第三章 四月二十日の証

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「また、この季節ね」 『命の音』が出版されて二週間が経った春分の日、茉希はダイニングルームで、『おばあちゃんの桜』をめくっていた。大学時代に素人が製本したものだから、すっかり年季が入っている。 「やっぱり書かないの?」 「書けるはずがないだろ。それを読んだらわかる、俺とあいつじゃ、あまりにも違う」 真司が園井の打診を断ったと聞いた茉希は、黙って受け入れていた。しかし折に触れ、話題に出してもいた。 「もし真司が『命の音』を書いたら、どんなふうになるのかしら」 今晩、鶴木高校吹奏楽部の定期演奏会を観に行くことになっている。一年前、悟が渉太らとした約束を、代わりに果たしにいくのだ。 「悟が書いたから、これは『命の音』なんだ。あの子たちの物語が、綺麗なフィクションとして世に出ていける。渉太くんたちであり、キャラクターたちになれる」 真司はスマートフォンを操作した。演奏会には花束を持って行った方が良さそうだ。今日は現実に生きる、渉太たちの晴れ舞台である。  午後六時に開演するそれに、三十分前の開場時間ぴったりに着く。出演者への贈り物はこちら、と待ち構えるテーブルに、花束を四束預ける。出演する生徒たちの友人、家族らしき観客に混じってホールに入り、後方の席を選んだ。吹奏楽の音圧に、真司は若干緊張していた。 「小学生の頃、よく学校から、オーケストラのコンサートに連れて行かれなかった?」 椅子があちこちで軋む音がする。ホールの天井から届く華やかな光は、二十年も前の校外学習を思わせた。 「ああ、そういえば。苦手だったな」 「音が大きいからでしょう? 私は好きだったの、生演奏を聴く機会って滅多にないじゃない。でも、寝てる子がたくさんいて。不思議だったわ」 「たしかに、みんな寝てた」 そして口を揃えて、椅子の心地よさと照明の暗さのせいにする。 「今日も楽しみだったの。若いエネルギーと生演奏なんて、最高だわ。悟が『命の音』を書かなかったら、こういう場に来ることはなかったでしょうね」 開演を鶴首して待つ茉希の横顔に、真司の心は萎んだ。『命の音』の発端は、悟の病だ。この世界に残されたのは小説だけで、書いた本人はもういない。小説や執筆の経緯を恨むのはお門違いだ、それはわかっている。繋がった縁が、今は大切だ。けれどどうしても、奥の方でうずく何かがあった。  午後六時きっかり、眠るように落ちた照明を突き破って、華やかなトランペットが響き渡る。めまぐるしい緩急はアトラクションのごとく、観客を踊らせた。快活で明朗なメロディライン、迷うことなく道を照らす重低音。アクセントを加える様々な小物打楽器の真ん中で、渉太はスネアドラムを演奏していた。心を満たす愉悦を隠そうともせず、スティックを軽やかに操りながら、時折仲間と、愛子と、目配せまでして。全身全霊で、音楽を満喫していた。  五十人ほどだろうか。大小様々の楽器と共に、部員たちはみな一人残らず、心から楽しんでいる。しっとりともの悲しい二曲目も、その世界観を克明に、音にしていた。  その中に、空席がある。トランペットパートのメンバーが五人、そして、誰も座っていない椅子がひとつ。写真は置かれている。豪雨の葬儀の日、たったひとり笑顔のまま動かなかった、妃奈乃の写真。彼女は今日、卒部するはずだった。スタンドに立てられたままのトランペットは、何もわかっていないかのように、スポットライトを反射している。仲間たちは次の曲に移るたび、彼女の譜面もめくった。  第一部、第二部と、演奏会は進んでいく。あっという間に最終ポップスステージ、第三部の進行役を務めていた女子生徒が、残り二曲だと告げた。 「あともう少しですが、ぜひ最後までお楽しみください」 拍手が起こる。ぺこりと頭を下げ、戻っていく女子生徒と交代で、マイクを握ったのは渉太と愛子、冬翔だった。 「ここで、僕たちから少し、お話ししたいことがあります」 静まり返る。渉太は、単行本をライトに差し出した。 「これは、この間発売になったばかりの小説、『命の音』です。作者の井ノ屋証先生は、僕たちをモデルに、これを書いてくださいました。僕ら三人と、あと、妃奈乃先輩のことを」 続いてマイクを握った愛子は、顔を覆いながら話した。 「妃奈乃は、このお話の完成を待つことなく、亡くなりました。今も寂しいけれど、妃奈乃が生きたこと、語ったこと、感じていたであろうこと、それがたくさん詰まっているこの小説に、私たちは今も救われています」 「今日の演奏会に来てくださいって、先生とお約束しました。でも、ご病気が悪くなって、いなくなってしまって」 言いながら冬翔は、天を仰ぐ。息を吸って、渉太が引き継ぐ。 「妃奈乃先輩の命も、僕ら四人の毎日も、この小説の中で証明されています。それを書いてくださった井ノ屋先生の命もまた、ここで証明されています。井ノ屋先生の小説は、言葉は、先生の命そのものです」 渉太の目は射抜くように、真司と茉希を捉えた。 「小説にこんな力があるなんて、僕は知りませんでした。教えてくれた井ノ屋先生は、悟さんは、今も僕の、僕たちみんなの心に、います、絶対に」 数百の観客ではなく、二人に向けて、渉太は言葉を届けた。
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