第二章 十二月二十四日の震盪

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 翌朝、悟の目覚めは数週間ぶりに、爽やかなものであった。 「調子が良さそうですね、何かあったんですか?」 朝の検温にやってきた宮内も、その顔色を見てすぐに、表情の彩度をぱっと上げた。 「久し振りに、小説を読んだんです」 看護師はその朝のように笑った。さすがですね、と白い歯を見せる。 「遠野さんが元気になるには、やっぱり小説が必要なんですね」 「あと、仲間と」 恥ずかしげもなく断言した。同意と肯定を頷きに込め、用事を済ませて出ていこうとする宮内の背を、声で追いかける。 「あの、藤野先生に、お伺いしたいことがあります」 「何でしょう?」 「一晩だけで良いので、外泊許可をいただけませんか、と」 「わかりました、訊いてみますね」 にこやかに退室していく。  自分でも、少し驚いていた。入院してから今まで、特別ここを出たいとは思わなかった。ここを出て三〇五号室に戻るということは、茉希と真司にとって負担になることが、わかりきっていたから。彼らは無論、そうは言わないだろう。けれど事実として、気にかけなくてはならないこともあるし、万一の際は病院にいた方がお互いの為にもなる。  わかっているけれど、どうしても一つ、叶えておきたいことがあった。喚いても足掻いても、叶えられなくなってしまう前に、一つだけ。  その返答は、太陽がちょうどいちばん上に到達する頃、藤野本人によって届けられた。 「一泊の外泊許可なら、出せますよ」 目はそのまま、口角だけ上げて、開口一番に藤野は言った。 「いつ頃がご希望ですか」 「……四月二十日に」 悟が人生で具体的な日付を口にした回数は、数えられるほどしかない。 「問題ないですよ。それが終わったら、お薬を変えてみましょう。効き目が見込めるぶん、副作用もきつい可能性があるので、ゆっくりお出掛けされるなら今度はチャンスですね」 最後の、とは言葉にされなかったが、伝わった。次の薬がよほどの効果を発揮しない限り、自分がこのベッド以外で眠るのは今度が最後なのだろう。  悟はすぐに、茉希と真司にメッセージを送信した。お願いがあるからそのうち来てほしい、というメッセージには、ほどなく返事があった。 『たまたまだけど、もうすぐ着くわよ』 何かしら返そうとスマートフォンを握ったところで、扉が開いた。 「早いね」 「本当に、たまたまよ。びっくりしちゃった。ところでお願いって何?」 早々に丸椅子に腰掛ける茉希に対して、真司はやや遅れてやってきた。 「遅いね」 「車を停めてて」 言ってしまってから真司は、秘密を漏らしてしまったかのようにいたずらな笑みを浮かべた。 「車? 無免許?」 「馬鹿言え。何かの時に必要になるかもしれないから、あれから車の免許を取ったんだ。買い物のついでもあるし、今日はそれで来たんだよ」 「へえ、バイク以外にも興味があったんだね。あ、でも良いことを聞いたな」 脳内にアイディアが、ぴかりと輝く。 「今度、乗せてよ。僕の誕生日に」 茉希も真司も、瞳孔を限界まで開かせた。無理もない。 「まず、お前が『誕生日』なんて単語を使うなんて考えられない」 「今日が誕生日から、遠くない日付だってことがわかってることも驚きだわ」 「二人とも、僕を人間じゃないと思っているわけ?」 「時間管理だけはな」 頭に左手を当て、真司は驚愕に溺れていた。  悟は子供のように嬉々として、計画を語った。  四月二十日に外泊許可をもらったこと。その時にどうしても、年末に行けなかった旅館に行きたいということ。茉希があんなに楽しみにしていた旅行を、だめにしてしまって申し訳なかったから、どうにか三人でリベンジしたかったのだということ。 「交通手段だけ、どうしようかと思ってたけど、真司が運転できるのなら問題ないね」 「まだそんなに慣れていないぞ」 「頑張って練習しておいてよ。仲間の為に」 『分子雲』を掲げる。それはページ数では測れない重みが、たっぷりと含まれた言葉たちだった。  四月二十日の朝は、夜中の雨雲が太陽によって押しのけられたかのような、快活な晴天だった。  許可を得てエントランス前へつけた車に乗り込んで、悟は見送りに来た宮内に、手を挙げて応える。 「お気を付けて、思う存分楽しんできてくださいね」 運転席の窓を開けてもらい、宮内は小さな紙切れを真司に手渡す。それには細かく、服薬についてや各種注意事項、万一何かあった時にまずできる応急処置などが、丁寧に書き並べられていた。  真司が礼を言って、車を発進させる。濡れたままのタイヤが、期待の声をあげた。  目的の旅館は順当に行けば、三時間半で到着する距離にあった。病院からほど遠くないインターチェンジから、高速道路へと入っていく。ビル群をぱっくりと裂くその道は、渋滞もなくすらすらと流れていた。 「調子はどうだ? 正直に言えよ」 運転席から、フロントガラスに跳ね返された声が届く。今年に入って初めて目に映る外の景色に、悟の意識は吸い込まれていた。左手に座る茉希に改めて声を掛けられ、ようやく現実へと戻ってくる。 「ごめん、何?」 「体調はどうなのって。この様子、心配になるわ。大丈夫?」 「久し振りに病院の外に出たから、つい。あと昨日の夜あんまり寝られなかったから、ちょっと眠いかな」 「遠足前の子供じゃないんだから」 茉希の呆れが染み込んだ声色は、出逢ってから何度耳にしただろう。残り半年の命と言われるようになっても尚、悟は自分の何がそんなに彼女をそうさせるのか、よくわからなかった。  風景に、緑の割合が増えていく。窓を開けると、青い晩春の空気が、勢いよく流れ込んできた。夜雨の雫がきらめく葉は、触れ合って歓迎の音を立てているようだ。山を越えた先にある今日これからの出来事が、途端に現実味を帯びて感じられた。 「楽しみだね」 「急にどうしたんだよ」 二人にとっては、まったく脈略のない発言だったことに気付く。
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