いっぱい食わせる柴田さん

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「あら、見慣れない人ね。新しく入った人かしら。ちょっとテレビをつけてくれない」  施設のリビングでテーブルを拭く俺に、声が掛かった。  柴田さんだ。ショートカットの白髪が銀色に輝いている。  超VIPからの依頼に俺はすぐさまリモコンを操作した。  今、時の人である木下博士が映る。記者からのインタビューに答えていた。 「木下君はね、私の教え子なのよ」  柴田さんのほっそりとした頬が、おだやかにほころんでいる。  おかしいな。柴田さんが教師だったなんて聞いてない。教え子はいないだろう。  今日は四月一日。社会人になりたての俺は、入社したその日から現場に出た。福祉系の学校を卒業したため、即戦力として施設に投入されたのだ。  柴田さんのことは先輩からくわしく伝えられている。  なにせ超VIP。  俺が働くのは、千万単位の入所一時金が必要な高級老人ホーム。  ここを経営する会社の会長夫人の名前は、柴田市子。つまり今、俺と話をしている柴田さんなのだ。  会長が亡くなり独り暮らしとなってから、柴田さんはここに入った。施設がきちんと運営されているかを、自らが住みこんでチェックする。  とはいっても、小姑のようなネチネチ感はまったくなく、むしろ気遣いの人らしい。冗談をよく言い、職員から好かれているとのことだった。  今日はエイプリルフール。きっと、新米の俺がリラックスできるよう、ちょっとした嘘をネタに話し掛けてくれたのだろう。  テレビの中では、ノーベル賞をとった研究内容を木下博士が披露していた。理路整然とした、頭のいい話し方だ。 「木下君、中学の頃は成績がパッとしなかったの。サボってたのよね。これ、覚えてくるようにって私が言った歴史の暗記なんて、まるっきりやってこないんだから」  嘘だとわかっていても、俺は大仰に驚いた顔とあいづちで話を促した。 「中学生の男の子って、人の言うことなんて聞かないじゃない。それで私、考えたのよ。よく覚えているわ。今日と同じ四月一日だった。エイプリルフールだし、木下君のためだし。はずみをつけるために、嘘ついちゃえって」 「どんなこと言ったんですか」 「今ちゃんと勉強したら、キミは将来、天下に名を成す。頭いいんだから、もっとマジメにやれ、なんてね」  柴田さんはニコニコと笑っている。可愛らしいおばあさんだ。 「私が大学生の頃の話よ。四月一日って四月バカって言うじゃない。天下に名を成す、だなんて大げさで本当にバカみたいな励ましなのに、その日から木下君、顔つきが変わって勉強するようになったのよ。ふふふ。私、ノーベル賞とるような子を教えたの。いい思い出よ」 「えっと、大学生ってことは、塾のアルバイトかなにかですか」 「うーん。なんて言うのかな。ボランティアなのよ。町がね、公民館の一室で、中学生の勉強を支援するの。いろんな理由で、勉強につまずいている子がいるでしょ」  テレビの中では、記者からの質問が続いていた。 「先生は、子どもの頃からやはり優秀だったのですか」 「いやあ、それが全然ダメで。やる気がないし、家が貧しくて塾にも行けないし。でも、とある人のおかげで勉強するようになったんです。僕にとっては恩人ですよ」  おお、柴田さんのことだ。嘘だと思ってごめんなさい。 「織田先生、見てますか。あの時はお世話になりました」  博士は手を振り、深くお辞儀をした。  あら。今、織田先生って言ったよな。柴田さんは俺にいい笑顔を向けている。これはきっと、上手くかついだ満足感からくる笑みだ  なんだよー。柴田さんにまんまといっぱい食わされたよ。今日はエイプリルフール。こういう罪のない嘘を楽しむ日だ。  緊張で迎えた社会人一日目。柴田さんのおかげで、この先もやっていけそうな気がした。  五月の連休明け。柴田さんがテーブルで厚めの本をめくっている。  これは、誰かが話し掛けてくるのを待っているサインだ、と俺もわかるようになっていた。 「なに見てるんですか」 「高校の卒業アルバムよ。私にも若い頃があったのよ」 「そりゃそうでしょう」  二人で声をそろえて笑った。  横からのぞくと、詰め襟とセーラー服が校舎を背景にならんでいる。 「えーと、柴田さんはどこですか」 「これよ」  三段にならんだ列のちょうど真ん中あたりに、枯れた指が置かれた。  ショートカットは昔からで、かなりの美少女だった。 「おきれいですね」  思ったままを口にする。 「ありがとう。ほら、こっちの一人ずつの写真も、なかなかいいのよ」  顔が小さくしか写らない集合写真でも十分にきれいなのだ。アップになると当然、もっと魅力的だった。若き柴田さんは、俺にいっぱい食わせた時と同じいい笑顔で、写真に収まっていた。  ふと、名前が目に入る。  織田市子 「あああああ」  思わず大きな声が出た。  そうだよ。柴田さん、会長夫人だもんな。結婚したら、苗字が変わるよね。  柴田さんにそんな気はなくても、俺はすっかり、いっぱい食わされていた。
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