第二章 十二月二十四日の震盪

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 数十分前に見た多くの人たちと同じように、真っ白いソフトクリームを購入してから車に戻る。カップとスプーンを一つずつもらって、二本のそれを三人で分け合った。  そこから三十分も走れば、眺望は大きく変化した。高地の道から見下ろした先は、輝く海原であった。夜中に雨を降らせたことなど忘れたかのように、夏より一足早く、汗ばむ陽気を注ぐ空。車内は感嘆に包まれた。 「海を見たのは久し振りだわ。なんて綺麗なのかしら。今度の小説、海を舞台にするのも良いかもしれないわ」 茉希は窓に張り付いている。 「どんなお話?」 「そうね、クラゲとウミガメの恋はどう? 確かウミガメは、クラゲの毒なんて気にせず食べちゃうんでしょう?」 「飯田五葉らしいファンタジーだなあ」 真司は納得するように笑っている。突っ掛かりそうな茉希を、ルームミラーから確認したらしい。 「褒めてるつもりだぞ」 そう付け足した。 「本当に? パターン化してるって言いたいんじゃない?」 「まさか、そんなこと思ってない。俺は『想田創らしい物語だ』って言われたら、飛び上がって喜ぶと思う。だっていくつかの物語とその作者が、誰かの中で結び付いているんだぜ」 「言いたいこと、わかるよ」 悟も加わった。  悟自身も、園井に言われたことがある。『命の音』について最初に話した時、実話をベースにしていながらも井ノ屋証のカラーを感じられる、と太鼓判を押されたのだ。 「茉希にしか書けない物語を書いてるってことだよ」 園井の言葉にもらった自信を、悟は彼女に繋いだ。 「思うように書けば良い」 瞳の奥、その心へ直接届くように、伝えようとして。  悟はあと何作も、茉希や真司の、いや飯田五葉や想田創の物語を、読むことはないかもしれない。加えて彼らと、創作について語り合うことも、できなくなるかもしれない。だからこそ、自分の中にある創作論は、すべてぶつけ合っておきたかった。 「私は、悟みたいな天才じゃないのよ。思うように書くだけじゃ、物語が破綻しちゃうわ」 言いながらも茉希は、悟の主張を受け入れたようだった。  ほどなく、車は高速道路を降りた。青信号になるたびに、目的地へと近づいていくのが手に取るように感じられる。 「もうすぐ着くぞ。たぶんあれだ」 真司が指した先には、海辺にどっしりと構える旅館があった。  砂利の敷き詰められた駐車場に降り立つ。潮の香りが出迎えてくれた。力と意識を脚に集中させて、入り口へと歩く。  幅があり背の低いその旅館は、横長の玄関に藍色ののれんがかけられていた。自動ドアをくぐった先のロビーは吹き抜け。右手に待つフロントには真司が一人で向かい、悟は茉希と並んで、待合用のソファに沈む。  チェックインが済むと、ガラス窓に囲まれた長い廊下から中庭を眺めつつ、別館へと入っていく。一階の左から二番目が、今日の宿だ。扉は木目調でこそあるが、開き戸であった。渡された鍵が、ガチャリと始まりを告げる。 「素敵なお部屋」 一畳程度の玄関で靴を脱ぐ。目の前では上品な和室が、開放されて手招きしていた。  中央に鎮座する大きな座卓、間隔をたっぷりあけて並べられた、えんじ色の座布団。左奥には、布団が仕舞われた押入れがある。玄関から見て正面は、襖を開けると全面ガラス戸で、そこから各部屋に備わる露天風呂へ出ることができた。部屋の中からでも、海の穏やかな波音が聞こえるほど、それは目と鼻の先にあった。 「テレビで観たよりずっと、海が近い気がするわ」 「やっぱり本物は違うな」 「音も香りもする」 三人ともバッグを下ろすことすら忘れて見入った。  日没、そして夕食まではまだ時間があったので、早速露天風呂に入ることにした。もう待ちきれなかった茉希が、先陣を切ることはすぐ決まり、襖がピシャリと閉められる。  長時間の運転に疲れた真司と、外の世界の刺激に負けた悟がぐっすり眠っている間に、茉希はすっかり浴衣姿になっていた。 「ほら起きなさい、ねぼすけたち。寝顔の写真なら頂いたわよ。二人とも並んで寝息を立てて、双子みたい」 「もう終わったの? どうだった?」 「あまりにも気持ちが良くて、つい長風呂しちゃったなって焦って出てきたらこれよ。それならもう少し入っていたかったわ」 「晩御飯の後、また入れば?」 「そうさせてもらうわ」 「念願だものね」 真司は悟の言葉に、ぴくんと反応していた。  一人では心配だと、悟は露天風呂を独占させてもらえなかった。 「あのさ、悟」 表面張力で保たれるお湯に、顎先まで浸かって、真司は重そうに口を開いた。 「この四ヶ月、どう思ってた?」 「どう、って?」 「その、病気になってから、気持ちの変化はあったか?」 「そりゃあね」 悟はつとめて明るく答えた。  改めて振り返る。  病気になってから、かなりの時間が経過した気でいたが、まだ半年にもなっていないのか。痛みに苦しめられ、食事そのものも嫌いになって。渉太たちと出逢って『命の音』書いてきたが、薬が効かず癌は自由気ままに転移してみせた。どこかにまだ引っかかるようにして残っていた楽観が流されてしまい、人生で初めて、書く気が起こらなかった。『分子雲仲間編』のおかげで、少しは心が元気になり、今度の旅行が決まった。その間、ずっとずっと、灯り続けていた感情がある。 「……申し訳なかった」
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