第二章 十二月二十四日の震盪

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 書くことで、悟は生き続けられるような気がしていた。病気の存在を、忘れられるとさえ思っていた。自分は書く為に生まれてきたから、書いていれば生きられる、と。本気で、そう信じていた。けれど。 「これが、現実っていうものだよね」 発病以来、悟はほとんどの時間を創作に充てていた。三〇五号室で過ごした日々よりもさらに、ただひたすら、小説のことだけを考えていた。それはひょっとすると、逃げていただけなのかもしれない。自分が病気で、余命宣告をされる状況であるという事実から、目を逸らしていたにすぎないのだろう。 「僕は弱い」 独白は続く。止められなかった。 「何よりも、自分の体調をいちばんに考えないといけない時でさえ、フィクションの世界に逃げ込んで。書けばいい、書いてさえいればいい、そう言い聞かせて、見ないふりをして。小説を書いても、僕は生きられないのに」 「それは違います」 力強く悟の話を切り裂いたのは、愛子の声、ではなかった。渉太だった。 「悟さんは、書いて生きるんです。その為に生まれてきた人だから。どんな時でも、書くことを優先する悟さんは、書かないといけないんです。生きることを、書くことを、諦めないでください」 もう二度と言いませんからね、と釘を刺して、渉太は立ち上がった。 「こんな心臓に生まれて、趣味も夢も目標もなく、『普通の人生』を送ることにぼうっと憧れてる高校生を前に、贅沢言わないでもらえますか。悟さんが書いているのには、理由があるんですよね」 怒りと侮蔑とをひっくるめて、彼は続ける。 「悟さんは、書いていれば生きられます。でもどうしても、肉体が追いつかないと仰るのならまずは、寝てください、食べてください。休んでください。心臓病じゃなくても、走り続けると息があがるはずですよ、僕は歩いただけでそうですけど」 悟の右腕を掴んでくる。精一杯なのだろうが、ちっとも痛くない。それが、悟には怖かった。 「書く為に、生きるんですよ」 腕力ではなく眼力で、渉太は断言した。  生きることに、しがみついてこなかった。いつかはみな死ぬ、ならば生きたことは証明したい。だが小説家として一定の線に達したことで、どこか、もう満足していたのかもしれない。 「生き物は、生きようとするものなんです、本能で。忘れましたか」 「私たちのことはもう、いいです」 今度は愛子がティッシュの世話になりながら、首を何度も横に往復させていた。 「私たちのことを書く為に疲れ切ってしまわれるくらいなら、いっそ忘れて、先生の書きたいことだけを書いてください。なんでも、読みます」 「そんなことは思っていないよ」 「でももう、しんどいって」 そんなの嫌なんです、大好きな先生の負担になるなんてと、愛子は何度も繰り返した。  悟はただ、悔やんだ。 「ごめんね、僕がこんな話したから」 「吐き出したっていいじゃないですか、俺らで良かったらいつでも」 目線を合わせて屈み込んでくれる冬翔に、そっと微笑む。 「大丈夫、ありがとう。あとは四人でゆっくり楽しんで」 ガランとする七〇八号室に戻る。  ベッドに腰掛けた途端、腹部が激しく痛んだ。白いシーツに倒れ込む。もはや慣れているはずだった。 「なんで……」 ひとり、言葉を絞る。 「なんで、僕は……!」 枕が濡れていく。 「書きたい……」 反射的に、漏れる言葉たち。 「ずっと、書きたい……!」 呼吸することさえ、辛いのに。 「書いて、生きてたい……」 嗚咽が落ちていく。 「書けない……、なんで……、苦しい……」 我慢ができない。 「悔しい……!」 誰に聞いてほしいわけでもなく。 「なんで、僕は……」 うずくまる。 「書くことさえ、できればいいのに……」 身体が、痛みにがくがくと震える。  止まらなかった。止めようとすら、しなかった。薬を飲むことも忘れて、ただひたすらに、泣き喚く。ぜんぶが、痛かった。 「悟……?」 駆け寄ってきたのは、茉希だった。 「どうしたの」 泣きじゃくる悟を、茉希は優しく、優しく、抱きしめるように背中を撫でた。 「大丈夫よ」 握ってくれた手は、渉太よりも力強かった。 「私たちがいるから」 背を、腕を、さすりながら。 「それに、悟には小説があるわ」 「……もう、書けないって僕……」 「まだ言ってるの?」 茉希は左手を悟に添えながら、鞄を探った。取り出されたのは、一冊の文庫本。 「『分子雲仲間編』……?」 表紙をめくる。最初にぽつんと佇む「仲間編」の文字。 「私が側にいたら、感動しても思う存分泣けないでしょうから、外すわ。来てすぐ帰るのは、初めてじゃないから」 彼女は一度頭を振って、悟が落ち着いたのを確認するとすぐに、出て行ってしまった。  部屋には放心した悟と、『分子雲仲間編』だけが取り残された。
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