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扉を開ければと、ふわっと何かの香りが吹き抜けた。
甘い花の香りに呼ばれるがままにリビングへ行けば、そこにはソファに腰を下ろした彼女がぼんやりと外を眺めていた。
「ただいま」
そう告げても彼女は返事をしなかった。
今までならどんなに夜遅くに帰ってきても『おかえり』と返してくれたはずなのに、と違和感を感じれば雅樂の口から発された言葉に耳を疑った。
「別れよう。私達」
ソファに腰を下ろしたまま、彼女はそう一言だけ告げた。
オレンジ色の夕暮れに照らされ真っ直ぐと前を向いたまま、俺に見向きもせずに淡々というその姿は俺が知ってる彼女じゃなかった。
「何でだよ」
突然言われた言葉が呑み込めない。
「もう上手くやっていけないよ」
「は、どういうことだよ。急に」
「急にじゃないよ。なにも分かってないじゃん、朱翔は」
その言葉に態度が癪に障った。
平然とした彼女は不機嫌になった俺を目に留めることなく、今度は外に目を向け俺には背中を向けた。
茉央と浮気してたことがバレた? それとも先週に改めて付き合ったことがバレた? さっきまでなかった罪悪感と浮気の代償がすぐそこまで来ているような気がして、俺は何とも言えない怒りが湧いてきた。
「お前なんだよさっきから。偉そうに言って」
「偉そうに……。本当に変わっちゃったね朱翔、それは私もなんだけどさ。笑い方も、仕草も、私が好きな朱翔じゃない。私が好きだったのはね、目を細めて笑って髪を撫でる癖の、隣で寄り添ってくれる朱翔なの」
遠い過去に想いを馳せながら語る彼女の表情は、風にさらわれていく黒髪と重なってよく見えない。
何も言えずに俺は静かにダイニングの椅子へと腰を下ろした。
「――――あの頃、本当に楽しくて何でも出来る気がした」
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