第二章 十二月二十四日の震盪

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「そう。誤送信じゃないよ」 悟は目を覚ましてから、長編小説を書いていた。  手を伸ばすほどでもない未来に、死が待っている。それはもう、目を逸らすことのできない事実だ。そして同時に訪れるのは、茉希と真司を支配する沈痛であることもまた、明らかである。悟にとっては、それが何よりも苦痛だった。思い起こされるのは、妃奈乃が亡くなった時のこと。ただ彼女は、笑顔と奇跡、そして『命の音』という物語を遺していった。それはこの世界にしがみつくしかなくなった、渉太をはじめとする周囲の人間にとって、心の支えとなって。悟もまた、『命の音』に寄りかかって生き延びた一人だった。リレーのバトンのように、物語は、命は、続いていく。  薬より、食事より、大切なもの。  小説と、そして、仲間。茉希と真司、その存在。  彼らに、できることはひとつしかない。  二人が、笑顔になれる小説を書く。井ノ屋証にしか書けない、二人の為だけの小説を。誰かの為に書かれた小説には、願いが宿る。  涙なんていらない、自分のことを思い出す時は笑ってほしい。悟は熟考を重ね、『いつだって期限ギリギリ』というポップなタイトルをつけた。食べ物の賞味期限から、書類の提出期限、そして命の期限に至るまで、追われる人たちを温かく、コミカルに描いた物語だった。 「今から園井さんにコンタクトを取っても、僕は出版を待てないかもしれないから。まずは、ふたりに」  風に秋寒がぞんぶんに含まれるようになった、十月二十日、日曜日。『分子雲小説編』が、印刷所から帰宅した。  午前十時、茉希は配達員からそれを受け取り、丁重に茶封筒を開けた。 「もう届いたのか、早いな」 自室から出てきて、真司も彼女の手元を覗き込む。新生児のようなそれは、掌にすっぽりと収まりながらも、抱える言葉たちを放流するのを、うずうずして待っていた。  『分子雲小説編』では、三人の短編のタイトルが、完全に一致した。揃って彼らは、小説に『自由』を見出していたのである。  飯田五葉は、受け取り方が読み手に委ねられていること。想田創は、今を強制することなく、自分のペースで咀嚼、嚥下できること。そして井ノ屋証は、言葉だけであるからこその自由を。 「悟のところへ、届けに行きましょう」 茉希が言うが早いか、真司のスマートフォンが着信を叫んだ。東洛総合病院からである。通話しながら、真司は崩れるように青ざめていった。 「……何?」 「悟が、危ない」 立ち尽くす茉希に、真司はヘルメットを押し付けた。その光景は、十二月二十四日、悟が倒れた朝と同じだった。  何度も唾を飲んで、バイクのハンドルを固く握って、震える両脚をなんとか抑えつけて、七〇八号室に転がり込む。宮内が藤野と並び、点滴を調節しているところだった。とにかく、間に合った。  蒼い悟は、ゆっくりと、大きな呼吸を繰り返している。規則正しかったはずの電子音は、気まぐれのように乱れていた。 「痛みがかなり激しいようなので、強い鎮痛剤を投与しています。意識が戻ることは、ないのではないかと」 藤野は、下唇を噛んだ。 「でも、前も先生、そう言って……。また書けて……」 喘ぐように食い下がる茉希を、真司は黙って制した。 「薬も、これ以上はかえって悪影響となる可能性があります」 沈着に、淡々と、事実だけを。藤野は一切の感情を、受け入れないようだった。 「悟、『分子雲』、届いたぞ」 肩を叩き、ひんやりとした手に握らせる。真司はどうにか、気を保たなければと必死だった。 「みんなのタイトルが被るなんて、初めてだよなあ。でもほら、読んでみろ。解釈はバラバラなんだ。同じ言葉から同じ言葉を連想して、違う内容の小説を書いてるんだ。面白いよな」 心電図は、さながら落書きだった。 「今まで、何作書いてきたんだろうな、俺らは。井ノ屋先生は、どれがお気に入りで?」 息が吐かれるだけで、声はない。 「俺はそうだな、やっぱ『一色の虹』は何回読んでも感動するな。でも『ボール投げるの、何回目?』ってやつも、読むと安心するんだよなあ。茉希は? どれが好き?」 「そうね」 茉希は肩を震わせながら、思案した。 「『おばあちゃんの桜』は、ずっと好きよ。春になると、絶対に読んじゃうの」 悟の口角が、わずかに上がった、気がした。 「でもね、私、あなたが書くものなんでも好きよ。あなたが書くと、フィクションも現実になるわ。『命の音』は事実であって、それでいて井ノ屋証の小説で。本当に、あなたが書くものはすべて、あなたらしくて素敵よ」 「俺らは、お前のいちばんのファンだ」 深呼吸をして、真司は、悟の手をとった。茉希も重ねる。 「小説は、悟を救ったか?」 何も返ってこない。 「小説があって、お前は、良かったか?」 不規則な呼吸と電子音だけが、響く。 「俺は良かった」 流れる涙のことなど、忘却の彼方にかなぐり捨てて。真司は伝える。 「言葉があって、小説があって。悟と、茉希と、三人で暮らしてさ。楽しかったよなあ」 書いて、話して、書いて、食べて、話して、笑って、書いて、笑って。 「旅行も良いけど、やっぱり日常がさ」 感情が、あふれた。 「俺は、三人での毎日が、大好きだ。ずっとな」 「また、一緒に書きましょう」 茉希も、悟の指を撫でて。 「小説と、あの部屋での日々があれば、私は幸せ」 すべてが、駆け巡る。 「悟のおかげよ」 瞼が、動いた。悟の目から、雫が落ちる。 「ありがとう」 茉希と真司が、手を添えて贈った言葉は。  届いたのだろうか。  書いて、書き続けて。二十八年の人生に幕を下ろした、遠野悟に。  言葉は、彼の中で、役目を終えた。
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