第二章 十二月二十四日の震盪

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胃の奥がきゅっと冷える。  最近ようやく、カレンダーを意識するようになった。藤野の宣告通りだとすれば、自分の命は九月頃に終わる。一日、一週間、一ヶ月と歩を進める時間を認識してしまうと、めまいがした。彼らの定期演奏会が開催される日、自分はどこにいるのだろうと、悟は反射的に手を握りしめていた。 「……怖いですよね」 悟に話しかけているようで、独り言のようで、返事を求めることなく渉太は続けた。 
「僕は馬鹿だ」 白い顔に、自嘲がありありと浮かぶ。悟の否定は、拒否される。 「何もわかっちゃいないのに、ぜんぶを知った気でいました。僕は誰よりも賢いつもりでした、妃奈乃先輩が亡くなるまで。クラスメイトや部活のメンバーが経験していないことをしてきたから、僕の見る世界は特別なんだって、変な自惚があって。でも痛感しました、僕は何も知らないんです。人生がどう転んでいくかなんて」 空を捉える瞳が潤んでいる。 「わからないことだらけだって、ようやくわかりました。妃奈乃先輩がいない世界が、こんなにも寂しいなんて知らなかった。先輩と僕と、冬翔と愛子先輩と、四人でべらべら、しょうもない会話をしてる時間が、こんなにも早く終わってしまうなんて思わなかった。それと」 悟に初めて向けられた、このやや生意気な少年の優しい笑顔。 「自分たちの人生を、小説という形で証明していただけることが、こんなにも心の支えになるなんて、思いもよりませんでした。ありがとうございます」 「それなら、良かったよ」 純粋に嬉しかった。  モデルにされることを恥ずかしがっていた当初が蘇る。ボロボロの身体で書いていた悟に、首を傾げたこともあった。それでも、書いて生きろと激励してくれたのも、渉太であり。妃奈乃の死を、そのまま作品に投影されることを望んだ彼ではあったが、それを心の支えにまでしてくれているとは、思ってもみなかった。 「井ノ屋先生の言う意味がわかりました。『命の音』は、僕が生きた証になります」 渉太がその名前を口にしたのは、五ヶ月間にわたる交流の中で、最初で最後のことだった。  あれから、ちょうど一年だ。今年の七夕も、雨が降っている。昨年と比べれば降水量は控えめだが、じっとりとまとわりつく空気が鬱陶しい。  真司はひとりで、ダイニングルームにいた。正午に発表される、新人賞の最終結果。『エピローグ』は、どのように着地するのだろう。仕事に向かう茉希を見送った後、真司は一度も座っていない。  午前十一時五十九分。椅子を引き、ぎこちなく腰掛ける。ノートパソコンを立ち上げる。窓を叩く雨音は、裏腹に軽い。  秒針が上っていく。  午後〇時。息を吐き、一度目を閉じ、手を握って、開いて、人差し指でクリックする。  画面が、一歩ずつ更新される。  上部から、一段、また一段と、文字が読み込まれていく。  結果発表、と華やかな色合い。  そのすぐ下に。 「あっ……た…………」 頂点に、『エピローグ』は、想田創は、輝いた。  震えが、涙が、笑顔が。  我先にとあふれてくる。  霞む視界に構わず、スマートフォンをつかむ。誰よりも、二人に伝えたかった。メッセージを、同時に送信する。  すぐに、悟から返事があった。 『おめでとう』 ただ、そうとだけ。その文字が語る、これまで、これから。  ようやく、その背を捉えた。まず肩書きとして、同じ舞台に立った。ついに、職業として、小説家と名乗れる。悟と、同じに。  椅子の背にもたれ、天井を見やる。  スマートフォンが、再度声をあげた。茉希からのメッセージだ。 『本当におめでとう。でもね、今仕事中なの、泣かせないで』 口角が上がってしまう。彼女がオフィスで涙目になっている様子が、容易に浮かぶ。  立ち上がる。足は本棚に吸い寄せられた。  ちょうど四段あるそれは上から、井ノ屋証の著書、飯田五葉の著書、空白、そして『分子雲』の部屋となっている。  三段目を撫で、埃を払う。ここに、小説が並ぶ。ほかでもない、自分が書いた小説が。  誰に、届くだろうか。言葉を憎み、そして愛する自分の物語は、どんな人の心に舞い降りるだろう。一人でも、たった一人でもいい、どうか伝わってほしい。願わくば、言葉に傷付けられた誰かに、それはただの凶器でないのだと、伝えたい。言葉は、人の命を狩り取ることもできる一方で、潤いも与えられるということを、どうか、誰かに。  あの時、首を吊らなくて良かった。  生きていて、良かった。  人類に言葉があって、本当に良かった。
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