第一章 五月六日の幕開き

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 最寄駅から徒歩七分ほどのところにある、まだ築五年の、横に小柄なマンション。三〇五号室に悟たちは、三人で暮らし始めた。  3LDKに分類されるその舞台は角部屋で、家族ではない彼らが共同生活を送っても、息が詰まらない程度の広さはあった。  玄関には左手に四段の靴箱があり、薄い段差をのぼってフローリングの短い廊下に出る。廊下の右側に洗面所、脱衣場、そしてバスタブ付きの風呂。廊下の反対側がLDKで、突き当たりはトイレと二つの洋室に繋がっている。三つ目の洋室は、ダイニングルームからしか行けないつくりだが、そのぶん最も広い。キッチンはIH型コンロが三つと流し台、そして食器洗い乾燥機が、引き出しの最下段に埋め込まれている。各洋室はすべて、南側のバルコニーに面しているため、そこを通って互いの部屋を行き来することもできた。  肝心の部屋の配置は、真司が面白がって運に任せ、ルーレットを回した。結果、角側から悟、真司、茉希の並びとなったのだが、いちばん狭い部屋を引いたのは真司だった。ダイニング直通の部屋は悟のもの、収納が豊富で三〇四号室に近い部屋は茉希のもの。 「狭くてもいいよ、俺、荷物少ないから」 引っ越し作業の時、真司は段ボールを運び込みながら、不貞腐れたような言い方をする。 「自分が、ルーレットで決めようって言い出したんじゃないの」 「そうさ、運はすべてをわかってたってことだ。俺と茉希じゃ、段ボールの数が倍も違う」 「倍は言い過ぎよ」 「いや、倍あるね」 悟が彼女の部屋から出てきて口を挟む。重労働は一応、生物学的に考えて、男二人が率先してやっていた。 「お洋服とかコスメとか、あなたたちは興味がないけれど私の日常生活に必要なものが、たくさんあるのよ」 「責めてないんだから、そう言い返さなくても。黙って運ばれてくれたらいいんだよ。そのうち終わる仕事だし」 まだ冷蔵庫がないので、クーラーボックスに入れておいたお茶を飲む。夏至まで一ヶ月と少し、外は暗くなっていた。悟が呑気な言い方をするので、真司は呆れた。 「あのな、何時間でもやればいいってものじゃないんだ。俺は明日仕事がある。今、何時か知ってるか?」 まだ壁掛け時計はついていない。スマートフォンの画面を突きつけられる。まぶしい。 「ふうん、十時」 「ふうんじゃねえ。まだ晩飯も食ってない」 「すぐ作るわよ、空腹は人のご機嫌を斜めにしちゃうみたいだから」 キッチンの簡単な整理と料理を任せて、作業を続ける。やっぱり三人とも、荷物のある一定の割合は、本が占めていた。  何も無かった部屋が、生活感でごった返すようになった頃。ついに『一色の虹』が出版された。有名な新人賞でトップに輝いた作品ということで、発売前から読書家の注目は集めていたのだが、その売れ行きは期待を飛び越してしまうほどだった。すぐに重版も決まり、悟は、井ノ屋証は、取材やインタビューにも応じなければならなくなる。フリーランスでライターをして食い繋いでいた彼は、急激に押し寄せる、現実世界での他人との関わりに混乱した。  その混乱の大きな要因は、彼の時間感覚にあるに違いないと、同居人は指摘する。
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