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書くことで、悟は生き続けられるような気がしていた。病気の存在を、忘れられるとさえ思っていた。自分は書く為に生まれてきたから、書いていれば生きられる、と。本気で、そう信じていた。けれど。
「これが、現実っていうものだよね」
発病以来、悟はほとんどの時間を創作に充てていた。三〇五号室で過ごした日々よりもさらに、ただひたすら、小説のことだけを考えていた。それはひょっとすると、逃げていただけなのかもしれない。自分が病気で、余命宣告をされる状況であるという事実から、目を逸らしていたにすぎないのだろう。
「僕は弱い」
独白は続く。止められなかった。
「何よりも、自分の体調をいちばんに考えないといけない時でさえ、フィクションの世界に逃げ込んで。書けばいい、書いてさえいればいい、そう言い聞かせて、見ないふりをして。小説を書いても、僕は生きられないのに」
「それは違います」
力強く悟の話を切り裂いたのは、愛子の声、ではなかった。渉太だった。
「悟さんは、書いて生きるんです。その為に生まれてきた人だから。どんな時でも、書くことを優先する悟さんは、書かないといけないんです。生きることを、書くことを、諦めないでください」
もう二度と言いませんからね、と釘を刺して、渉太は立ち上がった。
「こんな心臓に生まれて、趣味も夢も目標もなく、『普通の人生』を送ることにぼうっと憧れてる高校生を前に、贅沢言わないでもらえますか。悟さんが書いているのには、理由があるんですよね」
怒りと侮蔑とをひっくるめて、彼は続ける。
「悟さんは、書いていれば生きられます。でもどうしても、肉体が追いつかないと仰るのならまずは、寝てください、食べてください。休んでください。心臓病じゃなくても、走り続けると息があがるはずですよ、僕は歩いただけでそうですけど」
悟の右腕を掴んでくる。精一杯なのだろうが、ちっとも痛くない。それが、悟には怖かった。
「書く為に、生きるんですよ」
腕力ではなく眼力で、渉太は断言した。
生きることに、しがみついてこなかった。いつかはみな死ぬ、ならば生きたことは証明したい。だが小説家として一定の線に達したことで、どこか、もう満足していたのかもしれない。
「生き物は、生きようとするものなんです、本能で。忘れましたか」
「私たちのことはもう、いいです」
今度は愛子がティッシュの世話になりながら、首を何度も横に往復させていた。
「私たちのことを書く為に疲れ切ってしまわれるくらいなら、いっそ忘れて、先生の書きたいことだけを書いてください。なんでも、読みます」
「そんなことは思っていないよ」
「でももう、しんどいって」
そんなの嫌なんです、大好きな先生の負担になるなんてと、愛子は何度も繰り返した。
悟はただ、悔やんだ。
「ごめんね、僕がこんな話したから」
「吐き出したっていいじゃないですか、俺らで良かったらいつでも」
目線を合わせて屈み込んでくれる冬翔に、そっと微笑む。
「大丈夫、ありがとう。あとは四人でゆっくり楽しんで」
ガランとする七〇八号室に戻る。
ベッドに腰掛けた途端、腹部が激しく痛んだ。白いシーツに倒れ込む。もはや慣れているはずだった。
「なんで……」
ひとり、言葉を絞る。
「なんで、僕は……!」
枕が濡れていく。
「書きたい……」
反射的に、漏れる言葉たち。
「ずっと、書きたい……!」
呼吸することさえ、辛いのに。
「書いて、生きてたい……」
嗚咽が落ちていく。
「書けない……、なんで……、苦しい……」
我慢ができない。
「悔しい……!」
誰に聞いてほしいわけでもなく。
「なんで、僕は……」
うずくまる。
「書くことさえ、できればいいのに……」
身体が、痛みにがくがくと震える。
止まらなかった。止めようとすら、しなかった。薬を飲むことも忘れて、ただひたすらに、泣き喚く。ぜんぶが、痛かった。
「悟……?」
駆け寄ってきたのは、茉希だった。
「どうしたの」
泣きじゃくる悟を、茉希は優しく、優しく、抱きしめるように背中を撫でた。
「大丈夫よ」
握ってくれた手は、渉太よりも力強かった。
「私たちがいるから」
背を、腕を、さすりながら。
「それに、悟には小説があるわ」
「……もう、書けないって僕……」
「まだ言ってるの?」
茉希は左手を悟に添えながら、鞄を探った。取り出されたのは、一冊の文庫本。
「『分子雲仲間編』……?」
表紙をめくる。最初にぽつんと佇む「仲間編」の文字。
「私が側にいたら、感動しても思う存分泣けないでしょうから、外すわ。来てすぐ帰るのは、初めてじゃないから」
彼女は一度頭を振って、悟が落ち着いたのを確認するとすぐに、出て行ってしまった。
部屋には放心した悟と、『分子雲仲間編』だけが取り残された。
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