第三章 四月二十日の証

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第三章 四月二十日の証

 また新しい年が始まる。世界は足を止めることなく、自分勝手に進んでいく。 「今日、園井さんと会うんでしょう?」 夜間に降り積もった銀雪が、清々しいほどに朝陽を跳ね返している。食パンにレタスを挟みながら、茉希はカレンダーを見やった。 「なんか、頼みがあるとかなんとか」 園井は井ノ屋証の担当編集者であり、想田創とは無縁なはずだった。 「出版社さんが同じだから、かしら」 「だから何だって言うんだろうな」 飯田五葉は、発売されたばかりの『ティーポットの中の恋』を含め、違う出版社で主に出していた。ただ、真司はまだデビューして三ヶ月程度。何を頼むにも、実績らしい実績すらない小説家だ。二日前に連絡が来た時から、彼はずっと首を傾げていた。  午後、雪に靴底を喋らせながら、遅延する電車に乗ってカフェに向かう。ちょうど十分前に到着すると、園井はもう、席に着いていた。  簡単に挨拶を交わす。悟の葬儀で会って以来だった。 「本当に、十分前にいらっしゃるんですね。井ノ屋先生の仰る通り」 低くまとめた黒髪に絡めた左手を膝に、園井は目を細めた。 「悟、時間を守ったことがないと思いますよ」 「そのつもりでお約束していたので、大丈夫です」 「さすがですね」 運ばれてきたホットコーヒーにミルクを注ぐ。 「それで、今日はお願いがございまして」 園井は紅茶を机の脇に移動させ、真司ときちんと目を合わせた。 「まずは、『いつだって期限ギリギリ』の原稿を送ってくださって、ありがとうございました。井ノ屋先生がお二人の為に書かれた小説である以上、こちらも悩みはしたのですが。先生のメッセージは、ファンの皆様にもぜひお届けしたいと、出版する運びとなりました。そこまでは、メールでお伝えした通りです」 真司が頷くのを確認してから、園井は続ける。 「そこで、想田先生に、続編と申しましょうか、『いつだって期限ギリギリ』のアナザーストーリーを書いていただけないかと」 「……はい?」 間の抜けた返事をしてしまう。 「お忙しいとは存じますが、アンサーソングの小説版、のように」 「いや、スケジュールの問題ではなくて」 口をぱくぱくさせる真司に、編集者は穏やかに話した。 「私は、井ノ屋先生から、いろんなことをお伺いしています。中でも、お二人に関することは、たくさん。でも、想田先生と井ノ屋先生が仲良しだからという、ただそれだけの理由で、今回お時間を頂戴しているわけでもございません。私は、お二人の作風は、ほとんど正反対だと認識しています、『小さじ二杯の悪意』を読ませていただいた時から」 久方振りに聞くタイトルに、真司は耳を疑った。 「内緒ですよ、でも私は選考であの作品を拝読して、衝撃を受けて。お二人がシェアハウスをしておられると知ったのは、後からです。井ノ屋先生と想田先生、まったく反対とも言える世界観の小説でありながら、どこか通じ合っているのは、読む人が読めば一目瞭然です。だから」 書いてみてくださいませんかと、園井は頭を下げた。  真司は即答できなかった。有難いが、買い被りすぎだと思ってしまう。悟と自分の作品は、ぜんぜん違う。 「汚したく、ありません。悟が最後に、文字通り命懸けで書いた小説です。蛇足になるのではないかと」 「そんなことはないです。想田先生が書いて、あの小説は完成するのだと」 「邪魔はしたくないです。悟が続きを望んでいるか、それを確かめる術はもうないんですから」 席を立つ真司を、園井の声が追いかける。 「いつでも、お待ちしています。想田先生から見た、井ノ屋先生の小説に、何を付け足すか……」 カフェを出ると、雪は溶けていた。濡れた地面は、宝石が散りばめられているかのようだ。鼻で笑う。世の中は、そんなに美しいものではない。  駅に向かって、コートのポケットに両手を突っ込んだまま、だらだらと歩きはじめる。新人のくせに仕事を断るなんて、生意気だと思われたかもしれない。でも、それで良かった。言葉を凶器とするような世の中で、小説だけは、綺麗なままでいてほしかった。特に悟の小説に、不純物を混ぜ込むような真似は、どうしてもできない。  園井の言葉を思い返す。真司から見た、悟と、その小説。  ナスが嫌いとか、時間を守れないとか、一度言い出したら引き下がらないとか、整理整頓が一切できないとか、悟には幼い部分が山ほどある。そのくせ運転すると落ち着いていて、何が起きても取り乱すようなことはなく。小説が関係すると、誰よりも正しく、まっすぐで、美しい。  ただただ、書くことが好きで、放っておけば睡眠など無視して書き続ける。  自分の中に登場人物がいるのだと言って、対話をしながら、あふれる物語を書き殴って。  読者の心にキャラクターたちを描かせる、緻密な表現を得意とする。  病気になっても尚、悟の核はそのまま。常に小説のことを考えて、もはや頭を支配されていて、その状態を喜んでいて。  真司や茉希に、弱みを見せるまいと強がっていたこともあったのに、気付けばいつもの悟に戻っていたのも、もう懐かしい。  生死を彷徨い、なんとか目を覚ました後すぐに書きはじめたように、悟は書くことを何よりも大切にしていた。  書くことで、自分が生きたことを証明するのだと、ペンネームにもその字を入れて。  ずっと、ずっと、書き続けて。  書いて、書いて。  書き上げてしまった。  悟は人生の証明を、書き上げた。  完結してしまった。  彼は、悟は、過去だった。  真司の脳は、その事実を受け入れるしか、なくなった。  走り出す。何かから逃げるように、何かを追うように、何かを、何かのために、真司は走った。泣きながら、脇目も振らずに、誰にどんな視線を投げつけられようとも。  小説とは、何なのだろう。  小説があれば何もいらない、そんなことはあり得ない。  勝手に書いて、勝手にいなくなって。  悟本人は、もうどこにもいないのだ。  泣いても、走っても、書いても。  悟が答えてくれることは、もう二度とない。  小説は、無力なのかもしれない。
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