第二章 十二月二十四日の震盪

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「何が?」 真司は痛憤を隠さなかった。 「お前は何も悪いことなんか、していないだろ。迷惑をかけたとか、そういうことは絶対に考えるな」 「違う、聞いて」 さざなみが続きを促す。 「僕はずっと、同じでいたかった。ただ書いて生きている三人で、ずっとありたかった。ドラマチックな事件なんて起きない日常を過ごして、ドラマチックな物語を創って文字にして。特別な人生じゃなくても、書くことで生きたことを証明できれば、それで良かった。一緒に住むようになって一年半、僕はすごく幸せだったんだ。理想が叶ったみたいだった。でもそれを、僕の手で壊してしまった」 最後に見た自室の景色は、当時の朦朧とする意識の中で、ほとんどぼやけていた。 「お前が壊したわけじゃないだろ」 「僕だよ。茉希の言うとおり、体調が悪いのを黙っていた自分が現状を招いたのは、紛れもない事実だから。もっと早くに、自分から病院に行っていれば、少しは違ったかもしれない。おじいちゃんと同じ病気だったのに、それに気付かないなんてね」 嗤う。 「ううん、それも違う。正直に話すよ。気付いてたけど、認めたくなかっただけなんだ。臆病でしょ、そのせいで後から、もっと大変な思いをするのに。自分だけじゃなくて、真司にも茉希にも、色々負担がいってしまうのにね。だから、申し訳ないってずっと思ってた。あれから四ヶ月間で起きた出来事のうちいくつかは、防げたかもしれないって、今なら思うから」 呼吸をする。 「ごめんね」 「もう謝るなよ、過ぎたことなんだろ」 悟の背を一度、優しく叩いた真司の掌は、大きかった。  渉太が並べた不可解な理論が、真司の中で晴れていく。宇宙人、他人の飼い犬、それらが意味することが見えてくる。  自分以外のことは、わかるはずなどなかった。悟の心情は、たとえ同居人であっても、咀嚼しきれるものではないのだ。だから話す、コミュニケーションをとる。人間には、言葉がある。それを飛び越えて、相手を理解した気になってしまうのは傲慢だ。犬なら撫でられたいに決まっている、そんなのは曲解だ。 「俺も、悪かったよ」 「何が?」 「お前はうちの犬じゃない」 ぽかんとする悟に、真司は構わなかった。  海に飲み込まれていく夕陽を三人並んで見つめ、他愛もない話題を次から次へと転がしているうちに、夕食は運ばれてきた。 「お料理は二人前でご予約ですが、お間違いないですか」 悟は真司に、予約の際に食事は二人分にするよう頼んであった。そのため旅館に電話をかけて事情を話し、宿泊人数と食事の注文数が異なっても良いかと尋ね、許可をもらっていた。三人が頷いたのを確認して、仲居は下がる。 「どれなら食べられそう?」 魚は生でも焼いた状態でも並び、天ぷらや茶碗蒸し、出汁が香る小鉢からデザートの果物に至るまで、それぞれが机の上で胸を張っている。  美味しそう、と、心から思った。 「食べられないもの、ないかも」 目を輝かせ、茉希は少しずつすべての料理を、小皿に盛り付けた。悟だけの、小さなコースが完成する。 「お子様セットだ」 「僕は子供じゃないよ」 「私に言わせれば、子供みたいなものよ。今も昔も変わらず」 春の淡い星空に見守られながら、三人の会話が尽きることはなかった。このまま時が止まれば良いのになんて、らしくないことを考えてしまう。 「お誕生日おめでとう、悟」 真司がこっそり持ってきていた「本日の主役」と主張する懐かしいたすきは、黙って受け入れられた。  少々豪華に着飾った、日本の伝統的な朝食を堪能し、昨日と同じく茉希から露天風呂に入り直し、後ろ髪引かれる思いで旅館を後にする。  三人でのドライブはこれが最後と、悟は一睡もしないと決め込んで車に揺られていた。 「しりとりしようよ」 「やっぱり子供だわ」 「好きに言ってて。長距離ドライブといえば、しりとりだよ」 「俺らでやったことはないと思うぞ。いつの記憶だよ」 脳内で検索をかけてみる。たぶん、小学生時代の家族旅行で刷り込まれた慣習だろう。 「しりとり」 「……りんご」 勝手に始めると、運転手が繋いでくれた。こうなると茉希も、参加せざるを得ない。 「胡麻」 「窓」 「どんぐり」 「リス」 「膵臓」 「現実的すぎる、却下。なんかお前、渉太くんに似てきてない?」 少年が幼い悪魔のように、キキキと笑うのが聞こえた気がした。 「ずっと彼をモデルに書いてるからかな」 「登場人物が乗り移ってるってこと? それで、『命の音』はどこまで進んだの?」 茉希の言葉によって、井ノ屋証が目を覚ます。 「ネタバレになるから詳細は言えないけど、もうほとんどクライマックスだったんだ。その状態でしばらく、作品から離れてたわけだけどね。帰ってからあと数シーン書けば、見直しに入れる」 「書いていていちばん、気分が上がるところね。出来上がりを楽しみにしているわ」 茉希は恍惚として微笑んだ。  往路とは別のサービスエリアで休憩をとり、渋滞につかまることもなく進んでいく。予め病院に伝えていたちょうど十分前、車は到着した。 「じゃあ、俺たちは一旦帰るから。すみません、あとはよろしくお願いします」 宮内にぺこりと頭を下げて、悟に三度手を振ってから、真司は車に戻った。  三〇五号室に向けて走り出して一分と経たずに、後部座席から啜り泣きが聞こえてきて、真司は心底ぎょっとした。ちょうど赤信号だったので振り返って直接確認すると、茉希がハンカチ片手に号泣している。 「やめてくれよ、一瞬ホラーかと思っただろ」 「そんな言い方しないでよ。ただちょっと、寂しくなっちゃったの」 何がとは、聞くまでもなかった。  終始笑顔の、愉快な旅行であったことは間違いない。けれど三人には、言葉にこそしない共通認識があったこともまた、事実である。  今回が、最後かもしれない。  遠出することも、海を見ることも。  車に乗ることも、しりとりをすることも。  何時間だって語り合うことも、創作論を聞き合うことも。  互いの寝顔を見ることも、食事を一緒にすることも。  ぜんぶ、もう二度と、できないかもしれない。その可能性の方が高いと、頭ではわかっていた。でもそうだと心が認めることは、できるはずもなく。 「悟といることが、こんなに辛くなるなんて、思わなかった。全然食べないし、放っておけば寝ちゃうし、たくさん薬を飲んでるし。悟が病気なんだってこと、一泊二日中、忘れさせてくれなかった」 途切れ途切れに。真司は、頷くだけに留めておいた。ただ露天風呂で呟かれた、「申し訳なかった」という言葉はずっと、ぐるぐると脳裏に居座り続けていた。
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