第二章 十二月二十四日の震盪

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「景色を見てたら、もうすぐだなあって思って」 「気が早いわ。まだ三時間くらいかかるわよ。途中、サービスエリアにも寄りたいし」 「そんなの、ドライブを満喫してたらすぐだよ。四ヶ月待ったことを思えば、あっという間でしょ?」 自分でも驚くほどに、悟は移動からすでに、この旅行を堪能しているようだった。真司が一瞬だけ、何かを言おうと口を開きかけた。でもすぐに、頭に浮かんだ考えを振り払うように、やめてしまった。  楽しくなってしまったのは悟だけではないらしく、気温もぐんぐん上昇していく。昼過ぎに辿り着いたサービスエリアでは、多くの客が、ソフトクリーム片手に車へと戻っている。  茉希と真司は、冷たいうどんをそれぞれ食べていた。悟はそれを、一口ずつもらうだけでじゅうぶんだった。 「本当にこれだけで良いの?」 茉希は疑り深く、目を細めている。 「これでも、食べられるようになった方だから」 「旅館に着いたら、晩飯はもっと豪華だぞ」 めんつゆの中でとろろを混ぜながら、真司も同じ目をしてくる。 「食べられるだけ、食べるね」 ほんの少し、寂しい。元から食が細めではあったけれど、成人男性として一定の量は食べていた。それが今は、人の食事を分けてもらうだけで事足りてしまう。食欲という概念とは、ご無沙汰していた。  でも、ベッドから起き上がれずにもがいていた頃を考えれば、こうして旅行に来ることができているという事実だけで、悟の心はたっぷり満たされていた。人工的な光や、外界と自分を分け隔てる壁、それら以外を眺められるだけで、幸せを溢れるほどに感じられる。何よりすぐそばに、仲間たちがいる。『分子雲仲間編』は、あれから何度も読み返していた。  飯田五葉による『白い朝顔』、想田創の『補欠』、似て非なる空気をまとう二作は、それぞれ作者の想いがぎっしり詰まっている。 「茉希が『白い朝顔』に書くほど、僕は君に何もしてないよ」 「あなたが気付いていないだけよ」 ざるうどんと一緒に盆に乗せた海老の天ぷらから、茉希は目を離していない。  『白い朝顔』は、花火大会の事故で火傷を負い、引きこもりがちになってしまった少年と、その母親の物語だ。夏なんて二度と来なくていい、そう繰り返す息子の将来を案じた母親は、朝顔の種を買ってくる。庭に並んで世話をするうち、少しずつ花開くその時を心待ちにするようになっていく。そして咲いた美しい朝顔の中に、白い花をつけたものがあった。母がたいそうそれを気に入ったのを見て、少年は外の世界に踏み出して、調べはじめる。やがて大人に、植物学者になった息子は、「白い朝顔を咲かせ続ける種」を作り、母に贈るのであった。 「これ、花言葉に関係してるんだよね。『固い絆で結ばれる彼らの元に、あふれる喜びの花が咲きほこる』ってところ」 「悟は確実に、物語からメッセージを受け取ってくれるから、書き甲斐があるわ」 茉希の手がうどんに伸びる。 「海老の尻尾、食べないんだ」 「固いでしょう? それでまた悟は、しょうもないことで話を遮って」 「俺、食う」 「どうぞ」 つんとして、真司にそれを明け渡す。 「君たちの書き方だよ」 「それで急に話を戻すでしょう、ややこしいのよ」 今度こそざるうどんを食べて、茉希は喉と頭を冷やす。 「俺もまとめてくれたみたいだな」 構わず、海老の尻尾を味わう真司は、上機嫌だった。  『補欠』は野球少年の話だ。地域のチームで最年長メンバーの一人に数えられるにも関わらず、補欠という立ち位置から動けない主人公。それでも彼が、野球を嫌いになることはなかった。何よりもまずプロ野球観戦が好きだったのである。ある日彼は幸運にもホームランボールを取り、選手と直接話してサインをもらう機会にまで恵まれた。選手は少年の姿に気付き、礼を述べる。少年がホームランボールをその手に取った瞬間の歓喜の表情が、スクリーンに映っていたのが忘れられないと言う。そして、実際にプレーする選手以外の存在について語られた。観る人、サポートする人、そして補欠メンバー。彼らがいるから、安心してグラウンドに立つことができるのだという選手の言葉に、少年は認められたように感じるのだ。 「俺はべつに、お前の控えってわけじゃないけど。ただ俺はお前が、目の前の小説を書くことに集中してくれればそれで」 「わかってる」 悟は、うどんを一本すすった。 「読んで、ぜんぶ伝わった。君たちが思うほど、僕は優れた人間ではないとは思うけどね、そうやって認めてくれるうちは、その言葉に甘えてみようと思ったよ」 一旦、箸を置く。 「これが、誰かの為に書かれた小説の力なんだね」 『学園という名の宇宙の中で』は、園井の推測通りの結果をもたらした。運も良かったのだろうが、井ノ屋証の学園青春小説は、それとして世の中に受け入れられていた。  出版されるその日まで、この作品に真の力があるのかと悩み続けていた自分もいる。けれど今は、書いて良かったと胸を張れる。『分子雲仲間編』は、悟を丸ごと包み込んでくれた。 「ありがとう」 「なんか、照れくさいな、そういうの」 はにかんでまたうどんに集中する真司に、やっぱり悟は首を傾げる。 「噛んでる?」 「当たり前だろ、何回聞くんだ」 完食までに要した時間は、三人ほぼ同じだった。
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