合おうとしたあいつに本気になることもしなかった。  悔しかったのではないだろうか。  それとも決着のつかない結末を知りながら訪れていたのだろうか。  いまとなっては確認のしようもない。  こうなる前にあいつと真剣に向き合えばよかった。  そうしたら最後の別れくらいできたかもしれないのに。    「鬼祖山の鬼を倒せるような陰陽師になれ。そうすれば、いずれわかる」  だからおまえだけは。   「無理だって。鬼祖山に踏み込んだとたんに死んじゃうよ」 「そうとも限らん。知っているだろう、あそこの鬼は熟れた柿が好物なのだ」 「じゃあ、俺。いつも熟れた柿を持ち歩くことにする」 「それなら鬼も離れんかもしれんな」 「ええっ、それ困る!」  玖弦は声をだして笑った。  冗談と受け取ったのか、つられて笑う千隼の手には熟れた柿。  玖弦の好物だからと自宅の木から取ってきたらしい。  千隼の家にはたくさんの柿の木がある。  はじめ渋柿ばかりだったそれらは、年月と共に甘柿へと変化を遂げた。  植え替えたわけでもないのに不思議だと千隼は首を傾げる。 「きっと稀代の陰陽師が甘くなるように護符でも仕込んだのだろう」 「柿って渋いものでしょ。なんでわざわざ」 「さあな」 ◇ 『おまえなあ。柿ってのは渋いもんなんだよ。熟れた甘いやつなんて贅沢いうな』 『知るか。渋いのは嫌いなのだ。今度持ってきたら都を襲うからな、覚悟しておけ』  その夜、柿の木の下に渋々護符を埋めるあいつをみて玖弦は腹を抱えた。        
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