第二章 十二月二十四日の震盪

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 それから悟は、ただひたすらに書き殴った。『分子雲小説編』のために書かれた短編のタイトルは、『自由』。舞台は江戸時代、空想して物語を創っていた男児のもとへふらりと現れた商人が、その物語を日本中に言葉だけで広めていく。数年後に再会して、少年となった彼は商人に礼を述べるも、首を横に振られる。物語を言葉にしたからこそ、この話は広まっていったのだと。  小説は、言葉のみで構成される。音声や映像は持たない。それは表現上の制約とも、思えるかもしれない。けれど、言葉だけで綴られるからこそ、物語は羽ばたくことができる。何も持っていないのではない。言葉を、言葉が、言葉だから。小説は、小説であるのだ。  そして、言葉だけを持つ小説であるからこそ、悟は今もその手を離さずにいることができている。何本管が繋がっているかわからない。狭い病室では、機械音がすぐに跳ね返る。腕をあげ続けることさえ辛くても、小説がある限り、悟は自由だった。  悟は、読んできたすべての小説に思いを馳せた。そこで出逢ったすべてのキャラクター、魅せられたすべてのストーリー、胸に今尚響く、数多の言葉に。形として、手元にある小説ばかりではない。それでも悟の人生を、間違いなく構成してきたものたちだ。それらの存在は、彼の中でずっと、証明されている。  でももうひとつ、忘れてはいけないことがあった。吐き気に身体中を覆われて、発熱に視界がどれだけ歪んでも。薬より、食事より、大切なもの。  悟は痛み止めを流し込んで、荒い呼吸を背負って、パソコンのファイルを新規作成した。  三〇五号室で生活していた頃と比べると、睡眠時間と活動時間が逆転している。上体を起こすのを諦めて、枕にうずもれたまま、スマートフォンに言葉を覚え書きすることも少なくない。  母、美菜子が見舞いに来た際も、大事なものの話だけをぽつりぽつりと繋いだ。母は辛抱強く、最後まで息子の話を聞いてから、こう言った。 「悟にそれがあって、本当に良かったね。お母さん、あんまり来なくて正解だった」 「ごめんね」 「謝られるより、ありがとうって言われた方が、嬉しい」 そうかもねと、悟は口角だけで笑った。 「ありがとう」 「ありがとう」 親子は、丁寧に言葉を交わした。  一日、また一日と過ぎていく。うだるような暑さが未だに日本列島を包んでいるが、カレンダーは確実に進んでいた。悟は書くことで、書き続けることで、その日に辿り着いたのである。  十月十日、悟は作者の手から直接、『エピローグ』を受け取った。それは悟がインターネットで予約注文し、今日三〇五号室に届けられた、紛れもない「商品」であった。出版された真司の小説を、悟は読者として購入した。 「本物だ」 悟は起こしたベッドにもたれたまま、単行本を撫でる。紺青のゆらめくような表紙に、白く抜かれた『エピローグ』の文字と、その作者名。 「大変長らく、お待たせいたしました」 「待ち侘びてたよ」 開き、見返し部分を差し出す。 「サインください」 「ペンなんか、持ち歩いてねえよ」 「じゃあそこで買ってきて」 「相変わらずお前は」 無言の圧で、真司を追い出す。茉希は仕事だと言っていた。彼女はもう、読んだだろうか。感想を語り合いたい。真司が何をこの物語に詰め込んだのか、いちばん近くで見守ってきた同居人として、仲間として、話しながらほどきたかった。日曜日には茉希も来るだろうから、その時までお預けだ。  真司の、想田創のサインには、遊び心がある。それは彼の作風をよく表していて、悟はお気に入りだった。大学時代から、書いた作品を印刷して綴じては、冗談半分、サインを書いていたのを思い出す。  戻り、微かに赤らんだ頬を隠すようにそっぽを向いて、真司はサインをしてやった。 「本物だ」 「俺の偽物なんかいるかよ」 「いたら嫌だね」 ふふ、と落ちていく笑み。温和な空気が充満している。 「なあ、悟」 真司は丸椅子の上で、高い窓の外を見つめていた。 「小説って、武器になると思うか?」 「物騒な言い草だね」 「俺は昔、言葉を凶器としか思ってなかったからな」 「今は違うんでしょ?」 首肯する真司の目は、夕焼けを横切る烏を捉えたままだ。 「言葉は、小説は、武器になるかもしれないね」 ようやく目が合う。悟は慎重に、言葉を紡いだ。それには、強烈な力があるのだから。 「小説は、自分を護る盾にもなるし、自分が何かと戦う時も、一役買ってくれる。僕が今ここにいるのは、『エピローグ』を武器にして、病気と闘ったから。自分が書いた小説も、誰かが書いた小説も、武器になることができる。だからこそ僕らは、その武器が凶器になってしまわないように、常に正しくいなきゃいけない。それは、真司がいちばんよくわかってることでしょ?」 「お前は、意外とよく考えてるよな」 「失礼な」 立腹を口元でだけ主張してから、失念していた用事をはっと思い出した。 「そういえば、書けたよ。今送るね」 パソコンから、真司にも茉希にも、テキストファイルを一斉送信する。悟の心は踊っていた。 「ふたつ?」
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