第二章 十二月二十四日の震盪

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 月の残る明け方を意味する「朝月夜」という名前で、彼らは新規のサークルを申請した。受理された日から卒業までの四年間、与えられた小さな部室に入り浸った。移ろう季節を追いかけて、何度も何度も『分子雲』を制作した。書くために時間を捻り出し、書いては読み、読んでは書き、そして創作論をぶつけ合った。合宿と称してログハウスで缶詰になってみたり、文化祭で『分子雲』を販売してことごとく売れ残ったり、そうかと思えば翌年は完売したり。卒業制作として長編をそれぞれ書き、手渡し合った桜の日まで。三人の大学生活は、小説に彩られていた。  エンディング映像のように、四年間の思い出が流れていく。すべてに、小説が関係していた。そして、そのすべてが、茉希と真司がいて初めて成り立つ出来事だった。  感懐が、すとんと胸に落ちる。  二人は、今も昔もずっと、そばにいてくれた。共に夢を追っていた若き日も、自分が小説家としてデビューしてからも、ただ同じに。遠野悟として、ひとりの人間として、彼らは接してくれていた。  もし、このまま自分が死んでしまったら。  二人を、悲しませてしまうだろう。  それが何より、苦しい。  笑っていてほしい。  自分が涙の誘発剤になるのは、嫌だ。  どうか、笑顔でいてほしい。  そのためには。  自分に、何ができるだろう。  できることは、ひとつしかない。  ふと、耳元で声がする。悟はそっと目を開けた。人工的な光が、突き刺さるように眩しい。左手に視線を移すと、丸椅子に腰掛けて会話をする茉希と真司の姿があった。  ああ、生きていた。  部屋に響く電子音が、鼓動を刻んでいる。  身体がずっしりとだるいのも、生きている証拠だ。 「悟?」 現在の、茉希の声だ。覗き込んでくる二人は。 「……大人に、なったね」 うまく声が出なかった。 「どういう意味だ? お前は子供のままだけど」 「そうね、変わらない。三日三晩寝てたみたいだけど、寝る子は育つって、嘘なのかしら」 「背丈だけは、大人なんだけどな。二十八歳の子供」 二人の談笑が、ずっと、続いてくれれば。そのために、悟は決めていた。 「……書く」 「何言ってるの」 ぴしゃりと斬りながらも茉希は、呆気に取られていた。 「何日も意識が戻らなくて、藤野先生には、最悪の事態を想定してできることはやっておいて、とか言われたのよ? 昨日はお母様がいらしてたのに、起きないし。それくらいの状況だったのに、起きてまず『書く』って、悟はもう」 真司が藤野、宮内を呼んで戻ってくる。主治医はまず、悟をさらりとだけ褒めた。が、すぐに表情のネジを締める。 「まだ、予断を許さない状態であることは明らかです。我々も、できる限りのことはしていきます。ですが、医療には限界があるのも、また事実です」 心電図のモニターから、悟へと向けた藤野は、薄い唇をわずかに上げた。 「あとは、遠野さん自身の、生命力にかかっています。生きたいという気持ち、それが何より大事ですから」 「なら、僕は書きます。生きたいと、書きたいは、同じなので」 悟の声には、命の音が共鳴していた。 「遠野さんは、そうですね。それがいちばんだと、僕も思います」 宮内は肯定した。彼は何度も、悟が小説を武器に病と闘うところを視認していた。生きるには、食事や薬だけでは不足する栄養素があると、宮内も知っている。 「ひとつ、お願いがあるんだけど」 藤野と宮内が退室するや否や、悟は口を開いた。茉希も真司も、黙って聞いてくれている。 「もう一度だけ、『分子雲』を作りたい。三人一緒に、『小説』をテーマに」 「本当に、書くの?」 茉希は頷くのを躊躇っていた。小説を書くのには、相当の労力が要る。いくら悟でも、管や機械に繋がれている身体で書くということに、手放しで賛成はできない。 「書かせて。僕から、小説を取らないで」 目を閉ざし、茉希は黙考した。蘇る。書くことについて、悟の意見が誤っていたことは、ない。ずっと書かずにいた自分を創作に連れ戻してくれたのも、スランプから引っ張り上げてくれたのも、すべて悟の言葉だった。 「そうね。悟は、書かなくちゃ」 「よし、決まったな。書けたら連絡してくれ」 真司は腕まくりをした。これから打ち合わせだからと、扉に向かう彼を、悟は声だけで追う。 「あ、想田先生」 「照れくさいからやめろ」 「『エピローグ』の出版はいつですか」 ぴたりと、歩が停止する。ベッドの上にいる悟に、紙飛行機のように言葉を。 「十月十日だ。約束は守れよ。出版されたら読む、お前はそう言ったはずだ」 悟は浅く頷いた。  十月、それはまるで一世紀も先のように感じられる。果たして、自分はどうしているだろうか。  窓の外では、蝉がけたたましく、今を主張している。
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