第一章 五月六日の幕開き

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 昨日飛び降りた少女と同じ中学二年生の頃、真司も死のうとしたことがあった。目に見える証拠の残らない言葉の暴力を、新年度から夏休みに入るその日まで、毎日毎日浴びせられた。嫌いなら放っておいてくれればいいのに、男子も女子も含まれる主犯格たち四人は、事あるごとに、いや何もなくても、いちいち尖った言葉を投げつけてきた。物を取られたり傷つけられたりすることはなかった。そのぶん、ただひたすら、言葉だけで、まだ柔らかい青葉のような心は、ずたずたになるまで傷つけられた。四人以外のクラスメイトは、みなプログラミングされたかのように、真司の心の悲鳴や、存在そのものを、無かったかのように扱った。  夏休みが終わる最後の深夜、首を吊ろうと家の押し入れからロープを引っ張り出しているのを母親に見つかり、慟哭と共にいじめの事実を訴えた。母親は翌朝学校に連絡を入れた。 「その後は、さっき俺が喋った通りの流れだ。いじめは無かったことになって、俺は学校に行くのをやめた。あの時何を言われたか、俺は今も覚えてる。それどころか、夢に出てくる日だってある。言葉ってのは、記録しなかったら消えると思ってる奴もいるらしいが、とんでもない。そこらの毒とは比べ物にならないくらいの、強烈な力を持っているんだ。だからずっと、言葉なんて嫌いだった。言葉をつかう人間に生まれたことが、人生最大の失敗だとすら感じられて、さっさと生まれ変わってしまおうって、その後も数え切れないくらい考えた。でも親父に勧められていやいや読んだ本がきっかけで、言葉には良い面もあるって知ったんだ。書くようになったのは、お前たちと出逢った時からだ、最初に言ってただろ。今は、言葉があって良かったと思ってる。……なんだよその顔は」 さっきまで真剣な面持ちだったはずの悟は、細長い目も薄い唇も緩ませて、のへぇとした表情になっていた。 「いや、一応僕たちと出逢ったことを、そう喜んでくれてるんだなって」 「そういう言い方やめろ。撤回するぞ」 「だめ、記録しなくても残るんでしょ」 笑い合う。もし人間に言葉がなかったら、二人は出逢わなかったのだろう。互いの言葉、紡ぐ物語に呼ばれるように出逢い、茉希も含め、共に生活をしようとは思わなかっただろう。 「今なら、書ける気がするよ、いじめの話。俺が、想田(そうだ)(そう)として、世界に訴えてやる。皿洗いだけ頼むな」 久方振りにそのペンネームを口にし、消えていく真司の背中は、午前中に比べてずっと逞しかった。過去と訣別したわけでも、和解したわけでもない。ただその事実から発生するエネルギーを、向けるべきところに注ごうという決意だけが、ありありと浮かんでいた。  翌日、入れ替わりで休みだった茉希に、洗濯物を干しながら悟は報告会をした。 「そう、真司、そんな話してたのね。大学四年間ほとんど毎日一緒に書いて、その後シェアハウスを始めてもう三ヶ月は経つのに、知らないことってあるものね。今朝どこか、真司の目の色が違う気がしたけど、正解らしいわ」 「共有した時間が、すべてを解決するわけじゃないんだね」 自分のジャージをハンガーに預けながら、ため息をつく。人間関係とは難しい。 「ある程度は大事でしょうけど、やっぱりコミュニケーションがいちばんよ」 「好きだね、それ」 「何が?」 「コミュニケーションって単語」 チークではなく内側から紅潮した頬を隠すように慌ててそっぽを向いてから、茉希は高い声でキャンキャン吠えた。 「単語が好きなわけじゃないわよ! べつにカタカナを使って気取ってるのでもないし。家族でも友達でも、最後はちゃんと話し合わなきゃ分かり合えないって、そういう話でしょう!」 「そうかな」 悟の返答は手応えと呼べなかったらしく、茉希は主張を続けた。 「そういうものよ。悟は感情を隠そうともしないし、周りがあなたの気持ちを汲み取ろうとしてあげてるから、だいたいの要望は伝わってるかもしれないけど。でも本当は、言葉でしか伝えられないことって、いくらでもあるんだから。悟だって、物語を言葉で書いて、それで伝えようとしてるじゃない。核心であればあるほど、言葉が持つパワーが必要なのよ」 「……なるほど」 書くことに絡められると、納得してしまう。洗濯バサミすべてが仕事を受け取り、ずっしりと重くなったピンチハンガーを、悟の部屋を通ってバルコニーに運ぶ。 「相変わらず散らかった部屋ね。足の踏み場もない。真司が泡吹いて倒れるわよ」 あの男は、整理整頓が特技だった。 「僕が困ってないから大丈夫だよ」 茉希はもう、何度目かわからない悟への諦めを受け入れた。 「久しぶりに、『分子雲』を作らない?」 彼らにとって馴染み深いそのワードが、茉希によって三〇五号室の話題に上げられたのは、暦ではとうに終わったはずの夏を、太陽がしつこく引きずっている頃だった。昼食にはこの日も、そうめんが登場している。
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