第二章 十二月二十四日の震盪

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「そんなわけで、満喫してきたよ」 雨の一日を挟んだその次の日、悟は屋上のベンチで、土産話をせがむ少年少女にすべてを語って聞かせていた。 「海が見える旅館なんて、本当に素敵。なんだか映画みたいですね」 妃奈乃はうっとりと、写真に見入っている。部屋から撮影した、太陽が沈み込んでいくまさにその瞬間を捉えたものだ。 「君たちの青春も、まるで映画そのものだよ」 「また続きを書いてくださってるんですよね」 『分子雲仲間編』に救い出され、悟はもう一度、創作に帰ることができていた。 「うん。我ながら綺麗な結末を書けてると思う」 すごく楽しみ、と妃奈乃は頬を紅潮させる。 「現実は、どうなっていくんでしょうね」 渉太は薄曇りの空を見上げた。 「わかるはずもないけど、きっと、ずっと続いていくよ」 「続く?」 悟の言葉に、渉太の目がくるりと回る。 「僕らって、どちらかというと完結に向かってるんじゃ」 「物語は完結して、世界は続いていくんだよ」 小説家はぼんやりと、言葉を溶かす。目を合わせて頭を捻ってみても、高校生にはその抽象を読み解くことは、不可能だった。 「渉太くんの熱弁が効いたよ」 少年は、目を合わせてくれなかった。 「君にも、熱いものがあるんだね」 「中学の時、あだ名が冷蔵庫だったんですけどね」 「そうなの?」 妃奈乃が吹き出す。 「そうなんですよ、毒舌ばっかりで、ぜんぶを冷めた目で見てるから。本当は、わざとそうしてるのに。何かに執着したくないって……」 尻すぼみになっていく妃奈乃を、渉太は一瞥した。 「どうせ、長くない人生ですから。死ぬ時に心残りがあると嫌なので。僕は冷蔵庫でいいです」 「コンロくらいの熱量は感じたよ」 書いて生きてください、血走る目でそう鼓舞してくれた少年と、横にいるのが同一人物とは思えない。 「僕の人生の話じゃないですからね」 これ以上はやめましょう、と渉太はベンチを離れた。フェンスに寄りかかって、ため息をついている。 「素直じゃないなあ」 「あの日は特別です」 妃奈乃は基本的にずっと、朗笑を浮かべたままだ。つい先ほど失われていたそれも、すでに回復している。 「渉太くんのあんな声、初めて聞きました。でも、いつもこんな調子でいながら、実は誰よりも生きたがっているんです、あの子。言わないだけで、考えてることはたっくさんあって」 風を受けてぼんやり曇天を仰いでいる渉太は、悟と妃奈乃のことを一時的に忘れているようだった。こそこそと、妃奈乃は悟にささやく。 「渉太くんは悟さんのこと、すごく信頼してるんだと思います。それでいて、小説もなんだかんだ、楽しみにしてるはずです。あと、羨ましいんだとも」 「僕が?」 「ただがむしゃらに、夢中になれることがあって。私たちにも吹奏楽があるけれど、今はこんなだから、全然できてないじゃないですか。悟さんはここにいても、ひたすら書いていますよね。それがきっと、羨ましい、眩しい。でも渉太くんにとって、その明るさは、希望なんです。自分も絶対退院して、また吹奏楽をやるんだって」 「妃奈乃ちゃんは、渉太くんのことをよく分析してるね」 「こんな話したのは、内緒ですよ」 人差し指を口元に、妃奈乃はきゅっと笑った。 「ねえ!」 妃奈乃はよく通る声で、渉太に呼び掛けた。 「来年の定期演奏会、悟さんも来てくれるって!」 ちらりと悟に目配せする妃奈乃は、もっとずっと眩しい。 「有言実行、してくださいね。ステージから先輩と一緒に、悟さんを見つけてみせます」 渉太はパジャマのポケットから、両手を出して宣言した。  フィクションとノンフィクションの境界に位置する物語、『命の音』はある日突然、大きく転換する。  悟が茉希と真司に再会したあの日から、ちょうど二年が経った朝。書き上げたその本文を、ノートパソコンの画面上で最初から見直していると、渉太がノックすらせず、部屋に転がり込んできた。 「どうしたの」 視線を上げず、問いかけにも応じず。渉太はベッドに顔を埋めて、何度も全身で深呼吸を繰り返している。こみ上げる疑問を嚥下して、ただじっと少年が次の言葉を紡ぐのを待った。 「先輩が」 ついに溢された渉太の声は、高く細かく震えていた。 「妃奈乃ちゃん?」 頷くと同時に、慟哭が放たれた。 「先輩が、妃奈乃先輩が、死んじゃったんです」 「えっ……?」 あまりにも唐突だった。現実的でなかった。つい数日前まで、彼女は向日葵のように弾ける笑顔を振りまいていた。小説の完成を、無邪気に、心待ちにしてくれていた。 「聞いてました、先輩の病気は、急にがくんって悪くなることがあるって。でも先輩はずっと、本当にずっと、笑顔だったから。元気になるとしか、思えなかったんです。なのに」 渉太はわんわんと泣きながら、胸中を吐き出した。 「僕は生まれた時から病気だったから、『死』が遠いものだなんて、思ってないつもりでした。そんなに恐れてないつもりでした。でも本当の僕は、誰よりも死ぬのを怖がってたんです。先輩も一緒に、これからもずっと、死ぬつもりなんてなかったのに!」 涙でぐちゃぐちゃになった顔を、拭うことすら忘れて、渉太は嗚咽の中から言葉を絞り続けた。 「先輩が死ぬなんて、嘘だ。僕をまたひとりぼっちにして、自分も独りで向こうに行って、ありえない……」 その涙に溺れた目を、悟に向けた。 「悟さん、小説の中の先輩は、元気になりますか」 「もちろん」 「……書き直して、いただけますか」
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