第二章 十二月二十四日の震盪

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 妃奈乃の初盆がやってきた。日没も近づいている時刻にも関わらず、屋上に降り注ぐ太陽光線は刺すほどに熱い。彼女がきっと、お天道様と一緒に張り切り過ぎているのだろう。応えるように、悟は顔を上げる。 「書き上げたよ。君の命の音が、文字になった」 十五万字を裕に超過し、『命の音』は無事、完結した。  彼女の葬儀が執り行われたあの日、七〇八号室に戻ってから、悟はパソコン上のファイルを作り直した。基本的なキャラクター設定を除き、ほとんど練り直したと言っても良い。結末が大きく変わる以上、その作業は必要不可欠だと感じられた。物語の語り手を変更し、死を敢えて一切連想させないストーリー展開や表現を心掛ける。  そうして着陸態勢に入った第二稿であったが、また気付いた。これは渉太たちが奏でた命の音ではない、と。塗り固められた、完全なフィクションになってしまっていた。これでは彼らの命を、人生を、証明することなどできない。  真実を書いてください、そう渉太は頭を下げた。  見失ってはいけない。書くべきは、彼らの人生そのものだ。  悟はまた新しく作成したファイルに、一心不乱に書き綴った。彼らの命の証明を、少しでも多くの人に届けなくてはと、信念に従って。迷うことなく完成させた原稿を今朝、園井にメールで送信した。  反応が楽しみだ。園井はまだまだ若手ながら、素直な感性と丁寧な対応により、一度でも組んだ作家から絶大な信頼を寄せられる編集者だ。そのため常に彼女は、進行中のプロジェクトをいくつも抱えているらしい。休憩時間という概念のないスケジュールをこなしていることは、担当されている小説家たちの共通認識であった。だから今日中にメールの返信がなくても構わないとさえ、思っていた。  いつも本気でそう考えているのに、園井とは数時間もすれば、連絡がついてしまう。今回はメールではなく、電話がかかってきた。 『井ノ屋先生!』 明らかに、鼻声だった。 『一体私は、先生に何回泣かされるんでしょうか。希望と絶望があって、最後にまた希望がある。先生らしい文章表現とメッセージ性が、もうこれぞ井ノ屋証って感じで最高です』 「それは良かったです」 心から安堵する。 『まだ二回しか読めてなくて、細かい部分はまたしっかり見直すつもりですが、ひとまずはこれで進めていこうかと』 「もう、二回も?」 思わず吹き出してしまった。どうやってその時間を捻出しているのだろうか。 『昔から、文字を読むスピードには定評があるんですけど。やっぱり面白い小説となると、流れるように倍速で読めちゃいます』 電話の向こうに、朗らかな笑みが見える。  その時、世界がぐるりと、勢いよく一周した。首を横に二往復させる。 『先生?』 「すみません、一瞬だけ電波の調子が。とりあえず、園井さんが二回も読んでくださったのなら安心です。あとはお願いしますね」 話しながらも、息があがってきているのがわかる。まずい、戻らなくては。 『では、しばらくお預かりします』 たんぽぽみたいな笑い声が、電話口からやってくる。でも、それもどんどん遠のいていく。  短く挨拶して、電話を切るのが精一杯だった。  ベンチから崩れ落ちる。背中に、何かが突き刺さっているかのようだった。  下手くそな呼吸を繰り返しながら思案する。このままでは、熱中症にもなってしまう。  ほとんど無意識に、這いつくばったまま悟はスマートフォンを操作していた。 『もしもし、悟? 電話なんて珍しいな。どうしたんだ?』 頭に登場したのは、真司と茉希の姿だった。 「……助けて」 『…………わかった、待ってろ。どこにいる?』 「屋上……」 電話はすぐに、切断された。  まもなく、藤野と宮内が飛んでくるのが、ピントの合わない意識の中、かろうじて見えた。 「どうしてここがわかったの?」 悟の状態を確認しながら、藤野は宮内に疑問をぶつけている。 「後藤さんから、電話があって」 悟の意識は途絶えた。 「あの、文芸サークルの先輩ですか?」 振り返ると、茉希がいた。教科書と小説と期待を詰め込んだリュックの肩紐を握りしめて、その瞳を煌めかせている。小柄というわけではないけれど、自分よりは幾分か低い位置から見上げてくる彼女の姿には、見覚えがあった。  悟は、夢を見ていた。  これは、悟と茉希と、そして真司が出逢った、大学に入りたてのあの日の夢だ。  もしもこれがファンタジー小説であるのなら、ここでの自分の言動で、未来は変わるのだろう。絶対に、変わってほしくなかった。記憶を手繰り寄せる。 「……違います、僕も一年生です。でもここは、文芸サークルの部室なんかじゃない」 「どういうこと?」 早速に敬語を取っ払って、茉希は首を傾げた。懐かしい光景だ。 「確かにその名前で集まっているらしいけれど、この扉の向こうには、文学に興味の一欠片もない人たちしかいない」 声を潜める。  この夢で描かれている瞬間の少し前、愕然としたのを思い出す。この大学には文芸サークルという団体があったが、実際に在籍しているのは、ただ集まる場所が欲しかっただけの面々であった。誰も書いていないし、読んですらいないし、部室に小説なんて見当たらない。回れ右をして扉を閉め、些か憤っているところに、茉希が現れるのだ。そして。 「あの、ここって文芸サークルの部室であってますか」 ああ、良かった、あの時と同じだ。表情を緊張に支配された、まだ若い真司がやってくる。茉希と並んで、彼にも事実を宣告する。 「あなたたちは、本気で小説が好きなのよね?」 十八歳の茉希は、この頃からまっすぐな目をしていた。真司と頷きを揃えると、彼女の表情が咲く。 「じゃあ、私たち三人だけで、サークルを作りましょう」 それが、すべての始まりだった。
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