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○プロローグ
――――この世界は、少しだけ息がしづらい。
「ねぇ、タピオカ飲みながら帰ろーよ」
「いいじゃん!」
「タピオカとか久々なんだけど」
学校帰りの高校生。
短くしたスカートが風で揺れて、人混みが日常を彩る。
雑音なのかハーモニーなのか分からない音が溢れる中で、私も「いいね」と笑った。
(あ、いま空気を読んだ)
本当はタピオカが苦手。
モチモチするのはいいんだけど、ストローで吸って口の中に入ってくると喉が勝手に苦しくなるから。
噛めばいい話なんだけど、それが出来ないから苦手なの。
だけどそれは秘密。
みんなと同じように列に並んで私はそっと仮面を被る。
だって楽しそうな空気、壊したくないから。
華の女子高校生。男子も交えて帰りに寄り道。
いいじゃん。青春を満喫してるって感じ。
それを壊す勇気、私にはない。
空気を読むって悪いことじゃないでしょう?
大人になれば嫌でも顔色を伺って生きなくちゃいけないのなら、今からそう生きたっていいじゃない。
世の中、甘くないって言うおじさんたちの言うように、女子グループだって甘い世界じゃないんだから。
「ここのタピオカ、黒糖味だ!」
「ちょっとあんた、飲んでから気付いたんかい」
「タピオカはやっぱストロー太いねぇ」
生ぬるい風に前髪が揺れる。
店員から透明なプラスチックに入っている飲み物を受け取って、「わぁ」と喜べば高校生の景色に馴染んで消える。
決して目立つ事なかれ。出る杭は打たれる。
笑顔を作ってさぁ一口。
ほらほらみんなのように!
同じようにさぁどうぞ!
どうぞどうぞ、飲んじゃって!
「涙花(るいか)」
不意に腕を引かれ、唇に触れさせた太いストローが離れていく。
たたらを踏むのを堪えて振り返れば、黒い真っ直ぐな瞳がこちらの瞳を射貫いた。
「戌介(いぬかい)くん」
周りの友達から一歩だけ距離が出来る。だがそれに誰も気付かず、彼と私は高校生の世界から外れてしまう。
それに焦るのはいつだって私だけ。
「お前、タピオカ苦手だろ」
雑に伸ばされた黒い髪の毛は一応顔に掛からないように後ろで結ってある。
固そうな髪質に見えるけれど、触れれば柔らかいこと、でも少し傷んでいることを知っている。
だが彼は私がタピオカが苦手なことを知らない筈だ。
「なんで」
驚くことはない。その時期はもう過ぎた。むしろ知っている、否、気付いたことに若干引く。
「顔にそう書いてあるんだっつーの」
「……書いてない」
「俺には読める」
彼は私の手からタピオカを奪い、代わりに彼が持っていたそれを押しつけられる。
淡い茶色は同じもの。だがストローが太くない。
「同じミルクティーのタピオカ無し」
「タピオカ無し?」
「普通の飲み物も売ってただろ」
「そう、だっけ?」
店の方を振り返る仕草はただの形だ。メニュー表がここからはもう見えない。
呆れたような溜息も、もう何度目か。
「苦手なら言えって」
「でも」
「はいはい、どうせ楽しそうな空気を壊したくなかったって言うんだろ」
「どうせって……」
ムッと唇を尖らせる。
空気を読むのは大切だ。
自分勝手は嫌われる。我が儘は子供っぽい。
少しでも笑顔で、良い顔して、周りに合わせて、笑って。
だから――――
「バカくせ」
頭をくしゃりと撫でられる。
前髪が少しだけ持ち上がり、親指でそこを辿るように少し強めに触れていった。
「気ぃ使うなよ、俺がいんだから」
何度も言わせんな。
「俺に甘えろって」
――――だから、どうしてそうやって私が必死に作り上げているものを壊すの!
「あー! ちょっとそこのバカップルー! 私ら置いてイチャつくなー!」
「イチャついてるの分かってるんだったら空気読めよー」
少し離れたところからのクレームに、彼は笑って答える。
空気を読んだ私を責めたのに、相手には空気を読めと怒るのか。
「ほら行くぞ、涙花」
飲み物を持っていない方の手を取られ、そのまま恋人つなぎで歩き出す。
他の友達もいるのにと手を振ればあっけなく離れて、それから今度は小指だけが絡まり合った。
「…………」
「分かりやすいっつの、お前はよ」
「……そんなことない」
小指は振りほどけなかったことを指摘され、小さく文句を言う。
案の定というか、合流した友達からはからかわれる声が上がったものの、「もうそれなら恋人つなぎの方が良くね?」と笑われてしまった。
でも別に、世界は壊れていない。みんな楽しそうに笑っている。
そのことにホッとしながら、ちょっとやっぱり腹立たしい。
自分を犠牲に小さな秘密を抱えて、嘘の笑みを作ったのに、どうしてこうも簡単にそれらを飛び越えてしまうのか。
空気を読むことは悪いことではないのに、そこまで気にしていた自分がバカみたい。
チラリと横目で彼を見れば、すぐにこちらに気付いて「恋人つなぎにする?」と、口角で笑いながら聞いてくる。
全部分かっているという顔。
(あーもー、もう無理)
相手の小指をもいでやりたい気持ちを抑え、そのままそっぽを向いて唇を噛みしめる。
分かってる。
腹が立っているのも嘘じゃない。いつもいつもそうやって、と思う。
でも胸が痛いくらい弾むのももう無視出来なくて、今すぐ頭を抱えたい。
出会いは四月。
クラス替えがあった始業式。
高校一年はなんとか静かに終えたから、二年目も無難に過ごそうと思っていたのに、この男のせいで全てが崩れた。
生ぬるい風。
すでに春は終わりを迎え、夏の匂いを帯びている。
そんな移りゆく季節と共に私は、
戌介響。
(いぬかい ひびき)
この男にほだされ始めている。
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