第一章 五月六日の幕開き

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 まずもって、遠野悟の自室には、時計とカレンダーがない。ダイニングルームの壁にかかる共用のカレンダーには予定を書いていたが、それを積極的に確認しようという姿勢が見られないのである。毎晩夕食が終わる頃、茉希に予定を尋ねられてからそれに目をやり、今日が何日かわからないので聞き返し、真司がうんざりしながら教え、ようやく明日の朝が早いことに気が付くのだ。朝になってからも、なかなか部屋を出てこない。扉一枚で繋がっているのをよいことに茉希が大声で声をかけると、とてもではないが家を出て行けるような状態ではない悟が顔を出す。真司がよくわからない怒りを滲ませながら支度するよう言わないと、着替えようとか持ち物を用意しようとか、そういう「準備」を始めない。集合時刻、そして移動にかかる時間を逆算するという概念がなく、真司は、部屋から引っ張り出して、そして時計を見て家から押し出すまで、悟の度を越した世話係になっている。とにかく、遠野悟は時間にルーズなのだ。  梅雨に入ったある日も、悟の用事に合わせて早めの昼食をとりながら、説教が始まった。 「そもそも、寝ろって言うまで書いてるだろ。それがおかしい。子供かよ」 「大人のつもりだけど」 「そういう発言は子供がするものね。生活『リズム』っていう感覚がまったくない人、初めて。ショートスリーパーであることに感謝しなさい」 茉希が言う通り、悟は寝坊だけはしない。五時間も寝たらじゅうぶんすぎるくらいで、基本自発的に、時間だからとベッドに入ろうとはせず、書き続けている。早寝早起き、規則正しく教科書のような生活を送る茉希とは正反対だ。 「悟が一人暮らしなんてした日には、誰も会う約束をしてくれなくなるだろうな」 いつでも待ち合わせ場所に一番乗りする真司からすれば、その自由さはある意味羨ましいくらいだった。 「もともと、ほとんど誰とも会わないよ」 「友達の数について話してるわけじゃない。俺だって多くはいないし。そうじゃなくて」 「ムキになっても伝わらないわよ」 三人の会話はいつもこうだった。悟の、凝り固まっているとすら自覚していない考えを改めることは、ほとんど不可能らしかった。  悟が思う存分小説に没頭し、その才能を遺憾無く発揮できたのは、間違いなく二人のサポートがあったからだ。本人にはない常識や価値観を、横から放り込んで行動させることで、彼が世間から乖離してしまうことを防いでいた。  ただ、彼にとって二人がそうであったように、茉希と真司にとってもまた、悟の存在は彼らにとって必要不可欠であった。  天才小説家の名を(ほしいまま)にしていく悟が家にいると、かつて一緒に書いていた頃の創作意欲が日に日に脳内を支配するようになる。並びたいというより、書いて得られる喜びをまた感じたいと思えるのだ。  シフト制で働く真司はシェアハウスを始める前、不規則な就労時間のおかげで、まとまって創作にかける時間を作ることができずにいた。通勤中などにスマートフォンで少しずつ書き進めたりはしていたが、一作書き上げるまでに長い期間を要し、そのうち自信がなくなってボツにしてしまうというのを繰り返していた。三人で暮らすようになって、仕事は同じでも意識が変わった。構想している物語についてや、書くという行為そのものについて、朝から晩まで語り合える相手がすぐそばにいる。その事実は、折れそうになる心を保つのに大変有効であった。短編を何作か、まずは書き上げるということを目標に創っていった。  暦での夏が終わり、尚も気合を入れて、街ゆく人に熱を送る太陽と共に始まる新学期の頃。真司はこの季節になると、胸が痛む。 「また、中学二年生の女の子が自殺したんだな……」 茉希だけが仕事で不在の日、食べ終えた昼食のパスタ皿を流しに運んで一息つきながら、ニュースを観ていた。若い男性アナウンサーは、三人が住む隣の市に暮らす女子中学生が、いじめを苦に自宅マンションから飛び降りたという内容を伝えている。 「九月の頭は、本当にこういうニュースが多くて辛いよな。この後学校側が、紙切れ一枚ずつ生徒に配るだけの『調査』とやらをして、『いじめの事実はございませんでした』とかほざくんだろ」 冷えた麦茶をごくんと言わせて、真司は睨みつけながらテレビを消す。 「いじめって無くならないね。いつどの時代にもある」 「なんで無くならないかって、簡単だろ。いじめた側に、自覚の欠片もないからだ」 いつになく強い口調で、彼は断言した。 「悟、いじめっ子の言い分を聞いたことがあるか?」 「たぶんないけど」 「教えてやるよ。中学時代、俺をいじめてた奴はな、棒読みで『そんなつもりはなかった、冗談なんだ』ってさ。あれ、もしかして俺、お前にいじめの話したことなかったっけ?」 「ないよ、初耳。辛いなら話してくれなくていいよ」 心から言うと、元いじめられっ子は口角を上げた。 「一旦吐き出しとくよ。まあ面白くもない話だ。あいつらはずっと、言葉でだけいじめてきた」 脳内の時間軸を十年以上戻して、真司は話し始めた。
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